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実存浮遊

映画やアイドルなどの文化評論。良い社会になるために必要な事を模索し書き続けます。

高橋優『(Where's)THE SILENT MAJORITY?』は大多数を覚醒させる 

テレビ東京の深夜ドラマ『みんな!エスパーだよ!』の主題歌である高橋優の『(Where's)THE SILENT MAJORITY?』が耳にこびりついて剥がれない。

http://www.youtube.com/watch?v=smocFwf5O9g

このPVよりドラマのオープニングの方が数段かっこいい。


3分30秒しかないのに強烈に身体に食い込み、素肌を震わせ、昨日を打ち壊す。

この曲は自己批評的だ。
出だしで「ラブ&ピースを叫んでたロックンローラーは結局世界に愛と平和をもたらしてないじゃねぇかよ!」と突きつけるのだ。
そしてこの曲自体がラブ&ピースを高らかに宣言している。

セックスピストルズのように、ラブ&ピースを叫ばずともスピーカーからラブ&ピースが噴き出すような曲を目指したいができない。
それはおそらく現代の説明過剰な作品たちのせいだ。
バラエティ番組を見ればいちいち説明が入り、踊る大捜査線では不自然なまでに登場人物が説明的な独白をする。
この現代では「ぶち壊してやろうぜ!」という言葉が「愛してるぜ!」に聞き間違えることができないのだ。


この曲はロックではないのかも知れない。
ただ単純に高橋優がロックンロールを否定するためだけにロックの体裁を取ったのかも知れない。
いろんな奴らに声を掛け仲間を増やしてこのやかましく発狂しそうな静けさをぶち壊しに行こうぜと宣言する。

体制への反体制がロックだとするならば、この曲は反体制なんかじゃない。
体制に埋もれてしまってる奴らへの呼びかけだ。
つまり黙っちまってる奴らこそが真の体制なんだと叫んでる。
体制は腐ってる。
その下で息を潜めてる大勢こそが真の体制だ。

反体制としてロックを標榜していた奴らは結局体制側に踊らされてただけでその後吸収されてしまってるじゃないか!


どんな趣味嗜好の奴らでもいい。
ただ声を上げたいんだったらせっかくだから一緒にどうだい?と呼びかける。
それが高橋優のラブ&ピース。
みんな同じになる必要はない。
自分が愛だと思うものをただ叫んでりゃあいい。

テーマ: 男性アーティスト - ジャンル: 音楽

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知的好奇心を刺激せよ【語り合うことの重要性】 


NHKでマイケル・サンデルの白熱教室をやっていた。

日本のジレンマという番組では若手論客が日本について討論会をしていた。


今何が大事なのか。

宇野常寛氏が「わくわくさせる」というキーワードを言っていたが、これはかなり大事なことだと思う。
政治を見ればわかりやすいだろう。
絶対楽しくないじゃん、あんなの。


ふたつの番組に共通して言えるのは「再配分をどうするか」ということ。

現在なぜ停滞しているのかと言えば、過去の遺産のままで過ごしているからです。
同じシステムに乗っかっていれば停滞していくのは当然。

例えば、当時最先端のエレベーターだったとしても、40年もすれば古臭く感じるのは当然のことですよね。
40年間でさまざまなエレベーター事故があったのに、いまだに同じエレベーターを使っているような状況です。
当然知識として事故に遭わない方法を学び、その知識を拡散することはできる。

でもその知識を知る機会を逃したら、常に危険にさらされ続けるような状況です。


解決方法はふたつ。
エレベーターをバージョンアップするか、そもそもエレベーターに頼らないか。



あくまでわかりやすい例として「エレベーター」を持ち出しました。

先に書いた通り、重要なのは再配分の方法です。


親や国や出生や時代や、つまり「運」によってスタート地点に立てるかどうかが決定付けられるような社会はいけない。


再配分の方法というのは難しい。
なぜならどんな再配分の方法も、損をする者が生まれるからです。


「みんな平等にしよう」
『がんばってる人もがんばってない人も同じだけもらうなんて不平等だ』

「じゃあがんばってる人に多く配分しよう」
『数字に表れないだけですごくがんばってる人もいるよ』

「では先生が評価を決めることにしよう」
『あの先生なら良いけど、この馬鹿な先生に決められたくない』


という具合に。


この記事だけで語りつくすことは不可能なので、あえて乱暴に結論づけると、「親と子を切り離すシステム」というのが大事だ。

キャッチーにするためにインパクトを残す言い回しをしましたが、別に親と子を別々に暮らさせるという意味ではありません。
親の影響をモロに受けない環境が大事、ということです。

そしてこれは親だけではなく、馬鹿な親の言いなりにならない社会、ということです。
馬鹿な先生、馬鹿な政治家、馬鹿なネットユーザーなどなど、馬鹿に支配されない社会というのがとても大事です。


そのためには話し合うことがすごく大事です。
話し合うきっかけを潰そうとする者こそを批判し続けなければならない。

しかもこいつらはすごく頭が良いので、わかりやすく議論のきっかけを潰すようなやり方はしません。
遠回しに外堀を少しずつ埋めてきます。


「楽しい」という嗅覚をつねに働かせて、それを潰そうとしてくる奴らに抗おう。
そして議論に踏み出しましょう。

可能性を狭めるような奴らの言う事なんか聞く必要ありません。


テーマ: 哲学/倫理学 - ジャンル: 学問・文化・芸術

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世界の真実を語る忘年会@高田馬場10°cafeに行ってきました 


宇野常寛氏が主催するトークイベントを見に行きました。

結果から言うと、ニコ生を家で見てた方が良かったです。
すぐ近くに宇野さんとか最強の自宅警備員石岡さんがいたので高まりましたが、良かったことと言えばそれぐらい。
会員しか見られない部分も交通費や手間などを考えれば実際に足を運んだ方がコスト高かった感じがしました。

政治について語ったパートも楽しめましたが、僕としてはやはり去年同様「映画・漫画・ドラマ」などのレビューをして欲しかったです。


『前田敦子はキリストを超えた』の著者濱野氏とのAKBトーク。
哲学者との人生相談。
小人論。
そして今年の振り返りという四部構成。

予約の時点でひとつだけ着座できるトークを選べたんですけど、AKBも最後のトークもすでに埋まっていました。
なので哲学好きな僕は当然哲学を選ぶ。

小人論っていうのがほんとつまんなくて、宇野さん好きな僕にとって唯一彼の論旨の中でまったく支持してないものです。

ざっと概要を説明すると、ここでの「小人」というのは童話『七人の小人』のことです。
お姫様を取り巻くが決してセックスさせてもらえない存在。
王子様になれない存在、ということです。
姫に良いように使われてしまって自分が小人とは気付けない、なども含まれるようです。


2012年後半はこの小人論を押していたようですけどまったくつまらん。
ケツの穴のちっちぇー事言ってんなよ。
女にケツ穴犯されりゃあ済むような問題をうじうじずっと考えてんのがほんとつまんない。

なのでこの問題はまったく聞くに堪えませんでした。

会場は3階層になっていて、一番上でトークイベント、2階で大画面にニコ生を放送し、一番下では食事頼んだり物販スペースになっていました。
んで僕は着座できない時は2階でニコ生を見てたんだけど、集まってきた人たちがおしゃべりしててずっとニコ生の音声が聞こえず。
これが家でニコ生見てれば良かったと思わせる原因でもあります。

しかも小人論が語られてるすぐ近くで、女子大生らしきはつらつ女子が男子大学生たちに積極的に話しかけていまして、男子も女性とあまり話したことないのかさほど会話も盛り上がらず。
女子はあきらかに「小人論」での姫を目指そうとしているのがわかって余計に不快になるのでした。


こういうイベントが人と人とをつなぐ側面も持っているとしたらすごく素晴らしいことです。
でも自分の知識量をアピールするためだけの場だったり、男にちやほやされたいためだけだったり、そんなのだったらクソ食らえです。


トークイベントにはノートを持っていくんですけど、メモすることの少なさにがっかりでした。

AKB論はももクロ論を書く上でも学べましたが、それ以外はまったくおもしろくなかった。
貧乏性なので最後までいましたけど、早く帰った方が得策だったかなと。
実際、帰りが遅かったので漫画喫茶に行ったんですけど、ここで読んだ漫画の方が数倍有意義でした。



小人論はさんざん馬鹿にしたのでもう良いとして、僕が着座参加した哲学の人生相談について。

これがほんとただの人生相談でびっくり。
哲学性がまったく感じられず。
だったら中島らもの人生相談読んでる方がましだっての。

というか社会学者の宮台真司よりも哲学的知性が感じられない哲学者ってなんなんだ。
当然われわれに伝わりやすいように噛み砕いて説明してくれてるんだろうけど。
少なくとも思わずひれ伏したくなるほどの知の巨大性は感じられず。

顔立ちが良く物腰柔らかでいいかげんなところも見えたところが、人として良い人だな、って気はしました。
女性ファンも多かったし。

でも僕は哲学的問題を期待して行ったんですけどね。
相談者のすべてが「良いセックスしてねぇからそんなつまんねぇ問題に陥るんだよ!」ってものばっかりでへきえき。

良いセックスしろ。
良いセックスできねーなら風俗行くなり死ぬようなオナニーするなりなんかしろ。

生きてる時間なんてほんと少なくて、多くは寝てるか性に関わる部分だ。
なので良い睡眠、良い食事、良い性的解放が無い人生なんてクソだ。

断言しよう。
この先生に人生相談するような人生はその後もずっとクソだってな。


この先生を馬鹿にしてるように読み取れますが、そういうことでもありません。
彼の著書を読んだことが無いし、AVメーカードグマの監督でおなじみの二村ヒトシ監督の本でも対談してるらしく、そういう部分は高く評価しています。
なんか宮台真司の真似って気がしないでもないが。
(宮台先生はいろんなAV監督やナンパ師と数多く対談をしてきています)


予約の時にここで取り上げる相談を送信してたんですけど、僕の相談はちっとも取り上げられず。

僕の哲学的人生相談はこうです。

「なぜ今が『今』としか認識できないのかわからない。『今』が1600年でも2520年でもいいはずなのに、なぜ『今』が2012年12月31日なのか」


でも実際は「家庭の不和」「就職の不安」「自分のしたい事が親に認められない」などなど。
はぁ?
勝手にしろ。
この哲学の先生も答えてたけど、ほんとにやりたいなら悩む暇なんか無いはずだ。
「この選択肢ではなかったかもしれない」などという未来の後悔を先取りして今立ち止まってるだけ。
馬鹿か。
そういう奴らは勝手に死ね。


最後のパートは政治についての話題になりました。
平たく言うと自民圧勝について。

ネットで誘引できる投票数なんてかなり少ないって話とか。

宇野さんが来年以降政治に言及する場が増えるかも知れない。
その意味では大変意義のあるトークイベントでした。


僕はノンポリで、政治にまったく関心がありません。
その僕ですら投票に行って政治を憂えるなんてこの社会はどうかしてますよ。

オタクたちが好き勝手漫画論争、アニメ論争、映画論争ができる社会に一日も早く戻りますように。


テーマ: 哲学/倫理学 - ジャンル: 学問・文化・芸術

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『星の王子さま』と絆コスト 


■ 悲しむために行動することが大切なこと


すすめられて『星の王子さま』を読みました。

「本当に大切なことは目に見えない」というフレーズが先行していて、別に読まなくてもいいや、と思ってたのですが、本をいただいたので読みました。
そこにはもっと大切なことが記されていました。

それは「悲しみをしっかり悲しむことができるか」ということです。


未読の方でもある程度ストーリーは知っているのではないでしょうか。
それほど有名な作品ですが、人聞きではまったくこの作品の真意を受け取れません。

「そうか。大切なことって目に見えないものなんだ」と納得して終わるだけではあまりにももったいない。


砂漠に不時着した飛行士がある星から来たとされる男の子と出会い飛行機が直るまで話し合ったことを記録したものです。
自分の星を捨て、いろんな星を渡り歩いた話を聞き、飛行士は男の子と絆を深めていきます。

その男の子が自分の星を捨てた理由は、あるきれいな花が原因でした。

きれいだけど高圧的で素直じゃない花の面倒をみるのが嫌になり、男の子は自分の居場所を探しに旅立ちます。

男の子はその後いろんな人と出会い学んでいきます。

数字を数えることでプライドを保つ男や、他者の行動を自分の命令通りだと言い替える男など、大人のくだらなさを批判していきます。
物語上、男の子は疑問を投げかけるだけですが。


やがて男の子はあるきっかけで見捨てた花のことを強く想います。

この世に唯一の花だと思ってたものが、実はある星に数千もあるほどのありふれた花だったのです。
ですが男の子が世話をした花は唯一のものです。

男の子は絆コストについて学びました。


面倒なこと、自分が嫌だと思う相手との関係、納得がいかないこと。
現代はこのようなことがあった時に回避するスキルばかり特化させてきました。
コンビニエンス化、地方の一律チェーン店設置化、機械による全自動化などなど。

どこにいても風景が同質になり、時間が短縮することで便利になる。
だがとても味気ないものになりました。


男の子は無駄なことばかりしているように見える大人たちを見続け、あの花が凡百のものでしかないと知ったことで、実は面倒なことや時間がかかることや気に入らない相手と関係を続けることの大切さに気付くのです。

この「絆コスト」を掛ける行為というのは面倒臭さ以上のものが待っている。
それは、「その人が居なくなったら悲しい」というものです。

風景が同質になり、利便性が向上するけど味気ない社会というのは、居なくなっても悲しくならない人たちがシステム上つながっています。
だから悲しむ必要などない。
「悲しみ」すらシステム管理され、利便性の名の下に組み込まれています。

ですが「絆コスト」を掛けて構築した関係性は、失うことで計り知れないダメージを背負うことになります。


この物語は我々に「悲しみをしっかり悲しめているか」と問いかけてくる。

男の子を失った飛行士は悲しみを受け入れられないままいつまでも男の子が現れるのを待ちます。
絆コストをかけた男の子と飛行士は、お互いのことを大事に想い、そして失った悲しみにくれます。
喪失を受け入れることができない。
「悲しみ」とはそういうものだ。


園子温監督が『ヒミズ』や『希望の国』を撮影した理由のひとつに、「忘れないため」というのがあるそうだ。

津波の映像を流し続けるテレビ局に対し「被災者が思い出すからやめろ」という抗議があったそうだが、それは違うのではないか、と。

実際映画を被災者の人に見てもらった時に、「よくぞ映像を残しておいてくれた、我々は忘れたくないのだ」という声があったそうです。


「悲しみ」とは何か。

悲しみをしっかりと悲しめているか。

絆コストを支払い、面倒で時間のかかる濃密な関係性を構築し、その関係が喪失する悲しみすら踏まえて生きよ。

絆コストとは目に見えないものなのだ。



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転売屋対策が新たな弊害を生む 

■ チケット転売問題ってなんだ?


以前チケット転売について書きました。
【リンク参照】「チケット転売はなぜいけないのか」

この時書いたことを要約します。


・チケット転売はアーティストに利益が行かないからダメだと批判する者は、CDやDVDの貸し借りについて批判しないのは納得できない

・僕が転売屋を嫌悪する理由は、チケットが余ると価値が無くなってしまうから

・違法性は誰かが肩代わりして利益を得る


今回はもう少し「チケット転売」の論を広げて考えたいと思います。

チケット転売についてと、ファンクラブによるチケット獲得についてです。


まずはチケット転売について考えたいと思います。


チケット転売がなぜ起こるのか。
それはチケットに価値があるからです。

価値があるものは流通します。
売りたいと思ってる人が欲しい人に売る。
商売は基本的に原価や人件費や家賃などが加味された値段が提示されます。
他に、商品が大人気の場合はどうしても欲しい人が発生しますので、中にはなんとかして入手したいと考える人も出てきます。
そしてやりとりされるのは物だけとは限らず、行為であったり時間であったりもしますね。


チケット転売についてよくある批判に、「転売のために買っているのがいけない」というのがあります。
でももし仮に、チケットが当選した瞬間に行けなくなったので放出した人はどうなのでしょうか。
この人は許されるということになりますね。

他にも、「本当に行きたい人に渡らなくなるからダメだ」という意見もあります。
これも、もし転売した人が誰よりもそのアーティストのファンだったらこの批判は成立しなくなりますね。
ファンの深度などそう簡単に計れるものではありません。

なので論理的に転売屋を批判することなど不可能なのです。
もし転売屋を無くしたいのであれば論理で挑んではいけません。
どんなに論理的に攻めても必ずレアケースが発生します。
一個のレアケースごときで破綻してしまうのでは永久に転売屋は無くなりません。



■ あーだこーだ言わずにムカツクと言おう


何かを潰したいと考える人はいろいろな理由をつけます。
もっともらしいことを言うことで自分が正しいと思い込みたいのです。

例えば売買春の是非はどうでしょう。
売買春批判論者は、「金で性的サービスを売ると魂が傷つく」と言います。
では金で売らないセックスでも魂が傷つく人はほったらかしでいいのでしょうか。
そして魂が傷つかないセックスワーカーは存在しますので、売買春批判論者はすでに破綻してますね。


他には児童ポルノにイラストを含めようとして批判する者がいます。
児童ポルノがなぜいけないかと言うと、自分の判断で性交渉ができない者に性愛を強要するからです。
つまりは被害者がいるからいけないのです。
でもイラストは被害者などいません。
なので児童ポルノとして批判するのはありえないのです。

これもすでに批判が破綻してますね。


このように、何かを批判した気になっている者は、「魂が傷つく」などあいまいな表現をしたり、「児童の性的なイラストを好む者は頭がおかしいから逮捕すべき」など途中の論理をすっ飛ばしてとんでもない論を「正論」と思い込みがちです。



早い話が「嫌いなものは嫌いって言えばいいだけ」問題です。

でもただ嫌い嫌い言ってるとかまってもらえないので、もっともらしく見えるだけの空論を振りかざしているのです。


チケット転売問題も同じ。
批判してる人は「なんかムカツク」ってだけの理由なのに、なぜいけないかなど必死に考えてます。

そして「法律で規制されてるから」と言い出す始末。
児童ポルノにイラストが含まれるのを必死に抗っている者たちが大勢いるのを知らないのでしょうか。
法律はできてしまったら覆すのはなかなか難しくなります。
だから「法律で決まってるからダメなものはダメなんだ」という思考はよくありません。

もし単純にチケットを買うのが違法になったら従うってことですよ?
(同じレベルに落として例えたら馬鹿みたいになってしまった)


■ 転売屋を消滅させることはできるのか


転売屋を消したいのであれば、「なぜ転売屋が永続しているか」を考えなければいけません。
転売屋に利点があり、利用者も利用する価値があるから、転売屋はずっと無くなりません。


5,000円のチケットが10,000円で転売されてるとします。

この場合10,000円で買う人がいるということです。
では最初からチケットの定価が10,000円だった場合はどうでしょうか。
この場合、「5,000円では行くけど10,000円では行かない人」を運営側があらかじめ選別していることを意味します。
(つまりはどの定価だろうと、それより以下しかお金を払えない人は常に切り捨てています。当然の話ですね)


ですが、世の中にはお金持ちは居続けますから、定価10,000円でも上乗せされたチケットを買う人はいます。

つまり、利益を生み出すものはずっと売り出され続ける、ということです。
これは当たり前過ぎるほど当たり前ですね。

もし仮に、チケットが定価10万円で売り出されたとしましょう。
この場合は、その講演に10万円の価値がある人は買うし、出せない人は買いません。
それだけです。
現在10万円と言えば結構な価値があります。
なのでかなりの人が「チケットごときに10万円は出せない」と判断するでしょう。
結果転売屋はうまみが無くなり消滅することでしょう。



では先程の例の続きで、5,000円のチケットを10,000円で転売する人がいる中、5,100円で転売する人が大量に現れたらどうなるでしょう。
当然市場の原理が働き5,100円の転売屋チケットが売れるでしょう。

ただ問題なのは、チケットの枚数が限られている、ということですね。
5,100円で売る転売屋の総数と10,000円で売る転売屋の総数の比率の問題になります。
転売屋の総数はそれほど増減が無いでしょう。日本国民の一定数が転売屋なわけで、急激に100万人増えるとかはありえません。
会場が30,000席の場合でも1,000席の場合でも、「チケットが行き渡る確率」は同じわけですから、会場のキャパシティの何割かが10,000円転売屋が占め、何割かが5,100円転売屋が占め、何割かが残りを所有してます。

だからもし10,000円転売屋を駆逐したいのであれば、5,100円転売屋と一般層がより増える必要があります。

ですがチケット枚数は限りがある。
10,000円転売屋を駆逐しようとすればするほど、チケット獲得参戦者が増えてますますチケットは取れなくなります。

当たり前ですね。


市場を操作して転売屋を駆逐すると望むべき結果を生まないようです。
転売屋を駆逐するのが目的で、チケット入手が目的でないのであればこの流れで自然と転売屋比率は薄くなります。

チケットが取れないのは転売屋のせいのみではなく、単純にキャパシティに対して講演を見たい人が多過ぎるだけです。



■ ファンクラブ優先チケットはどんな問題を生むのか


「転売屋対策にファンクラブを設けろ」という意見があるようです。
転売屋はファンクラブに入らないとでも思ってるんでしょうか。
人は自分の利点になる行動をするに決まってます。
チケット転売の利益が見込めるならファンクラブに入るでしょう。転売チケットにファンクラブ費用を上乗せして。


ではファンクラブ優先チケットはどのような形が望ましいでしょう。

当たり前ですが万人が幸福にはなれません。
例えばファンクラブ優先チケットが取れても後ろの席だったら不満を言うでしょうからね。


転売対策としてファンクラブ優先チケットが、完全に個人確認をすることについて考えましょう。


まず思い浮かぶのが、入場時のチェックですね。
開場から開演まで2時間は無いとダメなのではないでしょうか。
チケットをチェックする係員を多くすることも必要になってきます。
時間とお金が掛かりますね。
当然費用はチケット代や物販代などに上乗せされていきます。


そして完全に当たった人しか行けないという事になれば、当然ですが公演に行ける人は少なくなります。

転売屋が存在できるようなゆるさがある時は、行けなくなった公演チケットを他者に譲ることができたので、チケットの価値は生き続けます。

でも完全に当たった人しか行けないというのであれば、もう当てるしか行く道はありません。


僕が転売屋だとしたら、2枚応募の場合は2枚分+利益分の値段で売ります。
入場を売った人と一緒に入り、あとは会場を出る。
転売チケットを買った人を入場させるまでが転売屋、という感じですね。


そう考えると、チケットはもう一人一枚だけしか買えなくなります。


管理費用が上乗せされて高くなったチケット代。
しかも一人一枚なので基本は単独で参戦することになります。

段々敷居が上がってきました。
参戦への間口が狭くなった公演。
僕の個人的な考えでは、このガチガチのシステムを組めば転売屋は排除できますが、その先人気は無くなって行くと思っています。



ではファンクラブのみが参加できる公演はどうでしょう。

今度は会場選びが問題になってきます。

ファンクラブの人数。加入者の住所。場所によりどれだけの参加率になるか。公演告知からチケット販売までどれだけ追加加入するのか。
いろいろ思考し予測する必要があります。

ですが、例えばファンクラブ加入者が5万人の時に10万人規模のスペースを借りるとしましょう。
ファンクラブに入ってれば誰でもチケットが買えます。
でも10万人分の場所代が約5万人のチケット代に上乗せされます。
単純に考えるとチケット代が5,000円だったのが10,000円になり、ワンドリンク制500円だったのが1,000円になるということですね。


こうなると、5,000円だったら行けたけど10,000円だったら行けない人が出る問題が再び出てきます。
ファンのお望み通りチケット転売を一切排除したというのにチケット代が高いから行かないなどと言われてしまうなんて、運営はなんてかわいそうなのでしょう。



まとめます。

何事もバランスが大事です。
ファンが望むバランス。運営が今後を見据えて取るバランス。公演回数のバランス。会場のキャパシティのバランス。
いろいろなものが複雑に絡み合っています。
どんなに学術的な論考がなされようと、なかなか社会が平和にならないのと同じように、複雑な問題というのは唯一の答えを持ちません。
なので試行錯誤をしていろんな状況を作り出してデータを取り、改善点を見つけまたあらたな試行錯誤を繰り返す。
過渡期である自覚と覚悟が必要と言えます。


そして、違法なものがはびこっているように見えるということは、それらがいることで何故かうまく回っているということを指します。
なぜ違法なのかも含めて考える必要があります。


転売屋が存在できるようなゆるさがあることで、つまりグレーゾーンがあることで恩恵を受けられる人が大勢いる。


暴論ですが、「チケットが外れてもなんとかすれば公演を見られる」のと「チケットが外れたら絶対に公演を見られない」のとではどちらが希望通りでしょうか。


さらに暴論を重ねます。
30,000席の会場で転売屋が100席おさえたとします。
確かに転売屋が居なければ100席分ほかの方々に当たったことでしょう。
でもそれを争っているのは30,000席に外れた残りのファン20,000人かも知れません。
転売屋が居なければ100席に対し、200人に1人の確率でチケットが取れたかもしれない。
でもそれは転売屋を批判しているあなたなのだろうか。
30,000席のキャパシティに50,000人の応募があり、そこから落ちてる時点で転売屋の影響など微々たるものだろう。
何度も言うがこれは暴論なのでここに挙げた数字はかなり恣意的で誘導的だ。

だけど僕が言いたいことは書けた。
チケットを当てるのが最終目標ではなく、公演に行くことが大事であり、あきらめなければ公演に行ける可能性が常に有り続けるグレーゾーンは有益だと思う。


良いことだと思って行なったことが予期せぬ結果を生む。
有史以来何度も繰り返されてきたことだ。


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ことわざから学ぶ社会学第1回 

■ 『罪を憎んで人を憎まず』 【ことわざで学ぶ社会学 第1回】


社会学とは一体どういう学問なのか。

誰もが知っていることわざを題材に、社会学からどのような思考が得られるか、社会学がどのような学問か書いていきたいと思います。


第1回は『罪を憎んで人を憎まず』です。


■ 非常時に本性が表れる


中国である出来事が起きました。

スイカを積んだトラックが事故に遭い、運転手が助けを求めるも群衆はスイカを盗むのに必死で運転手を助けず死亡してしまった、というものです。


ここで中国を批判することは容易です。

ですが、問題はそこではありません。

なぜなら我々は、スイカに群がる人たちのような生活環境にないからです。
彼らのような状況に無い我々は、彼らと同じ状況になった時にどのような行動を取るかわかりません。

なので彼らを批判したところで無駄です。
それよりも「人命よりもスイカを大事にする環境」を批判すべきです。

つまり「罪を憎んで人を憎まず」です。

人は環境次第で善人にも悪人にもなる。
その人個人を責めたとしても、環境が変わらなければ新たな罪人が生まれ続けるだけです。

なので罪が生まれる環境を見直すべきでしょう。


そして、環境というのはいつどうなるか誰にもわかりません。
明日我々が、命よりもお金を取らざるを得ない環境に陥るかも知れません。



本人に責任を負わせず、「なぜその出来事が起こるのか」という環境に注目する。
これが社会学の考え方です。

「その人が異常だから我々とは関係無い」とする考え方を批判するのが社会学です。
(「精神異常者」などにカテゴライズすることを「帰属処理」と言います。そして異常者と健常者を分けて考えることを「切断操作」と言います)


システムに注目し、起こりうるメカニズムを解明することで問題の根本的な部分を見直すのが社会学です。


「なぜ事象は発生するか」
広い視野と豊富な知識が必要とされる学問です。
物事は様々な出来事が複雑に絡み合って生まれます。

まさに「風が吹けば桶屋が儲かる」です。
風がどこから吹いてるのか。
設けた桶屋がその後どのような影響を社会に与えるのか。


今後もことわざを題材にして社会学について考えていきたいと思います。

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弘前再建に何が必要か 

■ 「弘前市の都市開発は俺に任せろ」:住みよい町づくりVS魅力的な町づくり


魅力的な街とはどういうものでしょう。


先日田舎に帰る機会があったのですが、5年ぶりぐらいに帰った街は、退廃を加速させ、より魅力を失わせていました。


「僕に街づくりを任せて欲しい」
思わずこうつぶやいてました。



多くの地方都市は開発に失敗しています。

駅前は閑散とし人がおらず、近くの商店街がシャッター通りとなり軒並みつぶれている。
車で移動可能な郊外にできた巨大ショッピングモールが休日賑わうが、そこは全国のチェーン店が集中し、風景は地域性を失っている。

やがて「どこでも同じ風景」が広がり、そこじゃなければいけない理由が喪失し、その土地は求心力を失います。


これは人口の問題ではありません。
活き活きとしているか、という問題です。

その土地のために生きているという感覚があるかどうか。

今回は「町づくり」について考えたいと思います。


■ 住みよい町と魅力的な町は共存しない


僕は青森県出身なので青森を例にします。

青森市も弘前市も駅前開発に失敗しています。
メインストリートはシャッターが閉まっている店ばかりで、若者が遊ぶようなところもほとんどなく、そもそも人通りが少ない。


青森市は夏のねぶた祭り、弘前市は春の桜まつりを観光資源にしています。

でも期間が限定され、天候に大きく左右されるので、これだけをあてにしていては当然つぶれます。



僕が思う一番の失敗は「住みよい町」と「魅力的な町」を混同しているところです。

「住みよい町」というのは市民が暮らしやすい町です。
「魅力的な町」というのは暮らしやすくはないけども何度も行きたくなる町です。


なので「住みよい町」と「魅力的な町」は共存できません。

例えば「カジノ」はどうでしょうか。
「カジノ」は魅力的で行きたい人が多いでしょう。
ですがすぐ隣に「カジノ」を建てられたくない人もいるでしょう。

「うるさい」とか「治安が悪くなる」とかいろいろ理由はあるでしょう。

なので市民のために暮らしやすい町を目指すか、市民の住みやすさはひとまず置いておいて、他県から人が来たくなるような町を目指すかを明確にする必要があります。
目指すべき地点がわからないまま漠然と町づくりなんてできませんからね。


弘前は弘前城桜まつりという観光の一大イベントがありますから、ここを活かさない手はありませんね。


■ 弘前市駅周辺の開発


当然ながら弘前市全体を観光地にする必要などなく、僕が言いたいのはしっかり住み分けをしよう、ということです。

駅周辺に活気が無いのは致命的です。

では駅前開発の失敗の原因はなんでしょう。


弘前市の都市開発の失敗は駅前にホテルを建てたからです。


他県から観光に来た人が駅に到着しホテルにチェックイン。
近くにはコンビニがある。

これでどうやってお金を使ってもらえるというのでしょう。
駅から弘前城までバスで行けるが、弘前城周辺には図書館や裁判所があるばかり。
誰が弘前まで来て図書館に行くというのでしょう。

もともと建てられていたのならそれでいいんです。
観光地なら周囲にもっと歓楽街を作るべきです。


駅を降りてすぐにホテルに泊まれるのでその周辺ではお金を落とさず、観光地でもその周辺でお金を落とす店がありません。



せめて駅周辺は「住みにくいが魅力的な町づくり」を目指すべきです。
駅周辺に利便性は必要ありません。
ごちゃごちゃしてる方がいい。

宿泊施設は少し離れた場所に建設すべきです。

弘前には鍛冶町という飲み屋街があるのですが、この付近にあると良かったですね。
駅から結構離れてますけど。


■ 汚れた町を計画する


「住みよい町づくり」は市民の声を聞いた上で設計していけばいいでしょう。

当然、全部受け入れることはできません。
全部受け入れ、選挙の票を稼いだ結果が今の弘前市なわけですから、市民の声に従うと町は衰退するのは自明です。

市民の声に逆らうような人を市長にすべきですが、市民はそんな人を市長に選ぶ民度がありません。


民度については、弘前市にある大きな本屋である紀伊国屋書店とジュンク堂を見れば先が暗いのは目に見えています。
ネットでも買えるような本ばかり置いていては、交通が不便な弘前ではネット通販に食われる。
せめてジュンク堂は書店員の好きなようにコーナーを設置させていただきたいです。
このままでは弘前市は知が育ちません。


話を戻しましょう。

汚れた町を計画する、というのは難しい。
僕の中での魅力的な町というのは、適度に汚れている町です。

適度に放置自転車があり、風俗店があり、古本屋がある。
放置自転車を厳しく取り締まるような町は魅力的ではありません。
監視カメラだらけの町も魅力的ではありませんね。

ちょっとした犯罪でもいつでも逮捕しようとしている町は魅力的ではありません。

このような町を意図的に設計するのは難しいです。
まず市民の賛同を得られません。
そして現在構築されてしまった町を再び壊すことを誰もやろうとしません。


ですがシンガポールにこのようなエピソードがあります。
清潔な街で有名なシンガポールですが、オカマ街などの色街を排斥し、清潔な町づくりをしたそうです。
すると観光客が激減。
そこでなんとシンガポール政府は再び色街を構築し、観光客も戻ったそうです。


なので弘前市はまだまだ立ち直るチャンスはいくらでもある、ということです。


まずは条例を見直して色街を復興させます。
人間味あふれる人材を育てたいのであれば、その町にいろいろな人が住んでいることを知らせる必要があります。
「こんな生き方もできるんだ」と子供たちに見せることで、自己信頼が上がるし、いろんな人が生活できるその包摂性(包み込める力)を持つ町を愛することができます。



汚れた町を意図的に設計することで遠い未来をも見据えた社会を設計することができます。

色街を排除することで犯罪がアンダーグラウンド化するのが学問では常識ですが、それらも解決可能です。
色街を可視的にすることで犯罪が地下化せずにすむ。表面の内に取り締まれるし、犯罪抑止効果もあります。


つまり、「住みよい町づくりではなく観光客などにも魅力的に見える町づくり」を目指すことで、結果的に住みよい町になります。

何度も言うように、「住みよい町づくり」を目指した結果が誰も魅力を感じない空疎化した現在なのです。
住みよい町を目指したはずが、住む価値もあまり見出せない町になる、という逆説に敏感になるべきです。


■ 弘前よ立ち上がれ


このままでは青森は潰れるでしょう。

なので今までとは違ったことをしなければなりません。


弘前市にはかつてダイエーがあったのですが、現在は閉館しており、巨大な廃墟のようになっています。
駅の近くにこのような閉店した建物をずっとそのままにしているなんてどうかしています。

なのでまずここを経済特区にしましょう。

ここに出店する人は税金を無くします。
有名チェーン店を3つぐらい入れて、あとは地元の人が出店しやすいようにするのがいいかな、と考えてます。

このへんの割合についてはもっと計算した方がいいんでしょうけど、そこは経済学者とかに任せた方がいいとおもいます。




・駅の近くに宿泊施設を置くな
・色街を復興せよ
・ダイエー跡を経済特区にせよ


などなどいろいろ書いてきましたけど、こうすることで間違いなく人が動きます。
経済を動かすにはまず人を動かさなくてはなりません。

コールタールのように停滞した町に未来は無い。

なので今すぐ僕を弘前市長にしなさい(笑)。


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温暖化問題が善なる道を覆い隠す 

■ 今何をすべきか【環境問題なのか倫理問題なのか】


地球温暖化問題は政治問題。
これは学問的に当然のお話です。

「地球温暖化」「エコ」などで利益を得る者がいる、ということ。
なので地球温暖化対策をしたところで、地球の温暖化に影響をほぼ与えられないし、温度を下げたいならもっと金が掛からずにできる方法がいくらでもあるし、そもそも地球は温暖化していません。


『地球と一緒に頭も冷やせ!温暖化問題を問い直す』ビョルン・ロンボルグ著山形浩生訳
『偽善エコロジー「環境生活」が地球を破壊する』武田邦彦著
を参考にしています。

以下はそのまとめのようなものですので、もし批判がある場合は原著を一読の上お願いいたします。


■ 真のエコQ&A


箇条書きで現在有名になってしまった嘘情報を批判していきます。
次の項目で軽く僕の所感を述べたいと思います。


Q、北極の氷はとけているか

A、とけていない。全体を見ずにある一箇所だけに注目すると、氷が崩落するところもあるが、全体で見ればほぼ変わっていない。


Q、氷がとけてホッキョクグマが死んでいるではないか

A、狩猟で死んでいる数の方が圧倒的に大きい。ホッキョクグマを救いたいなら狩猟者を取り締まるべき。


Q、暑さによる死亡者が増える

A、二酸化炭素削減に掛ける費用をエアコン設置に使うことで多くの人が救える


Q、温暖化は水不足を呼ぶ

A、熱帯でも大量に雨が降る。水不足問題は水の供給問題だ。


Q、レジ袋を減らしエコバッグを持とう

A、レジ袋は質の低い石油で作れるがエコバッグは質の良い石油で作られるので、石油の消費を加速させる


Q、リサイクルは良いこと

A、良くない。効率が悪く、「リサイクルできるから」という思い込みが消費と製造を加速させる



ざっとこんな感じでしょうか。
次の項目で所感も交えつつ説明していきます。


■ 目的を履き違えるな


人は自分の行動が良いことだと思い込みがちです。
それが国から言われたり、専門家が示したものだと言われてればなおさらです。

ですが一番最初に書いたとおり、温暖化問題は政治問題です。
なので発言には当然利権がからみます。
専門家の意見も、「専門家を頼んだのが誰か」によって信憑性が変わってきます。

偏ったデータを見せて自分の有利にことを運ぼうとするのは誰でもやってしまう。
例えば、親にゲーム機を買って欲しい時に「みんな持ってるもん」と言ったことがある方も多いでしょう。


データを提示された時には、誰が提示しているか、どの範囲を提示しているか、これらをしっかり見極めることが大切です。


それだけで前項のように批判が簡単になります。

地球の温度が上がってる。その結果ホッキョクグマが死んでいる。だから温度を下げよう。そのために二酸化炭素を減らそう。

これらはまったく論理的ではありません。

ホッキョクグマを救いたいなら狩猟者の取り締まりを強化すべきです。
そのほうが即効性があり低コストでできます。


温暖化により熱で死ぬ人が増えるという意見も一側面だけしか伝えないのでフェアではありません。

確かに熱中症などで死ぬ場合があります。
ですが多くの場合人は寒さで死にます。
なので寒さで死ぬ人が減るので温暖化は良いこととも言えるでしょう。
それにまず、世界で二酸化炭素の量を減らして100年後にほんの少し温度を下げる可能性にかけるよりも、エアコンの設置を急いだ方が効果的で低コストで済みます。


何が言いたいか。

「二酸化炭素を減らすのが目的化していて、本質を見失っている」
ということです。

何を救いたいのか。そのために今何ができるか。

二酸化炭素を減らすのが目的ではないはずです。
未来の子供たちを救いたいのであれば、二酸化炭素を減らすことに力を入れるよりも、開発に力を入れるべきでしょう。
現在苦しんでいる人を救いたいのであれば、軍事費を救済に使えばいい。


脳機能学者の苫米地英人は、軍事費を食糧などの支援に使えば多くの人を飢餓から救え、さらに、そのような国に戦争を仕掛けることは評価を下げ他国から非難が集中するから、そんな馬鹿なことをする国はいない、と説きます。
つまり防衛費が無くとも防衛できてる、ということですね。


ミスリードにより、もっと低コストでもっと効率的な手段がいくらでもあるにも関わらず、すごく非効率な方法を強いられています。

自分が「エコのため」と思ってやってたことが、まったくエコではなく、むしろ自分が目指すものとは逆だった場合、すごくむかつくと思うんですよね。
だから、もっとデータの見方と発言の信ぴょう性について注意を寄せた方が良いと思います。
そのための材料はこの世にいくらでもあるんですから。

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法規制、税金、ツイッター 


ツイッターでのつぶやきをブログに反映させているんですけど、思いついたことをメモ代わりに使っていて、社会的なこともいろいろ書いてあるのでその補足をしようかと思っています。

ツイッターは140字制限があるので、要点を集約し、かつインパクトのある文言に走りがちです。
なので当然語りえぬ部分というのが出てきます。

「ツイッターは議論に向かない」という意見がありますが、僕は「ツイッターは議論の出発点に最適だ」と考えています。
そもそも議論の場は「開かれている事」こそが大事で、適した場所なんて存在しないのです。
たしかに文字数制限やフォロワーによる読み手の限定性という面では議論に不向きでしょう。
でもそんなことを言い出したらどのような議論場でもなんかしら不都合はありますからね。


なのでこのツイッターと補足が議論の火種になることを祈って書き進めます。


社会についてつぶやいたのですが、まず最近のつぶやきから6個抜粋したのを先に転載します。


・増税したいのは予算下げたくないから。「天下り先を守って市民守らず。」今増税の決断をするのは国賊である。


・ロフトプラスワンで局部の一部を切り取り食べたイベントで「公然わいせつ罪」が適用されたがこれは明らかに不当逮捕。見たい人が集まってるのだから公然わいせつ罪なわけありません。不当逮捕や法の拡大解釈は「市民をいつでも逮捕できる」という政府からの脅しです。


・違法ダウンロード法でYoutubeやニコニコ動画も逮捕対象かもしれない。曖昧で拡大解釈できる法律は悪法です。別件逮捕も自由自在。批判するだけで家宅捜索されちゃあたまったもんじゃない。増税騒動に絡めて波状攻撃とは市民もなめられたもんだ!


・「批判するなら代案も出せ」というのはおかしい。間違いと思ったら間違ってると言える場こそが大事です。代案が無くても間違いは間違いなのです。


・ツイッターの速報性と伝播性はジャーナリズムを超える。問題点は、発信者にジャーナリストとしての覚悟が存在しない点と、フォロワーの質によってリプライやリツイートに格差が生まれることか。


・スカート短い女の子が「痴漢撲滅」を呼びかけるのはおかしい、という論調こそがおかしい。格好で「痴漢していいかどうか」を判断してはいけません。痴漢はいけないことなのです。


ではひとつひとつ補足していきます。


■ 増税は誰のため?

・増税したいのは予算下げたくないから。「天下り先を守って市民守らず。」今増税の決断をするのは国賊である。


物事はシンプルに考えることで構造が見えてきます。
政治家の給料は税金から支払われてます。
だから増税したい。
それだけの話。


もともと税金というのは「自分ができないことを肩代わりしてもらう」という名目で納めます。
道路つくったりね。医療頼んだり。

これが企業になると、例えばおいしい料理食べさせてもらったり、好きなCD作ってもらったり、ということになります。


提供する代わりに対価を得る。
これは政治だろうが企業だろうが変わりません。

「増税したい」というのは、レストラン側が「もっと良い料理提供するから値上げします」と言ってるのと同じ。
でも実際は、給料を上げたいだけなのです。


現在の予算を見直すことで60兆円浮くと試算されています。
自民党政権だったときの予算をそのままシフトさせ、さらに民主党政権の予算を上乗せしたので、かぶってる部分が60兆円分あると。

でもこれを無くすと天下り先が減りますから、お金が欲しい政治家は無理に天下り先を無くそうとしません。
これは次長課長河本の母親の生活保護費不正受給問題と同じ構図ですね。


無理に返す必要がなく、チェックする機能も無く、手続きのわずらわしさがあるのだから、わざわざ受給を止めない。
政治家も、わざわざ議員年金無くしたり、天下り先からの退職金を無くしてまで行動をしたくないので、現状維持のために増税を声高にあおる。


だから次長課長河本を批判してる政治家がいるとしたら、そいつは自分のことを棚に上げている馬鹿野郎なので、絶対に票を入れてはいけません。


消費税が上がるそうですね。
これでいよいよ日本崩壊が明確にみなさんに見えるようになります。



■ 不当逮捕は絶対に反対しなければならない

・ロフトプラスワンで局部の一部を切り取り食べたイベントで「公然わいせつ罪」が適用されたがこれは明らかに不当逮捕。見たい人が集まってるのだから公然わいせつ罪なわけありません。不当逮捕や法の拡大解釈は「市民をいつでも逮捕できる」という政府からの脅しです。


ショッキングな内容に目を奪われますが、物事の本質を見抜くのはとても大事なことです。

ツイッターでつぶやいたとおりですね。
「公然わいせつ罪」というのは、公衆の面前で見たくない人が見ないで済むための権利を守るための法律です。

ロフトプラスワンでは、イベントの内容を告知し、わざわざお金を払って見に来ているのですから、突然嫌なものを見せられたわけではありません。


このような不当逮捕は大変危険です。
もし今回の件で逮捕されて刑が下されるとなると、今度は裁判でこの件が基準になりますので、このような集まりではいつでも逮捕でき刑務所にぶち込むことができるようになってしまいます。

となると次は「大勢が集まる場所」で「見たくないものを見たと感じた人」がいれば逮捕対象に徐々にずらされていく可能性もあります。
映画館とかですね。

条文に「ただし映画館での上映は除く」という一文が無い限り、この「法の拡大解釈」は生まれ続けます。
(法律に詳しくないので調べてませんが)


国はいつでも国民を逮捕できるように、わざと条文をあいまいにしておきます。
一揆をおこさせないように刀狩りをしたような感じですね。

発言や行動という刀を奪うことで国民を操作しているのです。


■ 法律のあいまいさを糾弾せよ

・違法ダウンロード法でYoutubeやニコニコ動画も逮捕対象かもしれない。曖昧で拡大解釈できる法律は悪法です。別件逮捕も自由自在。批判するだけで家宅捜索されちゃあたまったもんじゃない。増税騒動に絡めて波状攻撃とは市民もなめられたもんだ!


これはネット環境にあるみなさまに身近な問題でしょう。

違法ダウンロードの「違法」ってどのあたりなの?という問題ですね。

パソコンに詳しくないのですが、Youtubeやニコニコ動画は、自分のパソコンにダウンロードしながら視聴するというタイプです。
ファイルとして保存してるわけではありませんが、一度見た動画は何度もサクサク見れると思いますけど、それはそういう仕様です。


なので「違法だけどファイルをダウンロードしよう」というのではなくても逮捕される可能性があります。
なぜなら条文があいまいだからです。


法律を作る行為についても、シンプルに構造を見ればわかりやすいです。
社長が自分の首をしめるようなルールを社員に徹底するような会社はありませんよね。
いつでも社員を切り、自分だけが助かるようなルールを新たに作った。
こんな腐った会社がつまりこの日本です。


■ 開かれた議論

・「批判するなら代案も出せ」というのはおかしい。間違いと思ったら間違ってると言える場こそが大事です。代案が無くても間違いは間違いなのです。


これは言ってる人の意味がわかりませんね。
なんで代案を出さなきゃいけないのか。

例えば「人を殺すな!」って批判をしたら、人を殺すことに対する代替案も出さなきゃいけないわけ?
足を踏まれて「足踏むな!」って批判したら、足を踏む代わりの案をその人にお願いすんの?
馬鹿か。


誰でも批判できる場こそが大事だ。
そこから議論すればいいじゃん。


■ ツイッターが日本を変えるのかも

・ツイッターの速報性と伝播性はジャーナリズムを超える。問題点は、発信者にジャーナリストとしての覚悟が存在しない点と、フォロワーの質によってリプライやリツイートに格差が生まれることか。


ジャーナリズムが死んでしまった日本にとって、ツイッターというのがその代わりになるのかもしれない、というつぶやき。

報道で大事なのは魂です。
でも日本の報道は政府の顔色を見てネタをもらってます。

反面ツイッターは誰の顔色も気にしませんので、見つけたものを画像と一緒に拡散させる。

当然改善すべき点は多々あって、ツイッターリテラシーとでも言えばいいのか、つぶやきを自分の思考で判断する能力がまだまだ欠如してるでしょう。
(そもそも日本全体のメディアリテラシーが各国に比べてもかなり低いので当たり前なんですけど)


でも現在の腐った報道体制をぶち壊すにはツイッターは欠かせないでしょうね。
だからツイッター規制法が出そうになったら全力でつぶしに行くしかないんですよ。
そしてわかりやすく「ツイッター規制法」と掲げませんからね、わざわざ。


■ 犯罪は犯罪

・スカート短い女の子が「痴漢撲滅」を呼びかけるのはおかしい、という論調こそがおかしい。格好で「痴漢していいかどうか」を判断してはいけません。痴漢はいけないことなのです。


これも当たり前のことですね。
痴漢は犯罪です。
だから誰が言おうとその真実は揺るぎません。

どんな極悪人が言おうが、どんな悪徳政治家が言おうが、どんな子供が言おうが、どんな変態が言おうが、「痴漢撲滅」というメッセージは正しいのです。


人はよく発言者に左右されます。
立派な人に見えるから立派な発言だ、とか。自分より馬鹿な奴に見えるから信用できない、とか。

そうなると議論とはまた別のところで言い合いになるので、まったくもって時間の無駄になります。

発言というのはどんなやつでも、どんな思想の持ち主でも言って良いに決まってます。


■ まとめ

長くなりました。

こうしてまとめてみると、「場が狭くなること」に対してすごく憤ってるみたいですね。
(他人事)


サッカーも野球もバスケも出来てた体育館なのに、校長がバスケ嫌いだからって理由でバスケできなくなったら嫌でしょ。
そういうお話です。
そしてサッカー民は「俺サッカーできてるから不自由無いよ」と言っていて、「そんなこと言ってるといずれサッカーもやれなくなるぞ!」と教えたくなるんですよね。

こういう構図を複雑に見せて国民をあざむいているのが国です。




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社会不信:言葉を捨てよう 

■ 「過剰に論理的である理由は非論理的である」


最近論理的な文章ばかり書いていたので、今日は思うままに書き連ねていきたいと思います。


過剰に論理的で緻密に文章を構築し、相手を徹底的に説き伏せる、と思われているようですが実際はそうではありません。
(自分で自分をほめる僕だ)


「過剰に論理的である理由は非論理的である」

論理的にならざるを得ない理由は論理的に説明できません。

なぜかそうせざるを得ない。


論理的でなければ哲学も社会学も先に進めません。

なので論理的思考を得たいとは思っています。


哲学も社会学も論理的思考が必要です。

正確には「哲学史」「社会学史」には論理的思考が必要。

「史」とは歴史のことですね。
これまで哲学ではどんなことが議論されたか。
これまで社会学ではどんな思考がなされたか。

これらはすでに存在している部分なので、論理的に取り入れることが重要になります。


でも大事なのは「哲学史」ではなく「哲学」。「社会学史」ではなく「社会学」です。


「哲学」と「社会学」に必要なのは論理を超えた部分だと思っています。
とくに哲学はそうですね。

社会学は「組み合わせ性」が大事かなと思ってます。

実際の社会学は数理的な思考が必要なんですけど、我々凡人にはそこまでは無理です。


論理を超えた部分。
直感。

さらに言うと「世界からの福音に触れられるかどうか」が重要です。



■ 自分が嫌いだと思うものを排除すれば幸福になるのか


哲学は社会の内部にいては切り開けません。
哲学の素晴らしさは、社会を破壊し世界の福音に到達しようとする気概です。

哲学は道徳を疑います。
哲学は倫理も疑います。
そして哲学は自分の存在すら疑う。
(「道徳」とは社会のルール。「倫理」とは社会がなんと言おうと自分の内なる声に従うこと。神に従うこと)


社会学も「自分を疑う」という点では似てるかも知れません。

社会学では、自分個人が正しいと思うことなんかどうだってよく、社会に対しての真摯な態度が必要とされます。


例えば「性表現」がわかりやすい。

性表現に嫌悪するからと言って「性表現規制」を推進する者は社会にとって害悪でしかありません。
なぜなら、性表現の自由すら奪われてしまう社会は、いずれ表現の自由も徐々に奪われていくからです。

社会に対する真摯な態度とは、自分の快不快に関係無く、未来の社会のために現在戦う作法です。


他には「風俗営業法」があります。
ライターの松沢呉一氏も、社会学者の宮台真司氏も、「風営法を見直せ」と何度も言ってきました。

風営法のせいで店を構えていた風俗店は軒並みつぶされました。
その後ホテルヘルス、デリバリーヘルスへと形を変える。

お店があった時はトラブルがあっても男性従業員が女性を守ることができました。
でもホテルや客の家となると、身を守るのがサービス提供者のみになってしまい危険性が増します。

社会の目に見える部分から風俗店を消すことが、ますます危険を増やす結果になる。
女性を守れないシステムなど害悪に決まってます。

そしてさらに、現在風営法の拡大解釈でクラブハウスが摘発の危機に瀕しています。

松沢呉一氏が言っていたことが現実になってきています。

性に関することだから後ろめたさを感じ反発しないでいると、いずれもっと大きなものを規制される。
性に関することだから今の俺には関係ねぇぜ、と思っていると、未来の自分の首を絞めます。



■ 良き社会が良き社会とは限らない


さて、哲学的態度、社会学的態度とは何か。

それは自分の思考に鉄の信念を持って挑み、常に自分の思考を疑い続ける態度です。

自分の意見が正しいと思いながら接し、正しくないと思いながら意見を聞く。


さらに上に進むためにはこの態度がすごく重要です。

特に議論では、相手を言い負かすなんてビチグソほどの価値すらありません。
というか議論に勝つなんて簡単です。
それよりも、お互いの意見をぶつけ合い新たな地点へ到達することの方が重要です。



僕がブログを書く上で心がけているのは、「テキストでは穴を作り、議論では穴を無くす」ということです。

人とのやりとりが大好きなので、コメントをいただきたい、という想いがあります。
なのでテキストは「俺の考えはこうだ!」というのではなく、「僕はこうだけどみなさんどうでしょう」という感じです。

そしてコメントをいただいた時は、まず自分の考えを正確に伝えることを心がけます。
もし相手が間違って受け取っていたらそれを訂正します。
間違った受け取られ方を修正するだけで延々とやりとりするのは時間の無駄なので、自分の考えをはっきりする。

そこから議論を発展させたいです。


まぁわざとテキストに穴を作ってるわけじゃなく、勢いで書いてしまうので穴ができてる、というのが正しいですが。



良い社会を目指したい。
では良い社会とはなんでしょう。
そもそも良い社会は作れるのか。

良い社会というのは存在不能です。
でも良い社会を目指す態度は常に必要です。


社会システムの構築というのは、必ずそこから阻害される者が生み出されてしまいます。

なので常にシステムの更新が必要とされる。


良き社会が本当に良き社会か思考し続ける。
常に社会を疑う。

クソ社会をぶち壊せ。


■ 何を信じるか


と、ここまで書いてきましたけど、基本どうだっていいんですよ。

映画やももクロについて論理展開をしていますけど、そんなもんはそもそも不必要なんです。

例えば、星空の美しさに説明はいるでしょうか。
水平線に夕日が沈む美しさとさみしさに意味はあるでしょうか。

あの星は三等星で、あそこが何座で、とか、「やっぱりハワイのサンセットはきれいだね」とか説明はいらないでしょ。

誰がなんと言おうと、すごいと思ったもんはすごいし、きれいなもんはきれいだし、くだらねぇもんはくだらない。


すごいものに説明はいらない。

だってすごいんだもん。


だから世界からの福音についても説明はいりません。
ですが、社会が複雑化しているので、福音に気付く道すじが見えにくくなっています。

ちなみに「福音」とは、根源的未規定性のすごさ、なぜかわからないけどなんだかすごいというもの、魂を撃ち抜かれるような感覚、などなどいろいろ言い回しはありますけど、「天からの啓示」みたいな感じです。


社会が複雑化したので、社会の外部から訪れるはずの「福音」になかなか到達しづらくなってしまいました。
福音が降りてくるチャンスを失った。
みんな仕事や勉強で忙しいんです。

「福音」が降りてこないとどうなるか。

それは、社会の向こうにある世界(ありとあらゆるものすべて)のすごさがわからなくなります。

すると社会を生きる気力も失う。
社会は輝きを失います。


そのためには、社会を論理的に読み解き、世界への道すじを照らす必要があります。


映画もももクロも似ているのはそういうところで、見て「すごい」でいいんですけど、複雑化していてすごさに気づきにくい点もあります。

なので建設的に説明することで、複雑だったものが見えやすくなります。
「福音」が降りやすくなる。


基本的に僕は、論理も社会も根本的なところで全然信じていません。
どうなったっていいし破壊されて欲しいし、こんなクソ社会なんかすでに終わってます。

だとしても世界は素晴らしい。
世界は輝きを失いません。


社会が悪くなると人が輝く。

このクソ社会だからこそ人が輝きます。
この複雑で腐った社会がボロボロと崩れているのを説明的に露呈させることで、人は輝きを取り戻し、福音へと近づけます。



結局長くなりました。

ちょっとまとめましょうか。


1、論理的になる理由は論理的に説明できない
2、社会や自分を疑うためには論理的になる必要がある
3、複雑化した社会を論理的に読み解き、世界から訪れる福音を待て



「世界は言葉でできている」なんて腐ったことほざいてんじゃねぇぜ。
言葉や思考の無い世界へと突き進め。


と言葉を使って説明しなきゃならない不幸についてのお話でした。

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