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実存浮遊

映画やアイドルなどの文化評論。良い社会になるために必要な事を模索し書き続けます。

『ドラゴンボール』から『背すじをピン!と』へ 【弱くなる主人公】 

『背すじをピンと!』という高校競技ダンス部の漫画を読みました。
涙があふれてきました。
とても素敵な漫画なのでいろんな人に読んでいただきたいです。
これぞ王道ジャンプ漫画というもので、絵柄やキャラクター、展開など多くの点で誰にでも愛されるべき漫画です。
がんばってる人、悩んでる人、一歩踏み出したい人、負けた経験を引きずってる人、泣いた人、笑いたい人など、いろんな人に読んでもらいたいです。

かつてのももクロもそうでした。
僕が初めてももクロを知った2011年の夏。今思えばももクロにあるジャンプ展開に強く惹かれていたのでした。
精神的支柱を失った物語は『SLAM DUNK』で言えば主将のゴリが怪我で離脱したシーンに当たるでしょう。
(川上マネージャーが離れたら安西先生不在の展開を想起させますが、完全に離脱することはなく今でもももクロちゃんの側にいますね)

様々な必殺技を獲得し、強敵(会場のキャパ)を次々と倒し、出会った人たちを仲間にしていくのはまさに『ドラゴンボール』と同じです。
『サルでも描けるマンガ教室』でも指摘されているように、『ドラゴンボール』が「強い奴のインフレ」に陥ったのと同様、ももクロも同じ展開になったのは宿命とも言えるのでした。


『背すじをピン!と』は『ドラゴンボール』やももクロが教えてくれたドキドキワクワク感を持っています。
『ドラゴンボール』から『SLAM DUNK』。そして『SLAM DUNK』の流れを汲む『弱虫ペダル』があり、その先にある「バトル×スポーツもの」の最前線こそが『背すじをピン!と』なのです。


『ドラゴンボール』から『SLAM DUNK』、そして『弱虫ペダル』という流れは主人公が弱くなる歴史でもあります。
すごい能力を持っているけどバカな少年が努力をし友情パワーで敵を倒す。
素人だけどすごい才能を秘めたバカな高校生が努力しメンバーにも支えられ勝利する。
素人だけどがんばり屋で自転車レースが大好きな高校生がチームに支えられ、時には支えながら勝利する。

サイヤ人。異常な身体能力を持つ不良。オタク少年。
そして『背すじをピン!と』ではついに平凡な高校生となりました。
『弱虫ペダル』から引き継いでいるのは「(ダンスが)楽しい」ということだけです。

素人ががんばっている。これはももクロにも共通する点です。
歌もダンスも上手じゃないにも関わらずなぜか強く惹かれてしまう。
それは笑顔で楽しそうだからです。
無表情と笑顔があったら、自然と笑顔を目で追うように人はなっています。
更に、天性の才能を持つ人と努力家を比べたら、努力家を応援したくなるようになっています。
なぜなら多くの人は才能なんて持っていないからです。
自分自身がいっぱいがんばっているからこそ、がんばっている人を応援したくなります。

ももクロの魅力のひとつは「悲壮感の無さ」だと思います。
モー娘。が全盛期の時はオーディション風景やレッスン風景などの過酷な裏側を見せることで強烈な物語を観客と共有してきました。ですがそこも「強い奴のインフレ」に陥り衰退していきます。
(現在のモー娘。やハロプロは過酷なレッスンの下地に楽曲の良さも加わったことでファンを拡大しているようです。また新グループも次々続々と登場し、先輩後輩の関係が多様になることで「関係性萌え」という学園もののような楽しみ方もできます。努力に努力を重ねてようやく敵を倒すという展開になればまさにジャンプ的です。今注目すべきアイドル集団でしょう)


主人公の少年と少女は共に地味で目立たない存在です。
変わりに周囲のキャラクターは強烈で個性的です。
この二人が共に支え合いながら少しずつ成長していく物語です。
と当初は思っていました。

ギャグやパロディもおもしろいし、絵柄もかわいいし、『ハイキュー!!』と見比べれば一目瞭然ですがすべてのコマがとても丁寧に作られています。
可能ならば『ハイキュー!!』の1巻と最新巻の表紙やコマを見比べてみてください。
1巻はとても丁寧でかっこいいのに対し、巻を重ねるにつれスピードを重視しているせいなのか雑に見えてしまいます。
そして『ハイキュー!!』の二人の主人公は共に超人的能力を持つ者であり、『SLAM DUNK』の桜木と流川の関係にあります。
『SLAM DUNK』は二人の関係性が最後の試合に活きてきますが、『ハイキュー!!』の場合はセッターとアタッカーの関係にあるため常にボールのやりとりが発生してしまいます。
そのため二人で必殺技を開発していく、という展開で魅せていくことになるのですが、ここは「強い奴のインフレ」ならぬ「強い必殺技のインフレ」に陥っているように感じます。
序盤から超人的なトス回しと常人を超えた身体能力でのアタックという必殺技があり、そこの弱点が見つかり、克服し新必殺技を獲得する、という流れなのですが、最初の必殺技にインパクトがあり過ぎました。

ももクロで言えば、とても敵わないと思っていたキャパの会場を次々と攻略していくことの凄さと、狭いライブハウスでのパフォーマンスを比べると、序盤のドキドキワクワク感の方が気持ち良いという感覚と似ています。

『ハイキュー!!』が陥っている展開を『弱虫ペダル』はどのように回避しているかと言うと、「凡人」と「楽しい」の2点です。
凡人だから努力しますし、素人だから始めた頃の楽しさが色あせていません。
素人が楽しみながらがんばっている姿に多くの人が共感しているのです。

『背すじをピン!と』のキャラクター投票の結果を見ても、地味な二人が圧倒的な得票で勝っています。
超人的能力を持つキャラクターに憧れた時代から、素人だけど楽しみながらがんばって努力しているキャラクターが愛される時代になっているのかも知れません。


先ほど「素人の二人が共に支え合いながら成長していく物語、だと思っていた」と書きました。
実はここに大きな仕掛けがあったのです。
その展開にまんまとしてやられてしまい、僕は涙を流しました。
ぜひ現在最新の7巻まで読んでいただきたいです。
キャラクター投票の結果を見てもわかるように、このキャラクターは明らかに作者によって隠されてきました。
そこまで隠されてきてのこの展開に大変感動したのです。

凡人が努力し楽しみながらがんばる。そこには苦悩や負い目が必要だったんです。


何度でも言いますが、『背すじをピン!と』こそが王道少年ジャンプマンガです。
今こそ読みましょう。
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おじゃる丸「小石いろえんぴつ」と藤子不二雄「ミノタウロスの皿」に共通する倫理観 

先日放送された『おじゃる丸』の「小石いろえんぴつ」というのは倫理を問う素晴らしい回だった。
藤子・F・不二雄『異色短編集』に収録されている「ミノタウロスの皿」という物語と構造は同じだ。

「ミノタウロスの皿」はこんな話だ(以下ネタバレを含みますので作品を読みましょう。本屋で売ってますから)。

地球と良く似た惑星。そこでは牛が繁栄していて、人間を家畜として管理している。ただこちらの世界と違うのは、どちらも人語を話すということだ。
こちらの世界の人間が牛の惑星に行き、人間が牛に食われてしまう事に衝撃を受ける。美しい少女が食われると知り助けようとする。だが少女は牛に食われることを誇りに思っているとして全然話が通じない。会話はできているのに。
元の世界に戻った男は牛のステーキを出され泣きながらも食べる。

ここでは人間と牛の立場が逆転しており、しかも言葉が通じる、というのがポイントになっています。

では『おじゃる丸』の「小石いろえんぴつ」はどういう話か。

カズマが使っているいろえんぴつは灰色だけがすごく短くなっている。なぜなら大好きななんでもないただの小石の絵を頻繁に描くからだ。
電ボがそれを知り「小石色」と言うと、その灰色のいろえんぴつは「いつも灰色とかグレーとか言われるから、小石色って言われるのが嬉しい」と言う。
(『おじゃる丸』は主人公のおじゃる丸が妖精という設定もあり人以外でも会話できるものがいろいろある)

小石いろえんぴつに恋をしてしまった電ボは、彼女がこれ以上短くなってしまうのが我慢できない。
いろいろな手を使い他のいろえんぴつをカズマに使わせ、小石いろえんぴつを救出する。
だが当の小石いろえんぴつは「楽しそうにカズマさんに私を使ってもらうのが幸せだ」と電ボの言葉が伝わらない。

楽しげに小石の絵を描くカズマと、短くなっていく小石いろえんぴつを悲しげに見続ける電ボ。


このように「ミノタウロスの皿」とまったく同じ構造であることがわかる。
言葉が通じるが倫理観がまったく違う二つの種族。
自分たちの価値観では避けるべき状況にしか思えないのに、当人に取ってはそれが幸せである、という事。
例えば我々はいろえんぴつのように削られすり減りこの世から消滅していくことが幸せなのだ、とは思えないだろう。
だがいろえんぴつからすれば、身体が縮みもしないのに魂だけが磨り減っていくような生き方をしている我々こそが異常だと思うのではないだろうか。


「ミノタウロスの皿」は牛。『おじゃる丸』はいろえんぴつ。
牛には魂があると我々は思っているが、いろえんぴつには魂が無いと思っている。
魂があり、会話ができ、それでも自分の考えが伝わらない「ミノタウロスの皿」。
魂が無い物体と会話ができ、それでも自分の考えが伝わらない「小石いろえんぴつ」。

どちらの主人公も倫理観の違いを超越することはできず、ただ泣いて見届ける。
愛する者を救えないから泣いているのか、それとも自分自身の魂から逃れられない事(牛を食わずには生きられない、いろえんぴつをすり減らさずに生きられない)を気づかされ絶望しているのか。


「小石いろえんぴつ」は倫理を問うすごい作品だ。

ジョジョリオン4巻を読んで 

ようやくジョジョリオンの4巻が発売された。

ジョジョの奇妙な冒険の第8部という位置で、3.11の震災以降のM県S市が舞台。
M県S市とはジョジョ4部の舞台だったところ。
物語的には4部と8部は直接的な関連は無く、よく言われるのはパラレルワールドのような位置づけです。

これは7部のスティール・ボール・ランと同じような扱い方で、7部も8部も過去に登場したキャラの名前などが登場しています。


以下4巻のネタバレなのでまだ買って無い人は早く本屋に走れ!




さて、ジョジョリオンの主人公「定助」は自身が何者かわかりません。
肩に星型のあざがあることから、我々読者にはジョースター家の血統であると意識させていますが、吉良吉影に似ているというセリフや、吉良吉影と同じDNAであることも3巻まででわかっております。

他には金玉が4つ付いているなどの身体的特徴があります。


第4巻では定助が吉良吉影の遺体と肉体的にミックスされたのではないか、という展開を見せました。
ある土地にふたつの物体を埋めて掘り出すとミックスされるのです。
それをレモンとみかんを使って表現していました。
レモンとみかんを切ると中の実が交互に入れ替わっていたのです。


でもそう考えると、定助の片割れはどこいったのだ、ということ。
レモンとみかんは掘り出しても2つしっかり存在していました。

じゃあ吉良吉影の遺体はどこへ?


我々は吉良吉影の執念深さを知っている。
彼が平穏な日々を望むことも知っているし、そのためなら自分自身を社会的に抹殺することも知っている。

そう。
おそらく吉良吉影は生きており、定助の半分を持ちながらどこかで生きながらえているのだろう。
大胆予想には及ばず、僕ごときが想像できたぐらいだからこんな展開にはしないであろうが、思わずこんなことを考えずにいられない作品です。

かなり4部テイストな物語で、どこかの地を目指そうとしていたストーリーと違い、日常に潜む恐怖という感じがあってかなり好きです。
4部ってボスキャラを倒すために常に突き進む話ではなく、変な奴に出会ったり、仲が悪い身内同士でギャンブル始めたりしました。


4巻の敵ボーン・ディス・ウェイは4部で岸辺露伴が戦ったチープ・トリックに似ています。
スタンドの顔や目もそうですし、道で攻撃されるのもそうです。
自動的に攻撃されてしまうのもそうですね。

定助を助けるのが広瀬康穂というのも似てますね。


4部の二次創作(荒木版)と暴言を吐いたとしてもきっちり読んで楽しめる作品となってます。


僕はジョジョは4部と5部が好きなのですが、5部の主人公も特殊な出生をしています。
それは1部と3部に登場する宿敵DIOの息子という設定です。


ジャンプはよくライバルだった奴が味方になる、という展開を見せますが、ジョジョの場合はライバルは死んだけど、その息子が主人公になる、というもの。
ジョジョリオンでは定助が遺伝子は吉良吉影であることが証明されています。
金玉は定助が4つあるということは、遺伝子も金玉も定助に乗っ取られたことになります。
では定助が持って行かれたものは何か。
今わかってるのは「記憶」です。
彼は一般常識や行動の記憶までも失っています。


ジョルノの場合は肉体的には1部の主人公ジョナサンの遺伝子を継ぐ息子となり、幼少期もDIOと話しているエピソードなど無いのでDIOの精神は受け継がれなかったのだと思われます。
(ただ、ストーンオーシャンの時にDIOの息子たちが集結するエピソードがあり、実はこの時ジョルノもアメリカに居たのでは?という話もあるそうです)


定助は吉良吉影と融合しており、そこがどこか我々に不信感を与えます。
少なくとも過去に登場したジョセフや仗助のように読者に愛されるキャラにはならないようです。


・なぜ荒木先生はこのような主人公を設定したのか
・そのことと3.11とどのように関連していくのか
・定助と混ざり合った吉良吉影はどこに行ったのか

などなど疑問は尽きません。


そして4巻の最後は小林玉美の錠前のスタンドみたいなカツアゲをするチームが登場。
ボムギ!という音はしませんでしたが子どものおもちゃを壊したと言いがかりをつけられ3000円支払ってしまったというところで終わりました。

どうやら錠前のスタンドのように、精神力が強ければ勝てる、という感じじゃなさそうですが。

定助がどうやって切り抜けるのか楽しみ!
そして常秀のスタンド能力により助かるという気がしていてかなり気になります!
早く読みたいです。

テーマ: ジョジョの奇妙な冒険 - ジャンル: アニメ・コミック

ジョジョ6部ストーンオーシャンはなぜただの少年が生き残るのか 

『ジョジョの奇妙な冒険』第1部の冒頭に、ジョナサンとディオを象徴するかのように、ある詩が載っている。


「二人の囚人が鉄格子の窓から外を眺めたとさ。
 一人は泥を見た。一人は星を見た。」


ジョジョを語る上で「星」というのが重要なキーワードになる。
3部からジョースター家には肩に星形のあざがある、という設定が加わる。

ジョナサンの肉体を奪ったディオは、肩に星形のあざを持つ。


そして時代は移り変わる。


第6部「ストーンオーシャン」はジョジョの中でも異色な物語です。
唯一の女性キャラのジョジョということもありますが、最後ジョースター家は途絶えてしまい、ボスキャラを倒すのがジョースター家でもなんでもないただの少年、というところが特筆すべき点です。


第6部では時が加速し、宇宙が一巡する。
ボスキャラのスタンド能力で、生き残ったものだけが新たな世界でも生きていける。
その際「一度人生を経験した事実」を持っているので、あらかじめ自分の人生が今後どうなるか覚悟を持って歩むことができる。
それこそが幸福である、とボスキャラは考えたようだ。


それを否定し、ボスキャラを倒すことでそのような世界にはならず、元の世界とは少し違う世界になって物語は終わる。

例えば、新たな世界はジョリーンはいないがアイリンという似た女性がいて、アナスイはいないがアナキスという似た男性と恋人同士になっており、二人は石造りの海の監獄なんかにはいなくて結婚の許しを得に向かうところだったり、エルメェスやウェザーリポートに似た人物と出会いこれから強い絆で結ばれるであろうと予感させる演出が施されている。


そして、その新たな世界の幸福感を、唯一見守れているのが、元の世界から生き残っているただの少年、エンポリオだ。


ではジョジョ1巻の冒頭の詩に戻ろう。


「二人の囚人が鉄格子の窓から外を眺めたとさ。
 一人は泥を見た。一人は星を見た。」


6部は監獄が舞台です。
監獄の中で星を見た人物。
それはつまりエンポリオ少年のことだ。
彼はジョリーンや承太郎の星を見て、希望を次の世界までつないだ人物。

そしてこのジョースター家でもなんでもないただの少年というところがポイントです。
ジョースター家でも無く、閉ざされた世界で星を見続けた存在。
それは我々読者のことだ。

ジョースター一族の星を見続けたのは我々読者だ。

エンポリオ少年のように、1部~6部とは違う新たな世界である7部と8部を見守る。


円環構造。
この監獄のような世界に希望の星を見続けよ。

テーマ: ジョジョの奇妙な冒険 - ジャンル: アニメ・コミック

『デストロイアンドレボリューション』と『なにかもちがってますか』 

『デストロイアンドレボリューション』2巻と『なにかもちがってますか』2巻がほぼ同時期に発売された。

『ホーリーランド』『自殺島』が話題の森恒二が描く「デストロイ」と、『なるたる』『ぼくらの』で有名な鬼頭莫宏が描く「なにか」。


両方に共通するのは、平凡な特殊能力者の学生が、世直しテロリズムの優秀な学生に操られる、という部分です。

構図が驚くほど似ている。

「デストロイ」は高校生。「なにか」は中学生。

能力も似ていて、「デストロイ」は離れた場所の物質をねじり切ることができ、「なにか」は数メートル先の物質の一部を立方体状に抜き取り、足元の物質と入れ替えることができる。

「デストロイ」はねじり切った部分が鉱物となって手元に残る。
それに対して「なにか」は立方体に切り取られた物質が足元に転がります。


同じような構造を持つふたつの物語ですが、当然ながら展開は違います。


「デストロイ」はテロリズムの色合いが強く、政府に犯行声明を出します。
税金が無駄に使われている建物の鉄筋を遠隔から少しずつねじり切る。
そして頃合を見て建物を崩落させます。


「なにか」は利口な中学生がいわゆる「中二病」のごとく思想を展開します。
馬鹿をこの世から無くす。
そのためにまず「携帯電話を使いながら自動車を運転する者」を事故死させる。


「デストロイ」はあえて人がいない建物を破壊し、政府に訴えかけた。

「なにか」は自動車を狙い事故を連発させる。
そして2巻では「おバカタレント」を殺そうと企てる。


今のところ読んでて先が気になるのが『デストロイアンドレボリューション』です。

主人公が能力を使うきっかけとなったのが、「世界の調べに気付くこと」だ。

世界の物質はすべてひとつで、そのつながっている一部分をそのまま握る。

この「気づき」という設定が素晴らしい。

世界とひとつになることで、その世界の一部である何かを握り取る。


世界の調べを聴け。


今後、どんな破壊があり、どんな革命を起こすのか楽しみで仕方ありません。


「なにか」は萌えキャラが出てきたので楽しみです。

テーマ: 日記 - ジャンル: 日記

わにとかげぎす 

古谷実『わにとかげぎす』全4巻を読んだ。

冴えない32歳の警備員が突然孤独に打ちのめされ友達が欲しいと奮闘する設定。

美人の隣人に惚れられたり、ヤクザ絡みの事件に巻き込まれたり、ホームレスのために200万立て替えたりと、ありえない展開に。

園子温監督が映画化する『ヒミズ』は酷薄な現実を描いている。

『わにとかげぎす』はありえない物語を描くことで、現実世界はやはり酷薄だと突きつける。


『ヒミズ』は主人公が残酷な人生に見舞われ最終的に自殺するが、『わにとかげぎす』はありえない物語を見せられることで、この世が残酷であることを我々に際立たせて気付かせる。


ちなみに、「ワニトカゲギス」とは魚類の科目の名称みたいです。

つまり内容とは正反対に冷血さがテーマだということか。

テーマ: 漫画 - ジャンル: アニメ・コミック

『魔法少女まどか☆マギカ』に世界の調べを聴け 

■ アニメ『魔法少女まどか☆マギカ』に不幸を引き受ける特異点の奇跡を読み取る



アニメ『魔法少女まどか☆マギカ』を見た。


宮台真司が絶賛してたので見てみたのですが、とても考えさせられるアニメでした。
全12話。
すぐ見られると思うので、ぜひご覧になってから以降の文章を読んでください。
ネタバレを含むので、作品を見てない場合は了承の上お進みください。



■ 『魔法少女まどか☆マギカ』の精緻で残酷な世界設定


魔法少女を描いた作品は多い。
そのどれもが笑顔でチャーミングで力強い魔法少女だ。
プリキュアなどが最近の魔法少女の代名詞だろう。

では『魔法少女まどか☆マギカ』はどうか。

魔法少女の姿をしたまどかの涙からオープニングムービーが始まる。

まどかの運命を暗示しているかのような泣き顔。
そう、『魔法少女まどか☆マギカ』は悲しみの物語だ。

ストーリーを軽く説明します。

魔女に襲われる町に住む女子中学生たち。
魔女とは社会の暗部などを象徴したような形状をした怪物だ。

その怪物を倒す存在として「魔法少女」が登場する。

魔法少女には、キュウべぇという猫のような生物と契約を結ぶことでなれる。

「僕と契約して、魔法少女になってほしいんだ」

どんな願いでもひとつ叶える代わりに、魔法少女となって魔女と戦う。

魔法少女になるとソウルジェムという宝石がもらえる。
魔女を退治した時に出るエネルギーを吸収するようにキュウべぇから命じられる。

魔女を退治するために魔法を使うのだが、魔法を使うたびにソウルジェムに闇がたまっていく。


自分が住む町を守るために。自分の願いを叶えるために魔法少女になった5人の少女の物語。


冷徹で強い黒髪の少女ほむらは、まどかに魔法少女にならないように釘を刺す。
でも主人公まどかは、町を守るためや友を救うために魔法少女になろうとする。
でも頑なにそれを阻止するほむら。


先輩魔法少女である巴マミの死をきっかけに、魔法少女の謎が次々と明かされる。
その残酷な設定が。

魔法少女化するということは、肉体と魂を分離させることだった。
魂をソウルジェムに閉じ込め、自分だった肉体を超運動で操作できるようになり、しかも肉体のダメージは無痛となる。
魔女と戦う肉人形と化す。
これが魔法少女になる、ということだったのだ。

そしてソウルジェムが暗黒で染まる時、魔法少女は魔女化する。
つまり今まで戦ってきた魔女は、かつて願いと引き換えに魔法少女になった人間だったのだ。


この残酷なシステムに絶望する少女。


キュウべぇの目的は、魔法少女が魔女になる瞬間に発生する強大なエネルギーを集め、宇宙の秩序を保つことだった。


そしてまどかを魔法少女にならないように阻止し続けるほむらの謎も、回を重ねるごとに明らかになってくる。


『魔法少女まどか☆マギカ』は、ほむらの物語だったのだ。


■ 負を引き受ける少女ほむらの絶望


ほむらがなぜまどかを魔法少女にさせないよう必死になるのか。
それはまどかの願いだからだ。

ほむらは魔法少女になり、時間を操る能力を得る。

病弱で頭も悪いほむらは、元気ではつらつとしたまどかに救われる。
初めてできた友達に命も救われ魔法少女となったほむら。

だが仲間は「ワルプルギスの夜」という最強の魔女に殺されてしまう。
まどかを失いたくないほむらは、時間を戻りなんとかまどかが幸せに暮らせる世界を目指す。

何度繰り返しても「ワルプルギスの夜」に勝てないで、友を目の前で失うほむら。
キュウべぇに騙されないで、人間のまま普通に幸福に生きていける人生を歩みたい。
親友まどかの願いを叶えるために何度も時間を戻る。


徐々に力をつけるほむらだが、どんな兵器を使おうが「ワルプルギスの夜」は倒せない。

しかも、まどかのために何度も何度も時間を繰り返したせいで、まどかに宇宙の特異点が集中し、魔法少女になった時に最強の魔法少女となる事が判明する。

すなわち、最強の魔法少女は最悪の魔女へと成長する。
キュウべぇの目的が達成することを意味する。

まどかを何としてでも魔法少女にしたくないというほむらの想いが、まどかを最強の魔法少女にしてしまう逆説。
何度も何度も繰り返してしまったせいで自分の意図しない結果を生む。


思い出されるのは、アニメ映画『時をかける少女』だ。
主人公の少女は友人を救うために何度も過去に戻り失敗をやり直すが、結果的に親友を重大な事故に巻き込ませてしまう。
しかもそれは自分が遭うはずの事故だった、という皮肉。


ほむらは自分がしてきたことの無意味さに絶望する。

すべての不幸を引き受けまどかの幸福を願った少女は、そのすべてが無駄だったと思い知らされる。


少女の願いは不幸を呼ぶ。
この構図は他の魔法少女にも当てはまる。


■ 宇多田ヒカル『誰かの願いが叶うころ』で読み解く魔法少女の願いのはかなさ


ほむらの魔法少女の契約後の願いは、「まどかを幸せにするために過去をやり直す」というもの。

さやかの願いは、「好きな男子生徒の手の怪我を治す」というもの。

杏子の願いは、「神父の父の話を多くの人に聞いて欲しい」というもの。


暁美ほむらの願いは前項にも書いたように、皮肉にも大きな不幸を呼び込む事実を知り、絶望する少女ほむら。

宇多田ヒカルの『誰かの願いが叶うころ』という曲がある。
誰かの願いが叶うころ、遠くの誰かが不幸になっている。
すべての人間が幸福になることなど無い、という内容の曲です。

『魔法少女まどか☆マギカ』では、さらに悲しい現実が描かれる。
それは、「自分の願いが叶うということは、自分に降り掛かる不幸を呼び込む」ということだ。

暁美ほむらの願いは、逆説的にまどかを魔法少女にしてしまう。

佐倉京子の願いは、結局父の一家心中を引き起こす。

美樹さやかの願いは、好きな男子の手を治すというものだが、友達に彼を取られてしまう。


そう。『魔法少女まどか☆マギカ』は、良いことが良いことを呼び込むとは限らない、というこの世界の現実を、悲しいほど忠実に描いている。

誰かの願いが叶うころ、その「誰か」は涙を流すことになる。

では悲しみを引き受けるしかない魔法少女たちは、永久に不幸になるしか無いのだろうか。


そのすべては、鹿目まどかが魔法少女となることで引き受けることになる。


■ システムを書き換えることですべての不幸を引き受ける魔法少女


鹿目まどかの願いはこういうものだ。

「すべての魔法少女が魔女になることの無い世界。魔法少女が不幸になることの無い世界」

過去の魔法少女も現在の魔法少女も未来の魔法少女もすべて救うまどかは、ただひとり不幸を引き受ける魔法少女となる。


キュウべぇが少女を魔法少女とし、魔女化させエネルギーを宇宙運営に使用する、という構図すらも書き換えるまどか。


システムを改変させなければ不幸はなくならない。

そして重要なのは、システムを改変したことが誰にも気付かれない、という設定だ。

社会システムは誰にも気付かれないで運営できることが望ましい。
無自覚に幸福を享受できるような世界が素晴らしい世界だ。

そして、社会システムを運営する者が自分の利益を捨て去り、不幸をすべて引き受けることで社会を回す。


『魔法少女まどか☆マギカ』は、「良いことをすることが良いことを呼び込むとは限らない」というこの世の真理と、社会システムを書き換え、運営する者がどういう存在であればいいかを描いた作品だ。

『魔法少女まどか☆マギカ』から世界の調べを聴け。

テーマ: 映画感想 - ジャンル: 映画

ジョジョ7部完と8部スタート 

『スティール・ボール・ラン』が終了した。
ジョジョの奇妙な冒険第7部。
長い長いレースでした。

最終話がもう1本ぐらい欲しかったです。
あっさり終わった感じだったので。


第8部『ジョジョリオン』が連載開始のウルトラジャンプが増刷され、書店に並んでます。
やっと買えた。

8部の舞台はなんと杜王町。
ジョジョ4部の舞台だった杜王町ですよ。

しかも3月11日の震災後の杜王町だ。

もし現実とリンクしてるとしたら、今回の舞台は2011年。
4部が1999年。
12年後ということか。
広瀬康一くんが16歳だったから、主要メンバーは28歳ぐらいということになる。

そして、広瀬姓と東方姓の人物も登場。
こりゃあわくわくせずにいられん。

でも見た目が高校生ぐらいだから二人の子供ってことはなさそうだ。

7部みたいにパラレルワールドという位置なんだろうか。

4部のメンバーが出ないのは残念なので、なんとかして欲しいです。


小説版も3作出るらしい。
まずは第5部が発売。

すでに3部と5部と4部が小説化してる。
3部も5部も全然おもしろくなかった。
4部は乙一が小説化してるんだけど、これは最高におもしろい。

だから第5部の新小説版が楽しみです。

いつ出るんだろ。

テーマ: 日記 - ジャンル: 日記

カイジの必勝パターン 

『賭博堕天録カイジ 和也編』を4巻まで読みました。

「救出」というゲーム。
階段状になった椅子に3人座る。
それぞれ頭にはランプがついていて、お互いの声が聞こえないようにヘッドフォンから大音量が流れる。

3人の内誰か1人にランプが点灯する。
手元にスイッチがあり、点灯した者が押すことで、固定していたベルトが外れる。
椅子の先にあるボタンを押すことで、残り2人が救出できる。


ルールがあり、スタートしてから30秒間は押してはいけない。
ランプが点灯してない人も手元のスイッチを押してはいけない。
失敗すると死ぬ。


階段状の椅子に座る順番は毎ゲームごと抽選。
ランプが点灯する救出者も毎回抽選。

階段状なので、一番後ろの人物は前2人のランプが見える。
2番目は先頭のランプしか見えない。
先頭の者は何も見えない。

つまり、先頭の者は、後ろの者の行動により、自分の行動を判断しなければならない。

つまり、体感時間30秒経過しているにも関わらず、誰も動かないことを察知し、自分の頭にランプが点灯していることを知る、というわけです。


このゲームに成功すると、賭け金が倍になる。
そして、救出者がベルト解除され、その後もし失敗することがあれば、救出者だけ生還。残りの2人は死ぬことになり、救出者だけが賞金を得ることになる。


ゲーム理論というのがあります。
わかりやすく言うと、「協力」か「裏切り」か、というもの。
ゲーム理論は複数回試行することで「協力」が最善だとされる。
裏切ることで裏切られることになるゲームなので、裏切らない方がいい。

でもカイジの「救出」では、裏切ることで1人勝ちできる。
つまり、金額が吊り上ったところで、自分が救出者になったら相手を裏切れば、賞金独り占めできる。


今回のカイジの「救出ゲーム」は、ゲーム理論というのではない。
1億ゲットしてみんな助かるか、途中で誰かが裏切って独り占めするか。

カイジのテーマとして、「人は信頼できるか」というのがあります。
カイジは、仲間がいることで必ず勝てる道を見つける。
でもことごとく裏切られる。
金に目がくらんだ仲間のせいで、裏切られたカイジは窮地に追いやられる。
だが天賦の才で勝ち上がる。


他人は信頼するに足るか。
人は裏切る。
恋人同士でも裏切る。
金や自分の命が掛かったら裏切る。

それを描き切ろうとする作者福本伸行。
カイジが現在生きているのは、誰かを犠牲にしてきたからだ。
カイジを信じて散っていった人たちがいるからだ。

だからカイジは信じ続けるだろう。
なぜなら必勝。
仲間と共闘することで大金を獲得できる。

でも裏切られ続ける。


「人は裏切る」という真理を描き切る福本伸行。
カイジの終着はどうなるだろう。

テーマ: 哲学/倫理学 - ジャンル: 学問・文化・芸術

ギャグマンガの低下 

テレビ番組でギャグマンガについて特集している。

ギャグマンガは薄まった。
それは日常が薄まったことと相関だろう。


萌系ギャグマンガが流行ってるそうだ。
そしてダメ人間が主人公のギャグマンガも流行ってる。

ギャグとは非日常だったはずだ。
『天才バカボン』を見ればわかるでしょう。
ギャグは爆発だ。


でも最近のギャグマンガは日常に堕した。
「あるあるネタ」になってる、ということです。
共感してもらって、笑ってもらう。
「これってあるよね」と言って笑う。

これは笑いじゃなく共感。
爆弾ではなくガスコンロ。
非日常じゃなく日常レベル。全然危険が無い。
現代のギャグマンガを読んで人生を狂わせられる人などいないだろう。
『天才バカボン』はどうか。
人生に強烈に傷跡が残ってる人も多いだろう。

でも今のギャグマンガはどうだ。
『聖☆おにいさん』を見てもわかるように、神が日常に堕している。
(正確にはブッダもイエスも神ではないが)

この漫画が『このマンガがすごい!』に選ばれる時点で、今の日本が薄まっているのがわかるでしょう。

薄い薄い日本に、濃いマンガは無いのか。

あるんでしょうけど、一般的な人の目には入らないんでしょうね。

非日常を描いたマンガを読もう。

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