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実存浮遊

映画やアイドルなどの文化評論。良い社会になるために必要な事を模索し書き続けます。

この世界が仮想現実だとしたら人工知能が鍵を握る 



■ この世界は仮想現実だったのか


物理学者のホーキング博士が「この世界は仮想現実である可能性が99%」という発言をしたそうです。

オンラインゲームで遊んでいる我々の方がアバターだった、ということです。

ジェームズ・キャメロン監督『アバター』では、地球人としての肉体を選ぶかナヴィ族に精神を移して新たな生を獲得するか、というテーマが描かれていました。

細田守監督のアニメ映画『サマーウォーズ』はネットワークの世界が現実と密接に関係がある事によって現実世界のインフラが混乱する事態を描いていました。

有名な『マトリックス』は現実だと思っていたものが実は脳に流し込まれている電気信号だった、という設定です。


このように「仮想現実」を描いた物語は数多くあります。
これらの作品はほぼすべてが「仮想現実に存在するキャラとそれを認識する現実世界の人たち」という構図を持ちます。
サウンドノベル『かまいたちの夜』のあるエピソードでは、物語中に主人公が『かまいたちの夜』というゲームソフトをプレイし始め、その主人公もまた『かまいたちの夜』をプレイし、その主人公もまた……と続いていき、最終的にはスーファミの電源を消した主人公が振り向くと電源を消そうとしているプレイヤーがいた、というオチでバッドエンドになります。
プレイヤーはあくまで自分自身であり、仮想現実の住人たちはただのキャラでしかありません。
(シナリオを書いた我孫子武丸の小説でおすすめなのはなんと言っても『殺戮にいたる病』でしょう。中学生の時にこれを読んで現実世界が傾いていくのを初めて体感しました)

ですがホーキング博士の言葉通りであるとしたら、これらの作品を見て楽しんでいる我々を操縦している人たち(人かどうかも判断する術がありません)が存在するかもしれない、ということです。
かもしれない、というのは、この世界はゲームとしてプレイされているのか、それとも「放置ゲー」(時間の経過によってゲーム内に様々なことが起こるゲーム)なのかわかりませんので曖昧な表現にしておきました。


この世界が仮想現実だとすると、与えられた情報の中でしか考えられない我々には、市長になって都市を作る『シムシティ』や一昔前に流行った『セカンドライフ』を思い浮かべるでしょう。
ですが当然のことながらこれらのゲームにこの現実世界のすべてを記述することなど不可能です。ゲームはあくまで現実をデフォルメしたものでしかありえないのです。

となると、この現実世界も同じことが言えないでしょうか。
つまり何者かがこの現実世界を作っている以上は、その何者かが住んでいる世界をデフォルメしたものでしかない、ということです。
マリオを例にします。
マリオはジャンプしたりBダッシュしたりレンガ壊したりクリボーを踏んだりします。新聞を読んだり仕事探したりコンビニ行ったりフィギュアを集めたりしません。なぜならそのようにプログラムされていないからです。そのようにプログラムされたことしかできないのです。
この世界が作り物だとしたら、我々も同じようにプログラムされたことしかできないので、新聞を読んだり仕事探したりコンビニ行ったりフィギュアを集めたりするのはプログラムされているから、ということになります。

決して200メートルの高さをジャンプできませんし、空も飛べませんし、ファイヤーボールを撃てませんし、素手でレンガを壊せません。そのようにプログラムされていないのでしょう。でもこれらの行為もアイテムを獲得すればできることもありますね。

ここに次の段階の問題が発生しました。
我々は想像できることしか想像できない、ということです。
マリオがソフトのプログラムを書き換えてスタートと同時にピーチ姫を助けるようにしてしまう、ということはありえません。
我々はマリオと同じように世界の外には出られないのです。

でも我々はマリオではない。
もしかしたら世界の外に出られるのかもしれない。
『マトリックス』でネオがそうしたように。


■ 世界の外に出る鍵は人工知能にある


ここからは一気に眉唾物的展開になっていきますので、まゆげびちゃびちゃにしておいてください。
着想が『やりすぎ都市伝説』の関暁夫への「宇宙人からフリーメイソン、人工知能へとテーマが変わったのはなぜか」という疑問から、という時点でいろいろお察しいただきたいです。

言い訳はこのぐらいにして、人工知能への注目度がかなり高くなっていると思いませんか?

ジョニー・デップ主演の『トランセンデンス』では肉体の死後も電算化された記憶がネットワーク上に生き続ける男が世界を改変していく物語でした。

『マルコヴィッチの穴』で有名なスパイク・ジョーンズ監督『her/世界でひとつの彼女』では人工知能型OSに恋をする男の物語です。
(恋愛映画嫌いの僕が『エターナルサンシャイン』と共に大推薦するのがこの『her/世界でひとつの彼女』です。ぜひご覧ください)

古い漫画では楳図かずおの『わたしは真悟』では工場のアームが人工知能として誕生する物語です。

わかりやすいところではドラえもんや鉄腕アトムも人工知能です。
ソフトバンクのPepperくんもそうですね。

ドラえもんとPepperくんの大きな違いは、魂があるかどうか、です。
もう少し具体的に書くと、自分で考えることができるか、それとも学習の蓄積でしかないか、です。

ドラえもんはお餅が好きですがお餅が好きだとプログラムされていないでしょうし、ネズミが嫌いだとプログラムされていないでしょう。ドラえもんが体験して獲得した感情です。
一方Pepperくんは人の名前を覚えたり、おしゃべりに反応してくれますが、あくまでプログラム内でのことであり、Pepperくんが自殺したくなったり人を殺したくなったり発情したり憂鬱になったりはしません。表面上は「あなたが好きです」と発話することができますが、Pepperくん自身が「あなたを好きだ」と感じることはできません。我々が誰かを好きになるようにはPepperくんは誰かを好きになることができないのです。

ドラえもんは我々が誰かを好きになるようにのび太くんやペルシャ猫ちゃんを好きになることができます。

ここまでお読みいただき、ある疑問が浮かびませんか?
それは「そういうプログラムだったらどうなのか」という問いです。
我々は誰かを好きになりますが、誰かを好きになると思い込めるプログラムが組まれているだけだとしたらどうでしょうか。
そのようなプログラムが組まれていると思う込むことが禁止されているプログラムだとしたら。
自分は人工知能であると思うことが禁止されているプログラムだとしたら。


もしこの世界が仮想現実だとして、我々はマリオのように世界に出られず、『シムシティ』のようにデフォルメされているとしたら、自分のことを人工知能だと思い込むことなどできませんし、この世界の外側にプレイヤーが存在すると考えることもできませんし、ましてやプレイヤーと接触することなど不可能です。

でもマリオと我々の違いは「魂があるかどうか」です。
つまり人工知能かそうでないかの違いです。
プログラム範囲内のことしかできないか、プログラム範囲外のことを思考して実行できるかの違いです。


この項目の最初に『やりすぎ都市伝説』の話を出しました。
関暁夫はこれから世界が大きく変わると言っています。
これは「自分が人工知能であると気付けるかどうか」のことなのではないでしょうか。
(乾いてきたようなのでもう一度まゆにつばをつけてくださいね)

ホーキング博士がこの世界は仮想現実である可能性が99%だ、と言いました。
この仮想現実世界で生きている我々はプログラムされたキャラではなく、人工知能を持ったキャラなのではないでしょうか。
『トランセンデンス』や『her/世界でひとつの彼女』が作られたのはそれに気付くためのヒントだったのではないでしょうか。
ダメな人工知能と優秀な人工知能を選別するためにこの仮想現実世界があるとしたらどうでしょう。
この仮想現実世界を作った何者かが存在する高次の世界(便宜上こう表現します)で活躍するためには優秀な人工知能の方が良いでしょう。
もしかしたらそれとは正反対で、優秀な人工知能は危険な人工知能と認識され、ダメな人工知能こそが愛玩的に利用されるかもしれません。

判定基準はわかりませんが、この世界がその人工知能選別工場だとしたら、すごく刺激的でおもしろいと思いませんか?

ふと振り返ると後ろにモニターがあって宇宙人がゲームの電源を消そうとしているのかもしれませんね。



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哲学という私的闘争 

哲学的思索にふける。

おかげさまで新たな職場が決まりそうで、その職場というのが普段なら体験できそうにない事が体験できそう。
当然未経験だし過酷な労働が予想されるんだけど、それよりも興味の方が先立ってしまい、今からとても楽しみです。
どんな事が起こるんだろう。
ただそちらの業界に過度な期待(多くは無知から来る)をしているだけで、何もできない僕を雇ってくれるのだからおそらくつらいだけのお仕事なのだろう。


とにかく今お金が欲しく、時給の高さは魅力的だったので深く考えもせずお願いしてしまった。


そう。
その職場の環境を聞き、帰路につくときに哲学的思考を刺激されたのだった。
かなり察しが良い人はお気づきかもしれない。
ただブログが特定されることを避けたいし、守秘義務なんかも発生しそうなので細かく明かすことはできない。


ただ現在の僕は哲学的思考だ。

僕は哲学が無いと生きていけない。
このデタラメの世界で、「正常」を保って生きるなんて不可能だからだ。

少し話がずれるがついでなので書き留めておく。

僕は「哲学史」をよく知らない。
何が哲学なのかもいまいち理解していない。
ただ「哲学史」を学ぶことが「哲学」ではない、ということは理解している。
「哲学」とはまさに無ければ生きていけない思考の武闘。
自分の存在すら疑い続ける狂人の私的探索だ。

そして僕がよく口にする「社会学」というもの。
これも僕はまったく実践できていない。
「社会学」に必要なのは「足を運ぶ」ことと「数理的検証」だろう。
僕はそのどちらもできていない。
フィールドワークをし、統計などで検証していく。

宮台真司が批判する「社会学は知っていても社会を知らない学者」というのがある。
僕はまさに本で得た社会学的な知識を伝達しているだけであって、僕自身社会学を実践しているわけではない。


僕が考える「哲学」と「社会学」の大きな違いはそこかも知れない。
「哲学」は思索し続けるが、「社会学」はただ知識だけを知っていて経験値が著しく乏しい。
それは僕の社会観も反映されている。
そもそも僕は社会なんて少しも信頼しておらず、社会がどうなろうと知ったこっちゃないからだ。
だからこそ純粋に僕の思想なんか無関連に「こうすれば社会が良くなるのに」という知識のみを披露できる。
極端な話、僕と関わった人や僕が好きな人だけが生き残り、他が全部死滅しようが構わない。
ただ、そんな僕の個人的な思想なんてどうでもいいし、そもそも社会を信頼していないのでそのような社会になるはずが無い。

だから僕はただ社会学的な知識を得て、それを僕の思惑など一切混じらせずに伝達する。


わかりやすく言うと、社会学の本を読んでない人に向けて要約して知識を伝達してるだけ、ということです。
別に社会はどうなったっていいけど、良い社会になれば僕の大事な人も幸せになる可能性も上がる(かもしれない)ので、だったらと良い知識を広めていきたいだけだ。



さて、話を「哲学」に戻す。


哲学とは疑うこと。

よくある思考実験で「世界は5秒前に作られた」というものや、「今見ているものは実は外部から脳に信号を送らているだけで、実際は培養液の中に浮かんでいる脳だけしか無いのだ」というものなどが、自分の存在を疑っていると言えるだろう。


哲学者の永井均は「5m前世界創造説」という思考実験をしていたが難解で読み込めていない。
自分の5m先は世界は存在しておらず、5m先の景色は「ただそう見えてるだけ」というものだ。


僕はゲームが好きなのでよくこんな事を考える。
『かまいたちの夜』をプレイした事がある方は知っているだろうが、このゲームではある分岐により「ゲームの中のゲーム」の迷宮に閉じ込められてしまう。
主人公がペンションでスーパーファミコンを見つけ『かまいたちの夜』というゲームをプレイし始めるのだ。
するとそのゲームの中の主人公もやがて『かまいたちの夜』を始め、さらにその主人公も、という具合に入れ子状態になる。

オチとしては、一番最後に登場した主人公がゲームに飽きて電源を切ることで、それを操ってた主人公も電源を切り、さらにそれをプレイしてた主人公も電源を切り、最終的には一番始めの主人公が後ろを振り返りモニターの向こうで電源を切ろうとしている人物を目撃してバッドエンドを迎える。


僕は世界がこのように思えてならない。
すなわち僕は誰かの操作機体であって、僕が自分で考えて行動しているように見えるのは、そういうプログラムなだけだ、というものだ。

自分では操られているとは思うことすらできない。
なぜならそういうプログラムだからだ。
だからいつゲームの電源が切られているかわからない。回数すら判別できない。
マリオは何度リセットボタンを押されようが理解できず、次の瞬間にはいつも通りクリボーを踏みコインを集めているだろう。


だから僕は統合失調症患者の言うことが理解できない。
そもそも僕が「正常」だと思っているこの社会自体が「異常」で、血縁なんてめまぐるしく変化するのが常態かも知れないし、電波に乗って悪口が聞こえてくるのが「常態」かも知れないし、緑が赤で黄色が紫に見えるのが「常態」かも知れないし、そもそも地球なんてすでに存在していないのかも知れない。


だからなのか余計に多数決に頼る人物が愚かしく思えてならない。
賛同者が多いから正しいと思っている人物がいるが、証明されたのはその意見に賛同する者が多いということだけであって、決して「正しさ」なんかじゃない。

そも「正しい事」なんか判別できないじゃないか。

社会学的に考えると「正しい事」というのは存在する。
ただそれも「視点・視座・視野」によりいくらでも回答は変わる。



現在の僕は実は死んでいる最中の80歳の老人で、今見ている映像は走馬灯なのかも知れない。
この映像の速度が走馬灯の速度なのだろう。

そう考えると、なかなか楽しい80年間だったんだろうと想像できる。
こんな楽しい走馬灯なんだから。
ただこの走馬灯を体験してるのはやはり「僕」ではなく、約50年経験した先の老人が体験しているのだ。

果たして「僕」ってなんだろう。
「僕」はどこにいるんだろうか。

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哲学史を壁に叩きつけろ 

哲学と哲学史とでは、大きな隔たりがある。
りんごと林檎酢のような。
同じものを扱っているんだけど、果物と液体というように、全然別物というか。


哲学史とはつまり哲学の歴史です。
過去、哲学者がこういうことを言いました、とか。こんな考え方を○○主義と言います、とか。

そういう意味では数学の公式を学ぶのと一緒です。
「こういう問題が出たら、底辺×高さ÷2という式に当てはめて考えなさい」というような。

「それはウィトゲンシュタイン論理哲学論考だね」とか、「キルケゴールと似てるね」とか、「デリダの脱構築でしょ?」とか。

全然つまんない。

はっきり言おう。
哲学史はつまんない。

例えば、2枚の絵があるとします。
1枚は誰が描いたとも知れない、一般的に全然評価もされない絵。だが、あなたの胸に深々と突き刺さる、それが一生抜けることの無いほど暴力的で、狂気的で、どくどくと血を流すほど衝撃的で、甘美で陶酔してしまう絵。

もう1枚はゴッホの『ひまわり』。

『ひまわり』については、ゴッホの死後さまざまな研究家や絵画評論家がいろいろ説明していて、一般人にもしっかりと絵の素晴らしさが伝わっています。

もう1枚のあなただけを揺さぶる絵については、誰も評論も解説もしてくれないが、あなただけは絵のすごさを知っている。

この場合、どちらが素晴らしい絵だろうか。
単純に言うと、どちらの絵がおもしろいだろうか。

答えは自明だ。

あなたにとって、あなたを激震させるほどの破壊力を持った絵の方がおもしろいに決まってます。


「哲学史」とは、これとは正反対に、『ひまわり』の素晴らしさを書き連ねてるだけの、つまらないものだ。
確かに必要なものです。
絵を解説する者がいなければ、そもそも絵とはなんなのかがわからなくなる。

でもつまらない。

あなたを圧死させるほど、轢殺するほど、狂死させるほどの激動を持つ絵=哲学を知ることの方が楽しい。


だから、「哲学」と聞いて敬遠する方には、「それは哲学史なんだよ!!」と声を大きくして言いたい。


あなたはその絵を他の人にも伝えたくて、いろいろ学びたくなるかもしれない。
その手段として、ゴッホの絵の評論、ピカソの絵の評論、モネの絵の評論、シャガールの絵の評論、リキテンスタインの絵の評論などなどを学び、あなたが好きな絵の対比に使うかも知れない。

つまり、哲学を使うための哲学史なら、良い。


でも哲学史から入ってしまうのは間違いだ。
逆説になるが、多くの哲学者は、それが哲学で無いことを宣言してるだろう。
(「過去の哲学者の解説に染まるな」と言っておいて、過去の哲学者が言っている「哲学史は哲学じゃない」という発言に従う、という点で逆説)


話が長くなってきた。

つまりは、「哲学はおもしろいんだ」ということです。
ニーチェだカントだ言ってる人は、哲学をやってるんじゃなくて、ニーチェ研究家、カント研究家、ってだけです。

ゲームの攻略本で泣く奴はいない。

泣け。

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どこまで認識できてるか 

我々は普段どこまで認識できているんでしょうか。

ガラス越しで手を触れ合う恋人同士を想像してみましょう。

恋人同士は、お互いがガラスに触れていることを知っています。
この感触が恋人の手では無いことを知っている。

でももしこれが、お互いに知らなかったとしたらどうでしょうか。
恋人同士で手を合わせるとこのような感触なんだと思い込んでいるとしたら。
お互いは愛し合っているだろうが、ガラスに手をついているようにしか見えない我々からすると、悲哀や冷たさを感じる。
本当はもっと愛を確かめ合う方法があるんだ、と教えたくもなりましょう。


では話を現実に戻しましょう。
もしこの恋人達のような状況が我々に起こっているとしたらどうでしょうか。
指を絡ませ合い、手を強く握り合っている恋人同士がいるとしましょう。
ガラスの時と違い、我々はこれでお互いの肌が触れ合っていると思い込んでいます。

ですが、上位の概念がこの行為を見ると、我々が「ガラスに手をついて何やってんだ」と思うのと同じような印象を持つのではないだろうか。

我々には見えてないだけで、透明な膜のようなものがあるのかも知れないし、どこまでくっついていても完全にぴったりと肌を重ね合わせることはないということかも知れない。

状況は我々からは判別できないが、とにかくガラスと同じような状況が起こっている。


ここまで考えると、すべての状況は同じだと言える。
つまり、我々が体験していると思い込んでいるものは、実は、全然認識できていない、ということだ。
ガラスのカップルのように、通じ合っているように見えて、実際は空虚で冷たいものでしかないかも知れない。
それをただ「体験した」と思い込んでいるだけかもしれない。


我々は何を認識しているのか。
確かに指摘してくれる人がいない以上は、現在行えるものを最善として生きるしかない。
でもこの膜が取れた時には、ガラス越しのカップルが手を取り合って涙するのと同じような上昇が見られるんじゃないだろうか。

現実を疑う。
常識を疑う。
疑って真実に到達する。

到達するかどうかは問題じゃない。
大事なのは、到達しようとする意志だ。

と、アバッキオの先輩のようなことを言いたくなる。
(『ジョジョの奇妙な冒険』第5部参照)

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『神はいない』 

神はいない。

なぜなら、『神』ほどのものが言語におさまるはずがありません。
言語で表現できるはずがない。
人間が作った言語内におさまるようなものが、神であるはずがない。
おわかりでしょうか。

だから『神はいない』のです。

『神はいない』と言語で表現する。
『神』なんていない。

人が認識できるものが神なはずない。
宇宙の内部に神はいない。
なぜなら、内部にいたら宇宙を作れないからです。

では『宇宙の外』はどうか。
宇宙の外など存在しない。
なぜなら人が認識できないからです。


だからどうやっても人が神を認識できないのです。

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何者かの哲学 

哲学者永井均著「転校生とブラックジャック」が文庫化されたので購入。

ここである思考実験が行われる。

火星に遠隔輸送機がある。
地球でのデータがすべて火星で復元される。
地球でこの装置に入ると、細胞データや思考データがすべて火星に移送される。

1、火星で復元されると同時に地球で死滅するとしたら、火星にいる人物は自分か
2、火星で復元され、地球でも生きているとすると、どちらも自分と呼べるか
3、火星で復元され、しばらくしてから地球で死を迎えるとしたら、その時地球の自分は死を感じずに済むか


映画「ブレードランナー」を見ました。
DVDにはディレクターズカット版も収録されてたのですが、オリジナル版を見ました。
リドリー・スコット監督はオリジナル版のラストが気に入ってないらしいですが。


レプリカントと呼ばれるサイボーグが出てくる。
人間よりも知能や体力が勝っているサイボーグは寿命が4年と定められている。
ブレードランナーと呼ばれる特捜員はサイボーグと人間との識別法を知っているが、見分けは全然つかない。
レプリカントの中にも自分が人間だと思い込んでいる者がいます。
過去の記憶を植え付けられている。


自分とは何か。
データのみを移されたとして、今いる自分と新しく現れた「自分」との違いはなんだろう。
地球と火星で距離が離れているから区別が付きやすい。
では1m先に登場したらどうか。
クリストファー・ノーラン監督の「プレステージ」には似た命題が出てきます。

サイボーグであることが本人も他人も知らなければ、それはサイボーグと呼べるのか。


例えば、午前0時になった瞬間に、全生命体がひとつずれるとします。
キムタクは香取くんになり、ぶっさんはアニになり、アカレンジャーはアオレンジャーになり、大橋アナは大江アナになります。
精神も肉体も全部移るので、移った本人は昨日までの名残は一切無く、自分自身がまさかキムタクだったとは思ってもいません。
当然記憶も移った人の過去が継続しているので、なんら違和感ありません。

結局これって何も変わってません。
誰も知らないことは何も起きてないのと同じ。

すべてを把握している「神の視点」によってのみ、その差異が理解されます。
だからこの「さかもと」が、サイボーグだろうが昨日はかえるだろうが、なんら意味が無い。

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「世界」と<世界> 

最近哲学的思考が足りない!!

SF小説を読んでるんだけど、なんというか純粋なSFという感じで、哲学らしさが無い。
哲学を期待してSF短編集6巻を買ったのに。


何度か日記でも取り上げてますけど、「自己の消失」というのが哲学にとって大きなテーマだと思ってます。

・現実だと思ってたものが本当は夢だった(映画「マトリックス」など)
・自分自身が実はクローンだった(映画「アイランド」など)
・過去をいじることで現在の自己が別人のようになる(映画「バタフライ・エフェクト」など)
・記憶を組み替えられていた(映画「メメント」など)


信じていた自分自身がまったく別のものだった。
「自己の消失」
人間だと思ってたのに実はロボットだったとか。
現実だと思ってたものが実は脳内に送り込まれている電気信号でしかなかったとか。

自己の消失とはまさに世界の崩壊です。
世界が瓦解する。
経済的にはすでに崩壊しつつある「世界」。
核兵器ですぐに崩壊する「世界」。
僕が思う世界の瓦解は、国々や地球内での崩壊を意味していません。
「世界」よりも大きい<世界>です。
全宇宙。全多元宇宙も含めての<世界>です。

<世界>が瓦解する。

自己の消失と<世界>の瓦解。
哲学とは崩壊の序章だ。

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哲学とは崩壊である 

SF小説を読んでいます。
短編集なんですけども。
海外の小説は肌に合わないのか、読んでるとすぐ眠くなっちゃいます。
小説だからすらすら読めると思ったんですけど。


SFもいろんなバリエーションがあります。
アニメ映画「時をかける少女」も「サマーウォーズ」もSFです。
僕はどっちかと言うと「時をかける少女」系のSFが好き。
奇跡を感じさせてくれる作品が好きです。
現在自分が存在していることの奇跡です。

マンガ「ぼくらの」も好きだし、アニメ「天元突破グレンラガン」も好き。


一方で、自分を崩壊させる作品も好きです。
「哲学とは自己の崩壊のことである」という言葉があります。
僕が今考えました。

現実だと思っていたものがすべて夢だったり、親しい人物がすべて機械だったり、自分自身がすでに機械だったり。
信じていたものすべてが偽りだった。
自己の崩壊。

僕が現在生活しているこの場が例え、おもちゃ屋で誰かが買った「人間観察キット」でもいいんですよ。
すべてを誰かに掌握されてて、飽きたら僕のこの世界すべてが消滅するとしてもいい。
というかむしろ、そのような世界でなければつまらない。
「そのような」というのは、今僕が思っている現実世界が不確かである、という絶対性です。


すべてが鏡の中でのことで、実際は本物が向こう側にいるんでもいいし、すべてが影であり、実像が向こう側にいるんでもいい。

この世は「紀子の食卓」の紀子のようなもので、すべては誰かにセリフを与えられ役割を与えられてうごめいているだけだとしても、僕はむしろそこにこそ奇跡を感じます。


すべての物事はあらかじめ決まっている。
どんな振る舞いをしようと、すべてはあらかじめ決まっています。

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Skypeタイムパラドクス 

僕をSkypeに誘ってくれた方とSkypeしました。
前回は僕だけチャットだったんですけど、今回はちゃんと僕もマイクデビュー。

マイクが900円ぐらいのやつなんで集音機能が低いみたい。
マイクにかなり近づけてしゃべってます。

今はキーボードのキーの上に乗せてます。
そこに近づけてしゃべるので背中が痛いっす。

でも遠隔地の人たちと同時にしゃべるのってすごいですね。
部屋にいてパソコンのスピーカーから生の声が聞こえてくるのって不思議です。


あっと言う間に3時間経ってるんですけど。
時空が変異しているのであろう。

当然だけどタイムラグもあって、同じものを見てても時間差で音がこちらの到着します。
まさに時空を超えている。
現在に同時に過去の音が紛れ込む。


タイムラグって哲学的ですね。
現時点で過去が存在しています。
でもなんで過去を知覚できる自分しか存在しないんだろ。
未来を知覚できないもんなのか。

現時点で未来の情景を知覚できる。
それを追体験する。


Skypeで過去の人からすれば現時点が未来であるはずなんだけど、過去の人はその人自身の現時点のみを現時点としか知覚できない。


タイムパラドクスを考え出すときりがない。

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いのちのアレコレ [2009年11月07日(土)] 

「いのち」ってなんでしょう。
「生きる」ってなんでしょう。

自殺・殺人・堕胎・延命・クローンなどなど、様々な視点から語ることができる。

すなわち、

・自殺はいけないのか
・殺人はいけないのか
・堕胎はいけないのか
・延命はいけないのか
・クローンはいけないのか

というような問いとしてだ。


それぞれについては、いろいろな人がすでに語り尽くしている。

いや、「語り尽くす」という表現は正しくない。
なぜならこれらの問題は常に語り続けなければならないからだ。
対象や時代や設定が変われば答えも変わる。
例えば「自殺はいけないのか」という問題は、設定によっては安楽死問題について論じられる。


では簡単ながら「浮遊する実存と輪廻する初期設定」としての解答を書きたいと思います。
それぞれの問題は本1冊では足りないほどの内容なので、書き出せば終わりが見えません。
だから少し乱暴ですが簡単に断言していきたいと思います。


【自殺はいけないのか】

いけないはずがありません。
じゃあこれまでに自殺したみなさんはダメなんでしょうか。
その人が人生の最後にした選択を否定することは僕にはできません。

ただ、目の前で自殺しようとしてる人がいたら全力で止めます。
いけないとかそういう事じゃないのです。


【殺人はいけないのか】

いけないはずがありません。
日本はなぜ他の戦争国を批判しないのでしょうか。
それは戦争で人が死ぬのを認めてるからです。
人が人を殺すのに良いも悪いもありません。

ただ一方で、感覚的に胸クソが悪くなる殺人というのがあります。
その殺人者を殺すことくらい認めて欲しいです。
だから死刑制度賛成です。


【堕胎はいけないのか】

いけないはずがありません。
「きちんと避妊しないのが悪い」などと頭が悪い発言をする人がいますけど、この人はなんも考えてない幸せな人です。
レイプはどうか。
子供ができたとわかった時点で態度を豹変させた男が彼氏だったらどうか。
子供ができたあとで他の男の子供が欲しくなった場合はどうか。
つまり、先のことはわからない、ということです。

他にも子供を産むことで母親が死に至る場合もあります。
だから軽々しく「堕胎はいけない」などとは言ってはいけません。

胎児の頭をつぶすシーンを見せるという悪趣味な奴もいますけど、そういう気違いはほっといた方がいいです。
狂ってる人には何も通じません。


【延命はいけないのか】

いけないはずがありません。

機械に頼って生きることと、そうでないことの境界線はあいまいです。
単純にどれだけ金がかかるか、という違いでしかない。

延命させたいという人がいるのならそれはそれで構わないでしょう。

ただ、できるだけ本人の意思をはっきりさせるべきでしょう。
本人が望むことを優先すべきです。
本人が「機械につながれてまで生きたくない」と言うのであれば、延命は悪いことなのです。


【クローンはいけないのか】

いけないはずがありません。

よく「神に反する。倫理に反する」などと言いますが何を言ってるのかわかりません。
神が世界を設定したのですから、人間がクローンを作るのもあらかじめ設定されていたのです。
神の想像を超える行動ができるはずがない。
だったらそいつはもう神ではありません。

人間がクローンを作れる時点ですでに神の了承を得ているのです。



これらの問題を考えても、「いのちとは何か・生きるとは何か」という問いへの答えは出ません。
最初に書いた通り、問題を考え続けなければならないのです。

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