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実存浮遊

映画やアイドルなどの文化評論。良い社会になるために必要な事を模索し書き続けます。

自殺予防ではなく弱者救済 

9月10日は自殺予防デーらしい。

自殺予防週間のおかげで自殺が減るとは考えにくいが、自殺についてしっかり考えることはとても大事なことでしょう。


自殺問題は複雑なのでそもそも「自殺」について語ることは難しい。

先進国の中でも日本は異常なまでに自殺率が高い。

「自殺したい奴には自殺させておけ」「自殺する事態になったのは自己責任だろ」と思ってる人たちが多いであろうことも、問題を膠着化させる。


確かに尊厳死、安楽死、自死というのも見なければならない。
だが「苦しいから死ぬ」というのではなく、「苦しまされ死なさせられる」と言い方を変えたい。

自殺は自分で死を選ぶ行為ではなく、死を選ばされる事だ。


ある環境である状況になった時に自殺する。


となると「ある環境」と「ある状況」を変えて自殺という手段を選びにくいようにするのが良いでしょう。


金銭面での自殺が多いそうだが、「金が無くなったから自殺する」という状況を手当てするのは難しい。
なぜなら人はどのような事で金が無くなるかわからないからだ。
(そもそも生きるのに金がかかるって事が異常じゃないか、と言うのが坂口恭平新政府総理大臣だ。『独立国家のつくりかた』を読み始めていますが大変刺激的でおもしろい考え方を持つ方なのでぜひご一読いただきたい)


リストラで収入が断たれたのかも知れないし、職場が嫌で仕事を辞めたから金が無いのかも知れない。
会社が倒産したからかも知れないし、災害で会社が無くなったからかも知れない。
日本円に価値が無くなったからかも知れないし、そもそも経済自体が破綻したからかも知れない。

自分のせいで金が無くなる場合もあれば、自分が何もしなくても金が無くなる場合もある。

だからその一個一個の問題を解決するのは難しい。
当然ひとつひとつ議論を重ねて解決に向かうということは大切です。
でもそれだけでは自殺し続けていくことが考えられる。


だから大事なのは自殺しやすい環境を見つめ直すということです。
金が無くなっても自殺という選択肢が出ない環境。
金が無くなったら死ぬしかないという洗脳を解く社会。
この事の方がずっと大事だ。


でも日本という国は弱者を切り捨てようとする。
単純に考えて、市民が減れば税金の徴収源が減ってしまうのだから、ただちに救済した方が良いと思うんだけど、どうやら人命よりも天下り先とかの方が大切みたいなのだ。



自衛隊ってすごく大事だと思うんだけど、軍事費を自殺志願者救済に使えないものでしょうかね。
ミサイル1発分のお金で結構な人が救われる気がしますけども。

国をまもるのは大事なことでしょうけど、そのまもるべき日本国内でバタバタと人が死んでいってるわけですからね。
その内まもるべき国が無くなっちまうぞ。


問題は「再分配の失敗」だと思っています。
当然時代ごとに何が大事かはわかりませんが、弱者を救えないような国は未来が無い。だから弱者を救える社会が望ましいです。

そして、最初に書いたように「死にたい奴は死ね」とか「自殺を選ぶのも自己責任」なんて言う奴が少しでも減ることが大事です。
自分がいつ弱者になるかわからないのに、それを想像できないような奴は「なんでそんな金つかうんだ」とほざきますからね。


なのでありきたりな表現をすると「風通しの良い社会」が望ましいということですね。

大事な人は必死に守るから大丈夫、と言えなくなる社会が訪れています。

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テーマ: 哲学/倫理学 - ジャンル: 学問・文化・芸術

宮台真司は詩人だ【世界はそもそもデタラメである】 

宮台真司は詩人だ。

詩的フレーズを散りばめることで、僕のような学識の無い人間にも通じるような戦略を取っている。


戦略なのか。
詩的にならざるを得ないからこそ詩的フレーズを吐いているのか。
僕は彼が戦略ではなく、詩人だからこそ詩を紡いでるように思える。


有名なフレーズで「終わりなき日常」というのがある。

多くの人がこの言葉に酔った。
これだけで詩人であることは揺るぎない証明。
当然詩的フレーズなので誤訳されてしまう場合も多かった。
「日常は終わるだろ」と。

なんて馬鹿なんだろう。
馬鹿というより「無粋」と言った方が良いか。

そしてまんまと宮台真司の戦略に釣られている。
詩的フレーズのフックに引っ掛け、より奥へと誘う。

限られた文字数や決められたテレビ出演時間ではすべてを伝えることは不可能。
だから彼は短くてインパクトのあるフレーズを用意した。
言わば詩のタイトルのようなものだ。

インパクトのあるタイトルで興味をわかせる。



評論家の宇野常寛が「宮台真司を文学として読み解く」ということを行なったそうだが同じような感覚だろう。


宮台真司が常に意識しているのが、一般大衆には詩的フレーズで導引し、エリート層には論理で導引する、というもの。
一般大衆は論理は理解できないがパワーがある。
動かすためには論理ではなく詩的フレーズだ。

小泉元総理が当時、勢いのあるフレーズだけで国民を動かしたのは記憶に残っている方も多いだろう。



人々を突き動かすのは精緻に構築された論理ではなく、情動を突き動かす詩だ。



映画評の連載をまとめた著書『絶望 断念 福音 映画』『<世界>はそもそもデタラメである』が僕はとても大好きだ。
この2冊が僕を映画へと引きつけて止まない。

彼は社会学者だが社会の外について言及したがる。
社会とはコミュニケーション可能なものを指す。
その外部に敏感になることでかろうじて社会内部で生きていけるのだ。
彼はこう説く。

福音が訪れるのを待て、と。
平板な日常は終わらない。昨日あるように今日もある。もう輝かしい未来など想像できない。だがそれでもこの「終わりなき日常」を生きろ、と。
そのために、社会の外部から訪れる説明不可能なすごいものを待て、と説く。


社会の内部が日常。外部からの訪れは非日常。
非日常は様々だ。
ダンス、祭り、セックス、臨死体験、宗教、打ち上げ花火などなど。

それらを体験することで、日常に戻った時に「世界はまんざらでもなかったんだ」と思える。
(だが現在の日本は非日常体験を排除しようとする傾向にある。だから僕は原稿用紙53枚分の文字を使ってそれに抗おうとした)



非日常とは自分が自分で無くなる場面だ。
なぜか身体が熱くなったり、なぜか泣いていたりする。
自分ではない自分との出会い。
新たな自分に気付くこと。
それはちっぽけな自分かも知れないし、日常を捨ててまで非日常に耽溺してしまいそうな自分かも知れない。
何もわからない。

そう、そもそもデタラメなのだ。
世界も、社会も、自分も。


現在の社会システムがうまく回っているように見えるのは、たまたまうまく回っているだけだ。
(実際年間の自殺者が30000人を越えており、自殺率が先進国の中でも異例であることから、すでにシステムが破綻していることは明らかだが)

人も同じ。
人というシステムがうまく回っているように見えるのは、たまたま現在うまく回っているだけだ。


僕が根本的に何も信じていない(からこそすべてを信頼して接することができる)のはこのためだ。

「信頼」というのは、たまたま偶然そのように回っているだけだ。
ハンバーガー屋に行って見ず知らずの女性に注文し、裏で何をやってるかわからないけど、なぜか注文した物が出てきた。
そして貨幣価値があるかどうかもよくわからない紙を出し、銀色や茶色の硬化を受け取る。

電車に乗ると行き先は表示されているが、運転手の顔も名前も性格も知らないのでどこに連れて行かれるかわからない。
でもなぜか目的地に到着している。

前回そうだったように今回もそうだったから信頼している。
たまたまだ。


そう、すべてはそもそもデタラメなのだ。
それなのに、なぜかうまく回っている。
このすごさに貫かれている。



人は日常だけでは生きていけない。
非日常を体験しなければ生きていけない。
この「非日常」がたとえシステム管理されており、日常の枠内だったとしても、ある程度は有効だ。
「非日常」の端緒に触れることで、日常の枠の外に気づくことができる。



とりとめもなく書き殴ってしまった。
強引にだがまとめてみよう。

詩的フレーズに触れ、社会のデタラメさに気付け。
そこで打ちのめされ社会を生きる気力を失うかもしれない。
でも<世界>はそもそもデタラメだ。
信頼社会など微塵も信頼の上に成り立っておらず、たまたまそう回ってるだけだ。
何を絶望することがあろうか。
そしてその絶望からすべては出発する。

テーマ: 哲学/倫理学 - ジャンル: 学問・文化・芸術

ニコ生自殺大国ニッポンを見て 

『ニコ生ノンフィクション論 自殺大国ニッポン』を視聴。

途中から見たんだけど、いまいち何をしたいのかわからん。
まぁ自著の宣伝をしたいんでしょうけどね。


自殺抑止について考えることは、社会について考えることだ。

良き社会とは何かを考えることが、結局は自殺抑止について考えることになるだろう。


ニコ生を見てると、どんなことでも自殺のきっかけになると言っているようだった。

向精神薬飲もうが、抗うつ剤飲もうが、精神科医にかかろうが、恋人がいようが、自殺報道されようが、なんでも自殺につながる。


当たり前だ。
宮台真司が言うように、この世の摂理は人知を超える。
人間万事塞翁が馬。

何が良いことにつながるか、何が悪い結果に結び付くかは、その時点では誰にもわからない。


だからできるだけ即効性のある建設的なことをしよう。

僕は「がんばれって言っちゃダメ」という風潮が大嫌いで打ちのめしたいぐらいなんだけども、「がんばれ」という言葉でゆくゆくは追い詰められるとしても、現在その言葉で1日でも生き延びることができるのであれば、全力で「がんばれ」って言いたい。


自殺問題はパラドックスだ。

自殺を無くすことはできない。
なぜなら「自殺ゼロ社会」というものに絶望する存在が一定数存在するからだ。

だから自殺を無くすということはまず考えないことが重要です。


自殺は無くせない。
だが減らすことはできる。

問題は、「どの層を」「どの期間」「どれぐらいの比率で」「何人救うか」が定まっていない、ということです。


自殺は無くすことはできない。

でも減らすことはできる。

ではどうすればいいのか。


「どの層を減らすか」
「どの期間減らすか」
「どれぐらいの比率で減らすか」
「何人減らすか」


■ どの層を減らすか


まずは自殺者がどの層にいるかを調査する必要がある。
富裕層なのか貧困層なのか。
年代は。
趣味は。
人間関係は。

効果的に考えるなら、一番目立つ層に手当てすべきだ。
だが難しい問題として、「一番目立つ層に手当てしたことにより、別の層の自殺が増加する可能性がある」ということだ。
わかりやすく短絡的な例を出すと、「貧困層を救うために富裕層に重税し、富裕層が直撃をくらう」というのがある。


■ どれぐらいの期間減らすか


自殺者を減らす期間を決めることはとても重要だ。

1年の増減を見るか、10年の増減を見るか。

もし1年だけ減らしたいのであれば、2年以降自殺急増しようがどうでもいいような施策も取れるわけです。
これは極めて社会学的な問題です。


■ どれぐらいの比率で減らすか


どれだけ減らすかはとても重要です。
例えば、100人いた自殺者を何人にするか。
減らそうとする比率によって施策が変わってくる。


■ 何人減らすか


年間3万人が死んでる。
これをどこまで減らすのか。

そもそも何人自殺するのが正常な社会システムと呼べるのか。

例えば、先進各国の自殺率と日本を照らし合わせて考えればいいでしょう。
人口に対する自殺率により、目標とする自殺者数が算出される。


以上のように、ただ「自殺者を減らせ」とするのがどれほど馬鹿げているかおわかりになったでしょう。

番組では、震災以降どうか、自殺した地域ではなく自殺者の住所で比率を出せ、あと追い自殺はどうか、などともっともらしいことしか話していなかった。


世の摂理は人知を超える。

何が起こるかわからない以上、何か起こった時にすべてが瓦解するような生ではダメだ。

大事なのは3つ。

・社会学的素養を身に付けよ
・自殺率低下のために問題を細分化・明確化せよ
・予測不可能な未来に立ち向かうための共同体を構築せよ




自殺について語ることで、救われる者がいると同時に追い詰められる者もいるということに敏感でいたい。

テーマ: 哲学/倫理学 - ジャンル: 学問・文化・芸術

死ぬのがこわくなくなる話の限界 

渡辺浩弍がツイッター上で「死ぬのがこわくなくなる話」というのを展開している。


天国や地獄や霊魂など存在しない、という導入部。

どうやら哲学の「独我論」や、仏教の「空」という概念を絡めていくみたいだ。


まだ2日目なので、今後どのように発展していくのかわからないが、現時点ではがっかりだ。


なぜなら「独我論」も「空」も、現在の僕の読書体験にあるものだからだ。


もっと別の地点からアプローチして欲しい。


そもそも僕は「死」というのに恐怖感が無い。
「死んだらすべて失ってしまう。それがすごく怖い」という感覚が理解できない。

「死ぬ前に何か残したい」とかもよくわからない。

今この瞬間が素晴らしい。
過去はすでに変えられず、未来も今この瞬間では何もできない。

人は今この瞬間にしか存在していないのだ。

何を死について恐ることがあろうか。

ある哲学者が「人は死を体験しない」と言っていた。

そう。
つまり人は「死なない」。
死なない以上、死を恐る必要はない。

でも多くの人は、死ぬ人を見てきてるので、その人と自分とを重ねて見てしまう。



わかりやすく例えるなら遠足はどうか。

明日は遠足だ。
公園に行ってさとし君とキャッチボールをして遊ぶ。
さっちゃんをお昼ご飯を一緒に食べるように誘ってみよう。
明日のおやつをこれから買いに行こう。何食べようかな。


これが「死」だ。
体験してないのに、想像の中でいろいろ体験している。

そのようになるはずがない。
さとし君のほかにだいすけ君が加わるかも知れず、さっちゃんの他にともこちゃんも加わるかも知れず、買ったおやつを食べずに他の友達からもらったおかしでおなかいっぱいになるかも知れない。


つまり、人は「死」の想像だけしかできず、しかもそれに対して震えているのだ。

よくわからない。



話を戻す。


渡辺浩弍の今後の展開が、僕の範囲内であることが残念でならない。

ぜひとも僕を破壊するほどの展開をして欲しい。

テーマ: 哲学/倫理学 - ジャンル: 学問・文化・芸術

上原美優の自殺について思うこと 

上原美優が自殺したみたい。

好きな顔じゃなかったけど、良い奴っぽいので好きでした。

自殺の理由が取り沙汰されてるが。そんなのは無意味だ。

例えば、僕は今ラーメンが食いたいけど、ラーメンを食いたい理由は無いのと一緒。

テレビでラーメン食ってる姿を見たとか、最近ラーメン食べてないとか、様々な理由があるかもしれないけど、それが決定打じゃない。

他の食べ物を食ってる姿もテレビで見てるだろうし、最近食べてないものなんていくらでもある。
うなぎとかね。

うなぎ食いたい。


自殺する理由は人の数だけ無数に存在する。
そうである以上、その無数の理由に手当てすることは不可能。

だからその前の手当てが必要。

いろいろな人と関係性を深めておく必要がある。


上原美優の死に対して、多くの人が涙を流している。
問題は、多くの人に愛されても自殺してしまう事もある、ということだ。

この大問題に早く対処しなければならない。

テーマ: 哲学/倫理学 - ジャンル: 学問・文化・芸術

「美しき少年の理由なき自殺」から「無意味」と「非意味」の大いなる違いを学ぶ 

宮台真司の著書で「美しき少年の理由なき自殺」というのがある。

熱心な宮台読者である大学生の自殺をきっかけに書かれた著書です。

その中である対比が登場する。
自殺した大学生と、その友人です。
自殺した大学生が中性的な男の子で頭が良くモテるのに対し、その友人は頭が良くモテてワイルド系です。

自殺した方は「人生はそこそこ楽しい。でも世界は無意味だ」という考え。
ワイルド系は「世界は無意味だ。でも人生はそこそこ楽しい」という考え。


ワイルド系はカリスマ性があるらしく、いろんな人が慕って集まってきます。
安心感がある。


この著書を読んでから、漠然とですがこの友人の方を目指すようになった。
風貌をワイルドにする、ってんじゃなく。

悠然としてる感じというか、達観してる感じというか、宮台風に言うと「酋長的」になろうとしてきた気がします。

何も無理してそっちにシフトチェンジしよう、って決めたわけじゃなくて、この二人のどっちに近いかと考えたところ、酋長系かな、って気がしたので。


宮台真司はニーチェの言葉を持ち出します。
「世界は無意味だ、と口にする者は、『世界は無意味、という意味』にすがっている」と。
世界の無意味さを確認せずにいられないメンタルの持ち主は、まだまだ「意味の牢獄」に幽閉されています。


宮台真司がよく言うのは「無意味」ではなく「非意味」だと。
意味が無いんじゃなく、意味じゃないんだ、と言います。

例えば、ぽへぇ~と流れ行く雲や川を眺めることに意味なんかありません。
天気予測をしてるのでも川の水質を調べてるのでもない。
ただ見てるだけです。

見たいから見てる。
見なきゃいけないから見てるわけでも、見ることで利益が生まれるから見てるわけでもありません。

人生も一緒。
人生に意味が無いからって、それがどうしたというのか。
意味があろうと無かろうと、おもしろいもんはおもしろいです。


おもしろがってる人に人は集まる。
おもしろそうだからです。
酋長的振る舞い。
どんよりした人物に人は近づこうとしないですからね。


「美しき少年の理由なき自殺」を読んだのはもう何年も前ですけど、酋長に近付いてるんだろうか。

テーマ: 日記 - ジャンル: 日記

四苦八苦を踏みにじれ 

生老病死。
求不得苦。
五陰盛苦。
怨憎会苦。
愛別離苦。


四苦八苦って、「しくはっく」という語感がなんともかわいらしいが、内容は重いですね。
2さいの女の子がにこにこしながら「しくはっく」と言ってるのを想像してみよう。
世界が平和になるぐらいかわいらしいではないか。
でも2さいの女の子がにこにこしてたら、何言ってもかわいらしいと思った。
たとえそれが「けいざいかつどうがねー」でもいい。


四苦八苦というのは、生きる苦しみ、老いる苦しみ、病気になる苦しみ、死ぬ苦しみの四苦。
それに求めても得られない苦しみ、物質的精神的執着による苦しみ、憎む者と会う苦しみ、愛するものと別れる苦しみの4つが加わり、四苦八苦となります。

決してシックファックじゃない。
病気なんかクソ食らえ。

日本人って「八」が好きなんですよね。
七転び八起き。七転八倒。八百万。八幡。黒石八郎。
黒石八郎は青森県のローカルタレントだ。

八好きなんで無理矢理「四苦八苦」にしたんじゃねぇかな。
だって四苦だけでも良かったはずだし、八苦に抑える必要もなかったはずだ。
苦しみなんか数え出したらいくらでもでてくるもんだろう。
・天気悪苦
天気悪い苦しみ。

・彼女無苦
彼女できない苦しみ。

・過満腹苦
腹いっぱい過ぎる苦しみ。

・話下手苦
話が下手な苦しみ。


「四苦八苦三十二苦」ぐらいだったら余裕で作れそうだ。

でも作ったからってそれが一体なんなんだ。
万物のマイナス面ばっか見てんじゃねぇ!!
もっと前見て歩け!! 前見て!!

前見て歩いて何かにぶつかったら、そん時に自分なりの苦しみの叫びを腹の底から吐き出せ!!
「四苦八苦」なんて定型化された文言に騙されんな!!
勝手に先読みしてんじゃあねぇ!!

テーマ: 哲学/倫理学 - ジャンル: 学問・文化・芸術

自殺・無縁死・コミュニケーション断絶 

12年連続で自殺者が30000人を超えている。
先進国の中でも異常な比率だそうだ。
(自殺の話が好きな僕です。というか社会について語りたがるロマンチスト野郎だ)

先日NHKで「無縁死」について取り上げていた。
身元不明で引き取ってもらえない死者が年間30000人いるそうだ。

もう、はっきりしている。
日本という国は崩壊しました。


社会というのはコミュニケーションで成り立つ。
コミュニケーション可能なものすべてを「社会」と呼ぶ。
「自殺」も「無縁死」も、コミュニケーション不足が原因のひとつだろう。
人と人とのつながりが断ち切られ、死んでいく。
お金が無くなったらもう終わり。
離婚されたらもう終わり。
両親が死んだらもう終わり。
こんな社会なら生きていく活力が失われる。
失敗を恐れますます踏み出せず、やがてすべてが縮小していく。

こんな頭打ちな社会はダメだ。


学力重視からコミュニケーション重視へ。
利便性重視からコミュニケーションによる複雑性の重視へ。


最近じゃあ「こんな奴が合コンに来たら嫌だ」だとか、「こんな奴は恋人ができない」だとか、いろいろランキングにして取り上げてますけど、そういう類型化がいけない。
安易に人をカテゴライズすることにより、ますます人と人とのつながりが断ち切られます。
「あ、あのタイプだからもう接しない」という具合に。


自殺も無縁死も目の前の問題だ。

テーマ: 哲学/倫理学 - ジャンル: 学問・文化・芸術

「青春リアル」自殺されたと思い込む作法 

NHKの「青春リアル」という番組を見ました。
社会学者宮台真司の弟子である鈴木謙介がメインみたいです。
知り合いを自殺で亡くし後悔 している女性がメンバーに質問を投げかける、という回でした。

「真剣10代しゃべり場」と違い、メンバーのやりとりはネット上の文字のみです。
鈴木謙介もたまに書き込みをする程度らしい。
それを番組が再編集して視聴者が見る。

言わば「2ちゃんねるまとめ」をコメント者の映像付で見るような感じです。

討論から再編集へ。


ユズという20歳の女性がいとこかなんかのお兄ちゃんの自殺について悩んでました。
もっと何かできなかったんじゃないか、と。

映画やマンガでもよくある「リグレットもの」です。
「あの時ああしていれば」と誰もが思う。
別様の選択があったはずだ、と。
でもだからこそ現実を愛せる。
なぜなら「あの時ああした事」によって、救われる人と同時に不幸になる人も出現するからです。
誰かが救われることで別の誰かが不幸になる。
アニメ版「時をかける少女」はこの題材をとてもわかりやすく描いています。
別の選択が何を生むか、については映画「スライディング・ドア」がわかりやすいでしょう。


この「青春リアル」という番組を見てるとイライラします。
「真剣10代しゃべり場」の時のようなイライラです。
NHKはさすがですね。

番組中に誰かも指摘してたと思いますが、ユズは自分を責めてるけど、正当化もしています。
「もっと彼にしてあげられなかったかな?」と問う時点で、自分に非が無いことを打ち出してます。
そんなもん自分にも責任があったに決まってる。
身近な人が自殺してんだ。当然です。
でもその度合いは誰にもわかりません。
100%原因か、0.0001%原因かはわからない。
でも関わっている以上はその人物を構成する一部になっていることは絶対的事実です。

だからユズを「その時はどうしようもなかったんだよ」となぐさめることは無駄です。
同時に「ユズの責任だ」と非難することも無駄です。

ただ、今日接した人物が明日死ぬかも知れない、という想いで人と関わって来なかった現実は、震えるほど痛感すべきです。
自殺したからとかじゃない。
明日記憶喪失になるかも知れないし、明日誘拐されるかも知れない。


なんか、「今後も自分かわいさに大事な場面で人を突き放すのかな。ずっと逃げるのかな」とか言ってましたけど、んな事うじうじ考えてる暇あったら今を大事に生きろ、って思った。
お前が今まさにそうしている陰で、誰かが自殺している。
それはお前の大事な人かも知れないし、今後大事な人になる予定だった人かも知れない。

何が言いたいか。
思考が足りない。
以上。



以上じゃない。
僕が一番言いたいことは他にあります。

ユズの本棚に「GO!GO!モンスター」とか「ヘルタースケルター」とかありましたけど、それ系だから「大事な人の自殺」というテーマにこだわるんじゃないかなぁ、と思った。

テーマ: TV - ジャンル: テレビ・ラジオ

終末思想とノアの方舟 [2009年11月12日(木)] 

終末。

「2012」という映画が公開される。
マヤ文明の暦が2012年12月21日から23日の間に新しい区切りを迎える、ということで世界が終わるとうわさされるようになったみたいです。

最近、伊坂幸太郎の「終末のフール」を読んだこともあり、「終末思想」について考えています。
「2012」は地球が崩壊する様を描いた作品のようです。
地が割れ、大津波が襲い、人々が逃げ惑う。

「終末のフール」は、8年後に小惑星が地球に衝突するという報道がなされて5年経過した日本を舞台にしてます。
あと3年で地球が崩壊する。
日常を描いているので、「2012」みたいなパニックはなく。

終末ブームというのは定期的にやってきます。
それは経済の混乱とも比例する。
社会が立ち行かなくなっていると、人々は自動的に終末思想に取り憑かれる。

経済は自分の手ではどうしようもないものだ。
モンスターとも比喩できるだろうし、天災とも比喩できるだろう。
人々が生きるために経済システムを作ったのに、人々は経済システムに殺されていくのだ。

自然災害も一緒だ。
人々は自然の前にどうすることもできない。
地球崩壊を受け入れるしかない。


終末と言えば、しりあがり寿の「方舟」というマンガが思い出される。
しとしと降る雨。
長い長い梅雨のように、その雨は止むことがない。
ある人が気付く。
雨が止まないな、と。

次第に雨は地上を満たす。
雨に飲まれて人々は静かに死を迎えて行く。



終末に恐怖を抱く人がいます。
助かりたいと願う人もいる。
僕にはよくわかりません。
だって人って死ぬし。
死なない方が嫌だけど。

手塚治虫「火の鳥」に描かれているように、死なないことは地獄だ。


みんな一緒に死ぬんだから、別に怖いとか無い気がしますけどね。
日本人は付和雷同が得意じゃないか。

でも、生物の本能として絶対的なものから逃げ出してしまう、というのはあるでしょうね。
火があっついから手を離しちゃうのと一緒です。

痛いのとか熱いのとか嫌ですね。
巨石にぺちゃっと潰されたいです。
一瞬で。


世界の崩壊に立ち会えるってすごいことです。
人類史上初。
この宇宙で、母星の最期を体感する生命体はどれほどいるのか。

恐竜が絶滅したように、人類が滅亡するだけかも知れませんけどね。

とりあえず、ノアの方舟のようなものに乗って生き残る役目ではないな、ということだけはわかります。
何人生き残るかわかりませんけど、その中に入る気はないです。

あ、でも、人類を繁栄させるために種子汁を女体の核に注ぎ込まなければならない、ということだったら絶対に生き残ってやる。
しかもそのメンバーが榮倉奈々ちゃんとか夏帆とか柚月美穂ちゃんとか近野成美ちゃんとか大江アナとか時東ぁみちゃんとか荻野なおちゃんとか菅野美穂とか初音みのりとか北川景子とかだったら絶対に生き残る!!
野郎どもを焼殺してでも生き残ってやる!!

ぜってぇ生ぎのごっでやっがらぬぁぁぁぁ!!!

というかクンニ役でも良いので生き残らせてください。
よろしくお願いします。
言わずもがなアナル舐めもしますので。

テーマ: 哲学/倫理学 - ジャンル: 学問・文化・芸術