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実存浮遊

映画やアイドルなどの文化評論。良い社会になるために必要な事を模索し書き続けます。

「失わなければ与えることができない」 映画『クソ野郎と美しき世界』の優しさ 



新しい地図の3人稲垣吾郎、草彅剛、香取慎吾の主演映画『クソ野郎と美しき世界』を見ました。
事前情報無しで見たのですが、タイトルからある期待をしていました。
それは「復讐」です。

ですが良い意味で裏切られたと共に、自分の浅ましさを恥じました。
この3人は何も恨んでなどおらず、むしろこの世界の美しさに感謝していました。


以下、作品の内容に触れます。
鑑賞後にお読みください。


鑑賞後僕はすぐにこうつぶやきました。

「『クソ野郎と美しき世界』面白かった。
「失ってこそ得られたものがある」というテーマが込められた4編。
かつて与える側だった者たちが全てを奪われ、他の人たちから与えられることにより再び与える者として歩き出す。
この世界は美しい。クソ野郎どもだからこそ気付ける輝きがある。」


この映画のテーマは「失うことでしか得られない輝き」です。

『ピアニストを撃つな!』ではピアニストの命である手を失います。

『慎吾ちゃんと歌喰いの巻』では歌と絵を失います。

『光へ、航る』では息子と小指を失います。

これら3編を経て全てが『新しい詩』へとつながっていきます。


手を潰されたと思われたピアニスト。実は潰そうとしたヤクザ(大門:浅野忠信)の手が潰れていました。
しかも大門は自ら全ての指を潰すよう部下に命令し続けたのです。

大門は奪う者の象徴でしたが、ピアニストの旋律により奪われる者へと身を投じたのです。
手を失う前の大門と『新しい詩』の大門を見比べれば一目瞭然。失う前がクソ野郎で失った後は輝いています。


『慎吾ちゃんと歌喰いの巻』では、香取慎吾が本人役で登場します。
歌を喰う少女により、香取慎吾は歌と絵を奪われます。
作中では歌を忘れたのではなく自分の中から歌が無くなってしまったと表現されています。
まさに奪われたわけです。

ですが歌と絵がブレンドされたベーグル(?)を食べることでこれまでに無かった歌と絵を獲得します。


『光へ、航る』では、ヤクザを辞めるために小指を失った男(オサム:草彅剛)が登場します。
オサムの元妻(裕子:尾野真千子)は息子の治療費のために美人局で金を稼いでいる。植物状態の息子の右手をある子供に移植しており、その右手の持ち主に会いに行くロードムービーです。

東北まで行くも、古い地図がまったく役に立たず、代わりにスマホで新たな行き先を見つけるのは象徴的でした。


野球選手を夢見ていた息子(航)の右手は沖縄の少女(光)に移植されていました。
息子とキャッチボールをしたことが無かったオサムは、光のおかげで航の右手から投げられたボールを受けることができました。


長々と書きましたが、最初に書いた通りこの映画のテーマは「失ったことでしか得られない輝き」です。
この世界の美しさは何かを奪われた者にこそ強く輝きます。


最後に。
園子温監督は映画『ヒミズ』のラストを原作と変え、主人公を自殺させるのではなく生かしました。そのことについてこう語っています。
「絶望に勝ったんじゃない。希望に負けたのだ」と。

それに対し『ピアニストを撃つな!』で、スクリーンに向かって駆けながら「愛してる!」と叫びまくる姿は、『ヒミズ』のラストを反転させているように感じました。

「希望を失ったんじゃない。絶望に勝ったのだ」と。
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映画『スリー・ビルボード』と「風が吹けば桶屋が儲かる」 



映画『スリー・ビルボード』(原題 Three Billboards Outside Ebbing, Missouri)は今見るべき作品だ。
『スリー・ビルボード』公式サイト

あらすじはこうだ。
娘をレイプされ焼き殺された母親ミルドレッド。
7ヶ月経っても捜査が進展しないことに苛立っている。
差別主義者の警官は黒人への暴力で憂さ晴らしをしており、ミルドレッドはしびれを切らしある行動に出る。
レイプ現場の近くに建っている3枚の看板にメッセージ広告を出したのだ。

1枚目「娘はレイプされて焼き殺された」
2枚目「未だに犯人が捕まらない」
3枚目「どうして、ウィロビー署長?」

警察署長批判とも取れる広告に警官や町民達が騒ぎ始める。


これだけ読むと、「復讐に燃える母親が犯人を逮捕するまでの物語」だと思うだろう。
だがこの映画は誰も予想できない結末を迎える。

キーワードは「世の摂理は人知を超える」


以下の文はネタバレを含む。



■ アメリカ批判

この映画は復讐劇の皮をかぶったアメリカ批判映画だ。

黒人を虐待する白人警官。
レイプ犯の兵士を逮捕できない体質。
男児を犯す神父と、それを断罪しないキリスト教。
DVやレイプに虐げられる女性達。

展開が目まぐるしく移り変わっていくのは、それだけアメリカには批判すべき悪習がこびり付いているからだ。


ミルドレッドは広告を取りやめるように諭す神父に向かって言い放つ。
「80年代、ストリートギャングの抗争が激化し、これらを取り締まる法律が作られた。ギャングの一員であるならば、例えそいつが寝てたとしても、別のギャングの犯罪により逮捕することができる。神父も一緒だ。例え2階で寝てたとしても、1階で男児を犯す神父が居たら同罪だ。男児へのレイプを見て見ぬ振りする神父にとやかく言われたくない」(意訳)

ミルドレッドはキリスト教ごときでは救われない。
娘がレイプされ、焼き殺された。ただ犯人を捕まえることだけが生きる意味だ。

なぜそこまで、と思ってしまうがある理由が判明する。


■ リグレット


ミルドレッドは娘と口論になる。
車を貸してと頼む娘に「マリファナ吸って運転するような子には貸せない」と断ったのだ。
「歩いていけばいい」という母親に「歩いて行ってやる!途中でレイプされても知らないから!」と反抗する娘。
ミルドレッドはそれに「レイプされればいい!」と突き放すのだ。

そして娘は実際にレイプされ、さらには焼き殺されてしまう。

しかも、若い女と暮らしている元夫から「殺される1週間前に娘はオレと暮らしたがっていた」と告げられる。
あの時「レイプされればいい」など言わなければ良かった。もし元夫の所で生活していればレイプされなかったのに。
これら後悔から、自分の罰を剥ぎ取りたい一心で復讐に向かっているように映る。


ウィロビー署長にも後悔があった。
それはレイプ犯をいまだに捕まえられていないことだ。

癌により余命わずかな署長は、ミルドレッドの広告を批判し、病状を伝え取りやめるようお願いする。
だが署長の死期を知りながらもあえて名指しで広告を出したミルドレッドに、署長は翻心する。
ミルドレッドへ匿名で広告料の寄付をし、ミルドレッドのやり方を彼女への手紙の中で賞賛したのだ。

そのような人物であったことに気付いたミルドレッドは、後悔の果てにさらに復讐心をたぎらせる。


3枚のロードサイドの看板広告と、みんなに愛された署長の死により、物語はさらに予測不能な展開になる。
先ほど書いたように、この映画はアメリカ批判が詰め込まれている。
そして、さらに大きなものが描かれている。
この映画は世界の縮図だ。


■ 世の摂理は人知を超える


この映画は展開が読めない。
次から次へと因果が巡っていく。
そして、その因果律は人々の目には見えない。
世の摂理は人知を超える。

「風が吹けば桶屋が儲かる」
だが誰も桶屋が儲かった原因を知ることなどできない。

「人間万事塞翁が馬」
馬のせいで、あるいは馬のおかげで様々な吉凶が起こるが、吉と出るか凶と出るか、そしてその禍福がいつまで巡り続けるのかは誰にもわからない。

この作品はそのような映画だ。


マリファナをやる娘を叱る。
娘がレイプ犯に殺される。
母親が広告を出す。
署長が自殺する。
悪徳警官ディクソンが広告会社の代表に暴行する。
3枚の看板が燃やされる。
ミルドレッドが警察署を燃やす。
偶然そこにいたディクソンが大やけどを負う。
署長からの手紙によりディクソンが正義に目覚める。
偶然レイプ犯に遭遇する。


普通の映画のように、ある結末に向けて順序よく物事が起こらない。
何かのきっかけで悪いことが起こったりほんの少し良いことが起こったりする。
でもそのおかげで、あるいはそのせいでまた良いことや悪いことが舞い込んでくる。

世界は操縦できない。翻弄されるだけだ。
ただ、この映画が優しいのはラストを見れば十分伝わってくる

娘を殺した犯人だと思われた男はDNA判定により別人とされた。
だがどこかで誰かを焼きながらレイプした事には間違いない。
そこでディクソンはミルドレッドに「殺しに行かないか?」と提案する。

レイプ犯のもとへ向かう道中、「警察署に火をつけたのは私だ」と告白するミルドレッドに「あんた以外誰がいる」と、ディクソンはすでに受け止めていたことがわかる。
この優しさは、半殺しにした広告会社の代表レッドから大やけどの入院中にされた行動に依るだろう。
顔まで包帯で覆われたディクソンに誰とも分からず優しくするレッドは、ディクソンであると分かり動揺し罵るが、それでも優しくしたのだ。

何かのきっかけのせいで悪い結果を呼ぶが、そのきっかけは誰のせいでもない。
この映画で一番悪いのはミルドレッドの娘をレイプし殺した犯人であることに間違い無い。
でもこの映画が癒し映画なのは、突き詰めるとすべての物事は誰のせいでもない、ということがわかるからだ。

世の摂理は人知を超える。

すべての物事は、時間を超えて、距離を超えてやってくる。
そして、これからの我々の行いも、時間を超えて、距離を超えて誰かのもとに届く。
それがその人にとって良いことになるのか悪いことになるのかは知るすべが無い。
だから、隣にいる敵も許し合えるはずだ。
ミルドレッドとディクソンのように。


素晴らしい映画でした。


アニメ版『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』に無いもの 

体感時間2時間30分。
ほんとに90分しかなかった?

無意味に変なアングルを連発。

不自然な会話。

感情移入できない少年たち。

好きになれないヒロイン。

悲哀もカタルシスもない物語。

この世界の奥深さが微塵も刻み込まれていないアニメーション。

良いところを探す方が難しい。

アニメ版『時をかける少女』と比べればこの映画の出来の悪さが一目瞭然でしょう。


「もしも」の世界に没入していく度に世界が歪む。
だったら変なアングルは序盤は皆無にし、世界が変わる度に増やした方がわかりやすい。

正常な世界に戻った時に主人公の少年が不在なのだったら、もっとわかりやすく描いた方が良い。
(自ら現実世界を放棄したのか、夏休みを脱しきれないのか、好きな人を遠くにやった悲しみから休んでるのか、等)


様々な可能世界のたった一つを今まさに我々は生きている。
「あの時ああしていれば」の「ああしていれば」はもう二度と選択できない。

だからこそたった一つしかない今のこの世界は愛おしいし、そして絶望的なまでに悲しい。
「あの時ああしていれば今頃」と「あの時ああしなかったからこその唯一の今」とが幾重にも幾重にも積み重なっている。

それが『時をかける少女』ではとてもわかりやすく描かれていて、この映画では描かれていない。


この映画を見れば現実はもっと切なく、もっと豊潤で、夏休みはもっと少年を成長させ、もっと後悔させ、もっと愛おしいことを再確認することでしょう。

この世界の奥深さを確かめるためにこの映画の浅はかさを浴びよう。


【追記】

実写版を鑑賞しました。

こちらはタイムリープではなくifもので『スライディングドア』や『チェンジングレーン』と同じジャンルでしょう。

他にもいかにアニメ版が改悪だったのか良くわかりました。

小学生の頃の夏休みだからこそ描けた心の揺らぎがある。

大人にならざるを得ない少女。
離別を知り大人へなるであろう少年。
少年たちの達成されない冒険と、冒険したからこそ見ることができた奇跡のような瞬間。

先生だって打ち上げ花火が丸いか平べったいかなんてわからない。

ただ、下から見た少年と横から見た少年たちとでは丸っきり景色が違う。
それは、大人にならざるを得ない少年と、まだもう少し子供のままでいられる少年たちとの違いでもある。

下から見た打ち上げ花火は平べったいか。
横から見た打ち上げ花火は平べったいか。
それは見た者が体感することなのでしょう。

実写版ジョジョの奇妙な冒険の謎 

「原作レイプ」なんてはしたない言葉は使いませんし、実写化により原作を改変させられたところで原作の素晴らしさが翳ることはありません。
むしろ、原作の輝きはやはり絶対なのだと確信できるでしょう。やはりジョジョという漫画は物凄いのだと。


この映画で原作に興味を持つ方が増えたらとても嬉しいです。



以下ネタバレを含みます。







まず映画としてテンポが悪過ぎます。
セリフの言い方にこだわっているのか、出来事に対するスピードを殺してしまってます。
それが顕著なのが虹村形兆を倒す場面です。
原作では発射されたミサイルをクレイジーDで治すことで形兆にミサイルを撃ち返す展開です。
形兆はバッド・カンパニーへの命令が間に合わず爆撃を喰らいます。
実写版の場合、バッド・カンパニーに「一度出した命令は覆らない」という設定が足され、そのせいで形兆に戻ってくるミサイルへの射撃命令が通らずバッド・カンパニー達はオロオロします(オロオロする兵士たちはかわいかった)。

更には、仗助は康一に「時間を稼いでくれたおかげで」ミサイルを治せた、と言うのです。
体感時間で3分ぐらいしゃべってた気がしますが、この間延びした演出は映画として爽快感を失ってました。


ラストはなんとシアーハートアタックに形兆は殺されてしまいます。
口の中にいる爆弾を見て「ザ・ハンド使って取り出せよ」と多くの原作ファンが思ったことでしょう。
シアーハートアタックは原作では体温に近づくと爆発するので、形兆の身体に1分以上いたのは取り出す絶好のチャンスだったのに。
しかもシアーハートアタックを削って消滅させれば本体の左手を無くせたのに。
億泰は最大のチャンスを逃しました。

シアーハートアタックはその場にいる人全てを爆破してから本体に戻るものだと思うのですが、本体はどうやって形兆だけを判別し弓と矢と形兆を始末し、他の3人を残して戻っていったのか疑問です。


他にも、アクアネックレスに追い詰められた状況で自身のスタンド能力を大きな声で公表する承太郎や、バッド・カンパニーごときに勝てないアンジェロなど、不思議な点がちらほら。
屋外は海外で撮影されたそうで、BGMも西洋の雰囲気なのでまったく日本らしさがありません。
「普段生活してる隣人が実は…」のようなゾワゾワ感も一切無く遠い国のお話のようでした。

あと人型のスタンドは半透明にしないで欲しかったです。


原作を知らない人がこの映画を観て、映画として楽しめたのか疑問です。

2章も絶対見たいと思わせる映画でした。

映画『獣道』の宗教 

承認を求める者から与える者へ



以下映画『獣道』のネタバレを含みます。




あえて描かなかったのかも知れないが、宗教の教義と教祖の逮捕理由を描いて欲しかった。

少女時代、彼女が幸福だったのは絶対的な存在に承認されていたからだった。
それゆえ周囲の信者も一目を置く。

ラストこれが逆転する。
教祖だった男はアナンダのマネージャーになり、アナンダは彼女の魅力で一目置かれる存在となった。

彼女がアナンダである場面は3つある。

最初は少女時代の宗教施設。
ここへは親に捨てられ入信した。

次は中学校に転校した時。
ここへは宗教施設を奪われ来た。

最後は人気AV女優。
全てを失った果てに到達した。


そう、彼女は失われていく度にステージを上げていく。

一目で凄い(ヤバい)存在とわかる亮太。見るからにヤバいヤンキーが一瞬で亮太を認めたり、優等生の少女が一瞬で惚れたりする場面でも強調されている。
その亮太が愛衣に惹かれるのは、愛衣が教祖となる存在だからだ。


お互いにビンタしながらも激しく求め合うシーンは明らかにキリスト教をモチーフにしている。
頬をぶつ相手ごと愛するのだ。


親に捨てられ、彼氏に捨てられ、一度埋葬され、胸をさらけ出してまで守りたかった優しい擬似父にも捨てられ、処女を失い、何も無くなった果てにAV女優として皆を赦し救う存在となる。


承認を求め続けることで全てを失い、全てを失ったことで承認を与える存在となる。

伊藤沙莉無くしては成立しない素晴らしい映画。

ブルドッキングヘッドロックvol28『バカシティ たそがれ編』が持つ批評性 


ブルドッキングヘッドロックvol28『バカシティ』(公演期間2016年11月2日~11月20日)を観劇してきました。
バカシティ公式サイト

『桐島、部活やめるってよ』や『幕が上がる』の脚本としてもお馴染みの喜安浩平さんが主催する劇団の公演なのですが、劇団員の岡山さんと親しくさせていただいたご縁もあり、ぜひ見に行きますとお約束したのでした。
岡山さんとはももクロファン同士として知り合い、『シン・ゴジラ』に衝撃を受けて一緒に2回目を観に行く仲に。『君の名は。』も二人で鑑賞などし、最近も『この世界の片隅に』を鑑賞してきました。

岡山さんから『バカシティ』のチラシをいただき、ご一緒していたれにちゃん推しの友人と共に軽い感じで「あー行きます行きます」みたいな感じで約束しました。

喜安浩平さんと言えばアニメ版『はじめの一歩』の主役の声を担当していて、僕は最初一歩の声の人と『桐島』の脚本家が同じ人だと思いませんでした。珍しい苗字の人が二人いるんだな、と。
なので同一人物だと知った時は衝撃的でした。『はじめの一歩』で泣き、数年後には『桐島』が話題になり、そして僕の大好きなももクロちゃんの主演映画の脚本までなさるとは。
しかも今調べてみたら、個人的に2016年ベスト3に入る『ディストラクション・ベイビーズ』の脚本も真利子監督と共同で手掛けていたなんて!
ちなみに真利子監督はももクロちゃんが出演している映画『NINIFUNI』の監督ですね。
ももクロがつなぐ凄まじいご縁。


そういうこともあり、『バカシティ』を観劇するのは大変楽しみでした。
友人と渋谷で待ち合わせをし、「出演者の友人ということで差し入れとか買っていくべきではないか」などと気付き、きゃーきゃーテンションが上がりながら「岡山さんだから岡山県産のぶどうでいいのではないでしょうか。僕られにちゃん推しだから紫のぶどうで合ってるし」と、何が合ってるのかわかりませんが、高級感漂うぶどうにしました。これならみなさんでパクつけるでしょうし。

そして会場であるアゴラ劇場に行ったのですが、ここって『幕が上がる』で高橋さおりらの先輩が公演を行った場所ではありませんか!
友人は知っていましたが僕は無知なまま生きているので途端にテンションが上がりました。
ここにももクロちゃんや黒木華さんや伊藤沙莉ちゃんや吉岡里帆ちゃんや芳根京子ちゃんが!?
オリザ人形が運ばれたり!!
しかも『バカシティ』を観劇に相楽樹さん(『とと姉ちゃん』の次女役でお馴染み)もここに来てたの!?
アゴラ劇場すごい!!

そしたらテンションが上がり終わりまして、開演まで2時間ぐらいをどうするかという話になり、食事するところを探して歩いていたら渋谷にたどり着きました。そしてご飯食べたら眠くなりました。
「観劇中に寝てしまったらどうしよう」という恐怖に怯えながら会場へ。アゴラ劇場の中はとても狭く、舞台まで手を伸ばせば届きそうな距離です。


『バカシティ たそがれ編』が終わり友人と一番最初に交わした会話が「岡山さん主役じゃん!」でした。
主役への差し入れに「岡山県産の紫のぶどう」という笑えないものを選び、こんな僕らが一番バカじゃないか、という落ちがついたのでした。
観劇後に劇団員さんと交流会があり、岡山さんに「主役だったら最初から言っておいてくださいよ!」と怒りました。
しかも喜安さんや『幕が上がる』のプロデューサーさんらしき方もいらっしゃって、岡山さんのおかげでご挨拶できました。
「バカシティ面白かったです!ももクロちゃんも大好きです!」とこれまたバカみたいな感想でした。


ということで前置きが長くなりましたが、以下『バカシティ たそがれ編』の感想です。
公演のDVDも発売されるかと思いますので、ネタバレを避けたい方は以下読まない方が良いです。
ちなみに相楽樹さんが客演しているのは『1995』というタイトルらしいですよ。




● 『バカシティ たそがれ編』が持つ批評性

落語がモチーフとなっているタイムパラドックスもので、物語の整合性を確かめる暇も無く笑いで圧倒された。
あらすじを言うと、地下アイドルに入れ込む3人の男がいる。そのアイドルからメールで結婚を約束されるのだが、3人とも受け取っていた。その中の1人松本は過去の時間をいじる事でアイドルを独り占めしようとするが、時間警察に追われる身となり、歴史の改変が繰り返されることで物語はあらぬ方向へと進んでいく。

他の公演はもっと静からしいが、初めて見るのが『バカシティ たそがれ編』で良かった。
松本さん役(松本哲也)が素人目に見ても上手なのがわかる。自然体にしか見えないんだけどしっかりおもしろい。もちろん脚本もあるんだろうけど、岡山さんに聞いたらセリフを変えたりもしたそうなので、すごい人なのだろう。
しかも最初のシーンは「これは時間が繰り返されているんだ」と気付くための重要な場面なので、ここに印象的なフレーズを置いておくのはとても効果的だった。
(岡山さんがスマホを使ってるだけでどうかと思ってる、平べったい石でいいじゃん、というようなセリフ。笑えて、かつ、2回目3回目の時に時間が戻ったんだとちゃんとわかる大切な場面)

中盤の時間停止の畳み掛けはくだらなくて最高に笑えました。
「タイムストップ」
「タイムストップストップ」
「タイムストッププレミアムエディション」
など、まさにバカバカしい展開に。

社員旅行のシーンでは劇作家の平田オリザさんが演出する「同時多発会話」が起こるが、すぐに「うるせえな!」と消される。
「本物」と「本物っぽい演劇」と「おもしろい演劇」の区別がなされている気がした。
演劇がより本物に近づくことが良しとされるとしたら、そこにはいわゆる「ドキュメンタリーの壁」と同じ問題が発生してしまう。
つまり「カメラがあるじゃん」ということだ。演劇の場合は「観客がいるじゃん」ということ。

一方で、日常を食い破るほどの凄まじい作品というのは、本物っぽいかどうかなんて瑣末な問題だ。
『ディストラクション・ベイビーズ』を例にすると、主人公を柳楽優弥が演じていて、セリフはほとんど無くケンカしまくる役だ。こんな奴とは普通に生きていて出会えるはずも無く、本物っぽいかどうか判別できない。
でも、凄い。
この映画を見る前と後では日常の景色が違う。
ちょうど『アオイホノオ』の再放送が放映されていた時期でもあり、柳楽優弥のすごさも感じた。

「本物」と「本物っぽい演技」と「凄い演技」というのは全部違うということ。
日常生活で俳優と観客を意識することもなければ、どれだけ本物っぽい演技をしたところで観客は見ているものを演劇と意識せざるを得ない。
どれが一番か二番か、という問題ではなく、それぞれすべて別のもの、ということだ。
その意味で『バカシティ たそがれ編』で「同時多発会話」を否定したのは区別化を宣言したように感じた。


これにつながる問題で、観客は何を見て、何を意識からはずそうとするか、というものがあり、『バカシティ たそがれ編』では大いに唸った。

時を止められ動けなくなった人の顔に水しぶきを掛けると動けるようになる、という設定が明かされる。
人はどんなに我慢してても顔に水しぶきが掛かると思わずまばたきしてしまう、という馬鹿げた理由なのだが、ここが物語の伏線になっている。

劇中、岡山さんは全身汗だくになっている。だが観客は汗だくになっている岡山さんを見て笑わない。なぜなら意識を外すからだ。
日常生活で全身汗だくになって会話してる人は見かけない。岡山さんはあくまで演劇中で動いているから汗だくなのであって、物語の中では汗だくではない、と観劇中は「汗」を意識から外そうとする。

そこへ来て、岡山さんにタイムストップが効かないのは顔が汗で常に濡れているからだ、と明かされるのだ。
今まで見ないようにしていたものが突然目の前に現れる衝撃。
観客全員が「やっぱ汗すごかったよね!」と意識がひとつになり大爆笑に包まれる。

ここも現代演劇への批評のように感じた。
「本物っぽい演技」をしても生理現象までは止められない。
聞いた話では岡山さんは汗を大量にかくために裏で水を飲みまくってたそうですが。


● 「おかしみ」ってなんだろう

「知り合いが出てるから」くらいの軽い気持ちで見に行った演劇でしたが、主役だったし内容も面白かったので観劇できて良かったです。
出演してる女優さんもかわいかったです。

地下アイドルが好きというのは絶対岡山さんをモデルにして作られた脚本だろう、と思った。
地下アイドル役の二見香帆さんは絵恋ちゃんの動画などを見て研究したそうです。

あとバイトの先輩に扮した時間警察役の鳴海由莉さんの「キングダム読んでっから」というセリフで笑いました。ちょうど『キングダム』を最新刊まで読み終えたばかりだったので。


ただタイトルがいまだに謎です。
もっと落語っぽいわかりやすいタイトルでも良かった気がするし、馬鹿な人が登場するわけでもありませんでしたし。

ブルドッキングヘッドロックは「おかしみ」を標榜しているとインタビューに載っていました。
それは「バカ」とは違う気がしました。
メタ的に現代演劇を批評することでも無いでしょう。
むしろ「シティ」という語感にまとわりついているおしゃれさの方に近いのかも知れません。
悲哀さというか、笑うしかない状況というか、そう言ったものが「おかしみ」なのかも知れません。


『魔銃ドナークロニクル』が倫理観を揺さぶる 

舞台『魔銃ドナークロニクル』初日を観劇してきました。

吸血鬼がテーマということを知り期待が高まる。
というのもモー娘。とスマイレージの舞台『LILIUM 少女純潔歌劇』が大好きで、こちらも吸血鬼のお話。
「リリウム」とはおそらく「リリス」と「サナトリウム」の造語。

では『魔銃ドナークロニクル』とは何かと言うと、人を不老不死の吸血鬼にしてしまうバイツを倒すための道具「魔銃」とその魔銃を使える適合者「ドナー」の物語ということ。
そして「クロニクル(年代記)という言葉が観劇後大きな意味を持つ。


魔銃に充填するのは呪われた血液とされるもので、そのマイノリティな血液型を持つ者は常に全身に痛みが走る奇病に蝕まれている。この血液がバイツにとって猛毒という設定だ。
妹のために戦う浅倉神酒と、才能を持つ者をバイツにする御船彼岸子の壮絶な血の戦争が始まる、かと思いきや物語はここから二転三転していく。

ネタバレをしないために多くは語らないが藤子不二雄『流血鬼』という漫画がとても参考になるだろう。
この漫画は、通常は忌み嫌われる吸血鬼だが、実際に噛まれ吸血鬼になると人間だった時よりも夜の美しい輝きを浴びることができ、吸血鬼同士幸福に人生を過ごすことができると描かれる。吸血鬼を殺そうとする人間こそが「流血鬼」という名の殺戮者だ、という指摘が込められているのだ。

100年生きない人と、1000年以上も生きる吸血鬼とではそもそも倫理観が違う。
人は人としての、吸血鬼は吸血鬼としての倫理観に沿って生きている。
『魔銃ドナークロニクル』でもバイツは理想に生き、ドナーは現実に生きる。
観客は人側の倫理観しか持ち合わせていないため、苦痛を抱えるドナーに感情移入せざるを得ない。
だが御船彼岸子の愛くるしいキャラクターと最後に明かされる真実により倫理観が揺らぐだろう。

この物語はいつから始まりいつまで続くのかわからない。だからクロニクルなのだ。



以下はネタバレ込みの「こうしてくれたら大好きだった案」です。
単純に僕の好きな展開、というだけです。



1、浅倉姉妹二人で血液充填すれば熱かった
姉の血液量が限界となったところで妹が血を差し出しましたが、ここは妹も出血多量で限界という展開にし、一発の弾丸に姉妹で半分ずつ出し合って魔銃に充填した、という流れにするとかなり高まります。

2、御船との約束はバイツになることだった
終盤で御船と浅倉姉がある約束をするのですが(観客にはこの時何を約束したかわからない)、バイツとなって千年王国に入れ、という約束だったらもっと深くなった気がする。
妹を救うために人を捨てバイツになる姉。妹は病気が治るが姉を失う。姉は妹が助かるが自身の生きる糧を失う。
そうして妹の血を飲んで死ぬとかドナーだった時の自分の魔銃で自殺するとかいろいろおもしろい(というか根暗?)な展開になってかなり高まります。

3、御船とハイネの関係性をもっと強烈に
ラストで御船の想いがわかるわけですけど、ここはとても素敵なのでもっとわかりやすくというかインパクトを強く描いて欲しかった気がします。
貴族種ハイネととバイツ御船の関係をもっと描かれていたらより感動的だったかなぁ、と。


ということでいろいろ書きましたけど単純におもしろかったです。
みなさんかわいいということもあってかなり引き込まれました。
マイクを使っていないので聞き取りにくい部分もありましたけど、120分があっという間で、チケット代が高いと感じませんでした。
お怪我や風邪などに注意して最後まで乗り切っていただきたいです。

ドラマ版『時をかける少女』が少年を大人にする(はず) 


ドラマ版『時をかける少女』が全5話終了しました。
原作というよりはアニメ映画版の『時をかける少女』をモチーフに作られており、アニメ映画版が大好きな僕はずっと楽しみにしていました。
何より主人公の未羽役黒島結菜ちゃんはかわいいし、親友の吾朗役竹内涼真君は『仮面ライダードライブ』でずっと見ていたので好感が持てました。

以下、アニメ映画版と今回のドラマ版のネタバレを含む内容になっています。
なぜアニメ映画版は傑作だったのにドラマ版は残念な結果になってしまったのか。




■ 催眠術は必要だったのか

アニメ版との大きな違いは未来人が催眠術を使えるという点です。
ピラミッド型のアイテムを宙に投げるとその場の人たちは記憶を改ざんされてしまうのです。
個人的にはこのアイテムがこのドラマをダメにしたのではないかと思っています。
記憶の改ざんと歴史の改ざん。
未羽は翔平に記憶を改ざんされたまま歴史を改ざんし続けるわけです。

他にも、アニメ版はタイムリープの使用回数に制限がありましたが、ドラマ版は特に制約は無さそうでした。
ドラマ版第5話では、7年前という長い時間を戻ったせいなのか、その後タイムリープができなくなっていました。


アニメ版では未来人は転校生ということでクラスに入ります。
ドラマ版は手続きが面倒だったのかクラスに以前から居たように催眠術をかけ、忍び込んだ家の未亡人に息子であるかのように記憶を操作しました。


催眠術が万能なのでタイムリープのありがたみが薄れました。
歴史を改ざんするよりも記憶を改ざんする方が楽でリスクが少ないので、感動的な場面でも「催眠術使えばいいじゃん」となってしまいます。
タイムリープの唯一性、危険性、せつなさ、というものが削がれた気がします。


■ ドラマ版のタイムパラドクス

アニメ版では、タイムリープした主人公はその時間軸の自分になります。
つまりどの場所からタイムリープしても、その当時立っていた場所からスタートするわけです。
どういうことかと言うと、タイムリープした先に自分と同じ人物は存在しない、ということです。

例えば『ドラえもん』はタイムマシンを使うと昔ののび太を未来ののび太が目撃する、ということがあります。
アニメ版『時をかける少女』はこれとは違う、ということです。

ドラマ版の場合は好きな場所に飛ぶことが出来、しかも7年前にタイムリープしても未羽は高校生の姿のままでしたから、きっとその時は小学生の未羽も同時に存在していたことになります。
つまり、未羽がタイムリープすると、通常進行の未羽と未来から来た未羽が同じ時間軸に存在していることになります。

この問題は特に意識されてませんでしたが、実際は自分が居た場所を避けて過去にタイムリープすべきであり、もし二人も未羽が居たら大混乱となっていたことでしょう。
未羽のことなので、そうなったらまた過去に戻れば良いと思っているのでしょうが。


■ せつなさが損なわれる

ドラマ版はもっと良くなったはずなのに、どうしてこんな結末になってしまったのでしょう。
せつなさがまったく足りません。

アニメ版では未来人からの告白をタイムリープで何度も無かったことにします。
未来人を未来に戻す時になって主人公は好きだったんだと気付き、でももう一生会えないことを悟り、ありえたはずの初恋を自ら捨て去ってきたことを後悔し大泣きします。

一方ドラマ版では未羽は、吾朗ちゃんからの告白を何度も消し去り、幼少時の記憶を改ざんした翔平を好きになります。
そして数年で死んでしまう未来人翔平を未来に戻すため、タイムリープを獲得した時に戻ります。
そのまま実験器具を壊さなければ翔平は何も知らず未来に戻れました。
ですが未羽は自分が経験してきた思い出の写真アルバムを決して経験できるはずがない翔平に託すのです。
これから付き合うことになって、初めてキスもされて、と細かく説明もしました。
何もしていない翔平に責任感を負わせ、自分だけは「初恋を捨てて好きな人の命を守った」とヒロイックに打ちひしがれる。
アニメ版の主人公真琴と比べなんと無粋な少女なのでしょう。
黒島結菜ちゃんがこんな無粋な少女を演じていたのが不憫です。

吾朗ちゃんは歴史通りだと夏祭りの日に未羽に告白するのでしょう。
でも未羽は翔平のことを想っているので告白を断るのでしょう。もしかしたら夏祭りにすら一緒に行かないかも知れません。
幼少期の未羽の髪を切るはさみにすら嫉妬し、何年も想い続けてきた少年は、存在すらしない(しかも未羽の幼少期の記憶を改ざんし好きにならせるような)翔平により初恋が実らず終わってしまうのです。

なんとせつない物語なのでしょうか。
第5話では吾朗ちゃんはほとんど登場しません。
タイムリープ仲間なのに、未羽は吾朗ちゃんに相談すらしません。

時をかける少女は自分勝手な少女でしたが、時をかける少女に振り回される少年はとてもせつなかったです。

世界はLEGOのように優しい 映画『ルーム』に描かれる親子の「日常」の差異に世界の調べを聴く 



映画『ルーム』を見た。映画『ルーム』公式サイト
気付くと涙がこぼれていた。
誘拐された女性が監禁部屋で子供を産み、その子が部屋を脱出するストーリーだという予備知識だけで鑑賞したのが良かった。
その後の展開を知っていたらここまでの衝撃と感動は得られなかっただろう。

これからの文章はネタバレを含むので、未見の方はぜひご鑑賞後にお読みいただきたい。



● ママの非日常とジャックの日常

7年前に誘拐監禁された少女ジョイ・ニューサム。誘拐犯の子を産みジャックと名付けられたその子は5才の誕生日を迎えた。
5年間監禁部屋の中だけで生きてきたジャックは母親ジョイと自分だけが本物で、テレビの中の出来事は偽物だと教えられてきた。
幸福に暮らしていたジャックは母親の異変に気付く。
実は母親は少女時代に誘拐され監禁されているのだと、外は宇宙ではなく世界が広がっているのだと説く。
信用せず今の幸福な日常を壊されたくない少年は、母親の気迫に身を固くし、死体のフリをして男を騙す作戦を実行する。


ジョイにはハイスクールまでのキラキラした日常があり、7年間は地獄のような非日常だった。
ジャックは監禁部屋の5年間こそがママとのキラキラした日常であり、怖いママが言う嘘のような外の世界は恐ろしい非日常でしかない。
ジョイは日常を取り戻そうとし、ジャックは日常に居続けようとする。

ジャックに仮病を演じさせ病院にいる誰かに助けを求めるメモを渡すよう準備するが、誘拐犯はジャックを外に出そうとしなかった。そこでジョイはせめて息子だけでも外に出そうと、息子に死体のフリをして途中で逃げ出すよう教える。
息子が生きていることがバレてしまえばジャックもジョイもタダでは済まないだろう。それでも母親は我が子に外の世界の素晴らしさを教えたかったのだ。

もし誘拐犯の車がトラックで無く他の車に買い替えていたら。もし誘拐犯が町中を運転していなかったら。そもそももし監禁部屋のすぐ近くにジャックを埋めようとしていたら。
様々な幸運が重なりジャックはトラックから逃げ出し、優秀な警官のおかげでジョイも無事保護された。


ジョイは輝かしい日常を取り戻し、ジャックは見るものすべてが恐怖の非日常を過ごすことになる。
ジャックにとって外の世界を生きるママは別人のようだった。でもママしか本物の人間はいないから頼るしかない。

誘拐されていた7年間はとても取り返せるようなものではなかった。
ジョイの両親はおそらく誘拐事件をきっかけに離婚していた。
ハイスクール時代の写真を見て、仲良しの友達ではなくなぜ自分こそが誘拐されたのかと絶望が蘇る。
温かい母親(ジャックの祖母)に育てられた心優しき少女ジョイは誘拐犯の「犬を助けて欲しい」という嘘に騙されて7年間地獄に落ちた。
世間はジョイとジャックの保護を祝福したが、ジャーナリストは「なぜ子供を監禁部屋で育てたのか。誘拐犯に頼んで施設で育ててもらった方がジャックにとって幸せだったのではないか」と突きつけてくる。

そう、この世界はキラキラとした日常なんかじゃない。過酷で腐りきった日常でしかない。

残酷な日常に打ちひしがれジョイは自殺未遂をする。
母親とはなればなれになったジャックは次第にこの世界を受け入れ始める。
優しいおばあちゃんとおばあちゃんの彼氏。その彼氏が連れてきた犬。近所に済む友達。
おばあちゃんに「大好きだよ」と告げるシーンはとても感動的だ。
入院中の母親に「パワーが宿ってる」と教えられた髪の毛を贈るジャック。
そのおかげで母親はかつての優しさを取り戻した。
ジャックの乳離れのシーンもとても感動的だった。


ジャックは5才になり、2つのおもちゃで遊んだ。
1つは誘拐犯にもらったラジコンカー。もう1つは親子の保護を知り寄付されたLEGO。
ラジコンカーはジャックに壊されその後遊ばれなくなった。
LEGOは最初遊ぶことを拒否したが、その後家を作ったりバラバラにして遊んだ。

共に日常を壊されたジョイとジャックはお互いを想い合うことで新しい日常を獲得した。
この世界は残酷だ。想像を絶するほどの悪意に満ち満ちている。そしてこの世界は優しい。あふれるほどの温かさで包まれている。
この世で最も忌むべき誘拐犯は少女を地獄へと突き落としたが、そこで産まれたジャックは3度も母親を救った。
監禁部屋から助け、自殺未遂の自死念慮を取り払い、そして監禁部屋に直接お別れを言いに行く。
ジョイはジャックに救われるたびにこの世界の豊潤さに癒されていく。

日常はあっけなくボロボロと壊される。でもまた作り直すことができる。
世界はLEGOのように優しい。


映画『クロスロード』が描く青年海外協力隊は人を動機付けるか 


青年海外協力隊を描いた映画『クロスロード』を鑑賞しました。
公式サイト

アローディアちゃんがかわい過ぎて内容が頭に入りにくいという事態になりましたが、以下ネタバレを含む感想のため了承の上お進みください。




カメラマン助手の沢田とボランティア精神あふれる羽村。
考えるよりもまず行動に移す沢田は派遣先でもすぐに溶け込むが、実直な羽村は自分を出せずにうまく溶け込めない。
一方沢田は自分の成すべきことを黙々とやり遂げていく羽村に対して負い目を感じていた。

フィリピンでの2年間を「何も得られなかった」と語る沢田。岩手でも青年海外協力隊の時のようにボランティア精神あふれる活動を続ける羽村。
負い目を感じ続ける沢田は羽村に憧れるが、羽村も沢田の行動力に憧れており、岩手で沢田的に振る舞うことで今でも活動を続けられているのだ、と感謝を述べる。

そのことで嫌なことがあったフィリピンに再び訪れる決意をする沢田はそこで自分の活動の意味を実感する。


タイトルにあるクロスロードとは正反対の沢田と羽村が理解し合えたことを指しているのでしょう。
交わることで今までは見えなかった景色も見えるようになる。


物語の構造はとてもわかりやすいです。
二人の性格の異なる男がいて、お互いを意識することで成長する。

沢田は観光課の手伝いをするためにカメラマンとして協力するが、フィリピンの過酷な生活環境を目の当たりにし、この環境を変えたいとシャッターを切りまくる。

羽村はどじょうの養殖を伝え、それなりに成果が出るが、数年経った現在は施設の維持費など別の問題が浮上していると語る。

支持された活動に歯向い自分の思うがままに行動した沢田は環境を変えることができ、実直な羽村は環境を変えても問題をも生み出してしまう。
だからこそ羽村は沢田に憧れ続ける。

そう。人は利他的な行動をする者に惹かれる。
命を助けた子に別れの日カメラを盗まれた沢田はそのカメラを子供にあげてしまう。おそらく2年間の画像データが詰まっていたであろうデジタル一眼を恩知らずな子供にあげてしまうという利他的な行動は、その子がジャーナリズムを継承するということにつながる。
その子の写真が評価され、劣悪な環境が改善されていく。

当初の沢田の写真で環境を変える、ということにはならなかったが、沢田の行動がゆくゆくは環境を変えた。

ボランティアとは利他的であること。
利他的な行動が環境を変える。


■ 『クロスロード』の物足りなさ

この映画は青年海外協力隊の表層を描いているように感じました。
実際に協力隊に参加し、現在も海外支援している友人に聞くと同じ印象を持ったそうです。

理由は2点あります。
1点は「さらに劣悪で残酷な環境があるだろう」と感じさせるゆるやかさ。
もう1点は「沢田が他者に影響を与えるほどの男に描かれていない」というゆるやかさです。


この映画を見ていて、目を覆いたくなるようなシーンは皆無でした。匂い立つような場面もありません。
ですので少年がカメラを盗む行為も、ただ少年が悪者であるかのように映ってしまいます。
子供が売られたり臓器売買のために殺されたり、物を奪わずには生きていけないような環境が描かれていたら、少年がカメラを盗むのは必然だと納得できます。劣悪な環境であれば誰でもカメラを盗まざるを得ない、という納得ができるのです。

命を助け、姉と共に仲良しになり、カメラの撮り方を教えるくらい親密になるのにカメラを盗まれる。
劣悪さが描かれていないと、カメラ好きになった少年が盗んだ、となります。
劣悪さが描かれると、親密でもカメラを盗まざるを得なくさせる環境こそが狂ってる、となります。

単純に少年を矯正すればいいということではなく、環境から変えなければならない、と観客に感じさせるには、より劣悪さを描くべきでした。


2点目です。
沢田は初対面でも誰にでも好かれるような懐の深さと行動力、自分が撮った写真で環境を変えたいという熱い想いがあります。
ですが観客にとってすべて理解可能な行動に思えます。
そのような立場なら自分も同じように行動できそう、と感じさせます。

理解不能な利他性により人は動きます。
カメラを盗んだ罪悪感を抱えながらカメラマンとなった少年。「一枚の写真で世界を変える」という想いを引き継いだということが描かれています。
このあたりの理由付けが弱く感じました。
フィリピンの劣悪な環境を変えるためになぜか必死に行動する沢田が描かれていたら良かったと思います。
それを見た少年は「なぜこの日本人は関係無い国のために必死になるんだろう」と理解不能な利他性に打ちのめされることでしょう。
盗んでしまったカメラで罪悪感を抱きつつもあの日の沢田のようにカメラを撮り続ける青年へと成長するのがきれいに描かれたはずです。


青年海外協力隊というのはこんな活動をしていますよ、という広報的な映画としては正しい作りだと思います。
ただ、青年海外協力隊に参加せざるを得なくさせるような映画では無かったかと思います。