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実存浮遊

映画やアイドルなどの文化評論。良い社会になるために必要な事を模索し書き続けます。

中高生からの社会学「規制は人々を幸福に導くのか」 [2009年01月15日(木)] 

■ ルールの必要性と過剰適用の危険性について考える

みんなも「なんで校則ってあるんだろう」とか「校則をやぶる事って本当に悪い事なんだろうか」って考えた事があると思う。
僕が小学生のころに思ってたのは、「なんでろうかを走っちゃいけないんだろう」って事。
たしかにろうかを走って他の人とぶつかったらケガをする。
じゃあぶつからなかったら走って良いんじゃないか。
そんな事を考えていた。

・ケガをしないように行動する
・他人に迷惑をかけない

と教えるべきところを「ろうかは走らない」と教える。
それにより、どのような利点があり、どのように誘導されがちか。そんな事を考えていきたいと思います。

「中学生・高校生から考える社会学」第6回は「規制」についてです。

■ ルールって本当に必要?

ルールにはいろいろな種類がある。
法律や校則など「文章になっているもの」。
親や先輩から無言にしつけられる「文章になっていないもの」。

また、別の分け方もあります。
「大きな共同体に参加した時に従うルール」と「小さな共同体に参加した時に従うルール」です。
例えば、「全校生徒の前で急に裸にならない」とか、「家のトイレの扉は必ず閉める」とかです。

文章にされてるかされていないか、参入する共同体が大きいか小さいかに関係無く、ルールができた理由が存在します。
何かあったからルールができた。

ルールに従うという事は、その共同体に参加すると表明した事と同じ意味になります。
つまり項題にある「ルールは必要か」という問いに対しては、「その共同体に参加するのならば必要」という答えになります。

なので、ルールが気に入らないのであれば、その共同体を抜けるか、そのルールを変えるように働きかける必要があります。

本テキストでは「ルールは必要」という前提で進めていきたいと思います。
ですが、当然のように「ルール」にも様々な問題が発生します。

■ ルールが決められた意図を見抜こう

家族・学校・アニメのファンコミュニティ・日本人など、それぞれの共同体に参加するためにはルールに従う必要がある、と前項で書きました。

でもみんなも感じた事があるように、「そのルールで喜ぶヤツいるか?」ってものがあるます。
ルールだから従わざるを得ないけど、実際は多くの者が不利益をこうむっているようなルール。

わかりやすい例を出すために、「文章化されておらず」「小さな共同体」で決められたルールを考えてみましょう。

「学校の不良リーダーにお金を差し出さなければ殴られる」というルールがあるとします。
このルールは、不良リーダー以外の生徒に不利なものです。
お金を差し出すのが好きか、殴られるのが好きな人はあまりいません。
当然このルールは、ルールを決めた不良リーダーと不良グループだけが利益を得られるルールです。

このようなわかりやすい「変なルール」は批判しやすいでしょう。
多くの者が被害に遭っている、という点からも批判しやすい。

だけど、法律のような「文章化されていて」「大きな共同体」に向けられたルールはなかなか批判が起こりにくいという問題があります。
なぜなら「文章が複雑過ぎて、何を縛っているルールなのか読み解けない」という点と、「共同体が大きいので、誰の利益か、誰の不利益かがなかなか見通せない」という点があるからです。

この2点も問題をわかりやすくすると、次のようになります。

・ルールの意図を見抜き、不備なところを読み解ける技術を身に付けられるか
・誰の不利益か、どのぐらいの範囲で不利益か、どのぐらいの期間で不利益かを、常に話し合えるか

1点目は、ルール作成者の好きにさせないという事。
2点目は、絶対的なルールというのは成立が不可能という事。
これらを踏まえておく事が大切です。

もう少し掘り下げて書いてみます。


・ルールの意図を見抜き、不備なところを読み解ける技術を身に付けられるか

これは、「ルールを見抜けなくさせるルール」が作られるという大問題が常につきまといます。
それにともなって、「ルールの不備を発見できても発言できなくさせるルール」が作られる問題もあります。

なので、すべての人の発言する権利を侵害するようなルールは絶対に成立させてはなりません。
そしてそのためにも、ルールを決める人が何を意図しているか見抜く能力を養わなければならない。

当然「ルール解析能力を育たなくさせるようなルール」についても敏感でいる必要があります。

・誰の不利益か、どのぐらいの範囲で不利益か、どのぐらいの期間で不利益かを、常に話し合えるか

前述の通り、全部の人が納得できるルールというのは成立する事が不可能です。
なぜなら、そもそも「全部の人」が誰を指しているかが決められないからです。
国による文化の違いもあれば、個人的な好き嫌いもあります。
それに、10年後の幸福を目指して今を犠牲にする人もいれば、今楽しければ10年後どうなってもいいという人もいます。

なので、いつでも発言ができる環境を守り続け、その時に何を優先するべきか常に検討し合う事が大切です。

■ 規制される事が逆に人々の平穏を脅かす?

多くの人はルールに従わない人が悪く、ルールに従ってれば安全だ、と考えます。
ここにも問題があります。
それは「ルールに従わない者は悪だ」と思い込みやすいという点です。

ここでは「大麻」を例に考えてみます。

日本では大麻を所持したり栽培する事が違法とされています。
ですがオランダでは合法だし、他の国でも日本ほど厳しく取り締まらないところがあります。

ではオランダ人は日本人より悪い人達なんでしょうか。
当然そんな事はありませんね。
その共同体のルールに従っているだけです。

ですがルールで縛れば縛るほど、また別の問題が出てきます。
それは、規制される事で更に深部へ、更に巧妙化する、という事です。

ルールで縛って規制したつもりが、犯罪が複雑化・巧妙化し、誰が何をやってるかわからなくなる、という問題が出ます。

規制が厳しくない時は犯罪に深く染まらずに救えたかもしれないのに、規制を厳しくしたせいで取り返しのつかない事になりかねない。
具体的に書くと、不良がたむろする場所がわかってる時は、そこに行けば悪いヤツがいるから注意しやすかったのに、不良が集まる場所を規制してしまうと、不良がどこにいるのかわからなくなってしまう、というような事です。

つまり、集まる場を規制して無くしたからと言って、それは表面上の事でしかなく、本質的な解決にはならない、という事です。
この事からも、ルールを決める事が人々の平和に結び付くというわけではない、とわかります。

さらに、過剰な規制により人々の目に見えないようになると、「どこかでうまい事やってるんじゃないか」という疑心暗鬼におおわれます。
表面上だけがきれいになったせいで、見えない部分に対する不安が増大する。
その不安がますますルールの厳罰化へと駆り立てます。


まとめます。

僕たちは、ルールが決められそうになったら、常にどんなメリットやデメリットがあるか、特にデメリットについて議論する必要があります。
そして、議論しても正解が出る事はありえないから無駄だ、と思い込まない事も大事です。
そのためにも、ルールに賛同する人の人数や割合などの数値、甘い言葉にだまされてはいけません。
「規制を学ぶための発言や議論の場を規制」するようなやり方をも批判できるぐらい成長する必要があります。
なんでもかんでも規制する事がみんなの幸せになるわけでも無い、という事を自覚しながら、ルールを決めたり廃止したり話し合わなければならないのです。
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中高生から考える「意味」 [2008年12月06日(土)] 

■ 「生きる意味」があれば生きる意味はあるのかを考える

「中学生・高校生から考える社会学」第5回は「意味」についてです。


みんなの中には「数学を勉強して意味あんの?」とか「どうせ死ぬのに生きてる意味あんの?」と考えた事がある人もいると思う。
僕もそうだった。
生きる意味が無いのに生きている人がいっぱいいるのが信じられなかったんだ。
どうせ死ぬのになんでみんながんばるんだろう、って。
だから自殺する奴の気持ちがよくわかった。死んだ後であれこれ理由を付けて納得したがる人を見ては、「そういうんじゃねぇだろ」と思ってきた。
「生きる意味なんか無いから死んだだけ」。そう思っていた。

じゃあ、「意味」ってなんなんだろう。
「意味」に意味はあるんだろうか。


■ 「意味」という言い訳

みんなの中にはゲームが好きだったり、サッカーが好きだったり、おしゃべりが好きだった、ジャニーズが好きだったりする人も多いと思う。
例えばゲーム。
ゲームに意味はあるだろうか。
「将来ゲームクリエイターになりたいから」とか「小説と同じようにゲームの物語に感動する」とか「友達と一緒に遊ぶから」とか、いろいろ理由はあるだろう。
でもきっとそれは後から考えた理由だ。
本当は「したいからする」という理由だと思う。
正確には理由になってない。
「なんでしたいの?」と聞かれて「したいから」と答えても説明になってないよね。
たぶん学校のテストだったら点数もらえない回答なんじゃないかな。
でも社会学ではそういう答えでもアリだ。

うまく説明できないけど、やりたいからやる。
でも時代が進み言葉が発達し情報が増えると、「意味」と「無意味」の意味が問われるようになる。
自分の行動に対し、言葉を使って説明を求められたり、同じ物事に対し、意味があると思う人と無いと思う人が生まれるようになったりする。

単純に考えればわかる事だけど、大昔は言葉が無かった。生きるために行動していた。
でも今は「言葉」が意味を持ち過ぎている。
「言葉」を使って「言葉」の枠内で考えるから、「言葉」の内部にあるものが全てだと思い込みやすい。
それが現在僕たちが暮らしている社会だ。

でも多くの事は「言葉」を介さない。
「意味」に捕らわれていない。
意味を付けたい人が意味を付けて安心しているだけなんだ。
でも実は、さっきも出たように、これも理由になってない。
「なんで意味があると思いたいの?」と聞かれて「意味があると思いたいから」と答えても説明になっていない。

「意味がある事が良い事だ」と思い込んでいる人は、「意味がある事は意味がある事だ」という馬鹿げた言い回しに気付けていない人だ。


■ 「人生は無意味だ」という意味

前項で、「言葉の価値が上がり言葉に頼る事が多くなった結果、言葉で説明できない事に対して軽く見るようになってきた」というような事を書いた。

では「人生は無意味だ」とつぶやく人はどうだろう。
人生の無意味さに気付いている人は、意味にこだわっている人よりも敏感なんだろうか。

ゲームをしたり、サッカーをやったり、多くの事に理由は無い。
だから「人生は無意味だ」と言うのは簡単だ。
でも「人生は無意味だ」と言う人は、自分が言葉の内側にいる事に気付いていない。「人生は無意味だ、という意味」に頼ってる事に気付けていないんだ。

哲学者のニーチェという人は、「意味」についてこのような事を言った。

「意味が見つからないから良き生を送れないのではなく、
 良き生を送れていないから意味にすがるのだ」

人生が楽しくない人は、「ここではないどこか、今ではないいつか」を夢想しがちだ。
「それさえ見つかれば人生が楽しくなる」と、人生の意味や生まれてきた理由を探し求める。
でもどうだろう。
ゲームやサッカーをやって(あえて触れてなかったけど、サッカーゲームでもサッカー観戦でも良い。楽しければなんでもいい)楽しいと思ってる人は、わざわざ意味を求めない。
意味があるならあるで構わないし、意味が無くても別にそれでも良い。

意味にこだわる人と同じくらい、無意味にこだわる人もいる。
ニーチェはそれに対しても指摘しているんだ。

「人生は無意味だ、という意味にすがる者は、無意味さから程遠い」

人生の意味にこだわる人も、人生は無意味だと言う人も、同じように「意味」にこだわっている。
ずっと見つからない「意味」を追い求める事も、「人生は無意味だ」という「意味」にすがって生きるのも、ある程度は有効な生き方だろう。
そう言っている間は生きられるからね。

でも「意味」にはまだ先の問題があるんだ。


■ 無意味な世界を楽しく生きる

前項では、「意味も無意味も、結局は意味の内部にある」というような事を書いた。

ここで話をわかりやすくする為に、3つのグループに分けよう。
1つ目は「意味グループ」
2つ目は「意味脱出グループ」
3つ目は「言葉脱出グループ」

「意味グループ」は、意味のある人生を探し求めたり、人生には意味が無いと言ったりするような人の事だ。
意味や無意味についてたわむれる事ができる分、割と生きやすい。

「意味脱出グループ」は、「世界は無意味だ」というのも意味だと気付いている人の事だ。
だから、「意味グループ」よりも深く世界の無意味さに気付いている。

「言葉脱出グループ」は、言葉では説明できないものに対して敏感に反応し、人生を楽しく過ごしている人の事だ。
「意味グループ」や「意味脱出グループ」を見て、彼らが何をしているのか理解できない。
ただダンスしたり歌ったりして楽しく生きられる人だ。


前項までは「意味グループ」と「意味脱出グループ」の事を書いた。
本項では、「意味脱出グループ」と「言葉脱出グループ」の違いについて書こうと思う。

「人生は無意味だ」という言葉を発した時点で、十分意味にとらわれている事に気付いた「意味脱出グループ」。
でも、無意味な生を生きるのはかったるい。
人生の意味を探したり、人生は無意味なんだぜとエラそうに言ってた方がまだ楽に生きられる。

世界の無意味さを理解した途端に訪れる試練。
生きる事に意味は無いし、死ぬ事にも意味は無い。
GO!GO!7188の表現を借りると、「味の無くなったガムを噛み続けるような世界」だ。
そんな世界は、つらい。

ここに第1グループ、第3グループは生きられるのに、第2グループの「意味脱出グループ」は生きるのがつらい、という問題がある。
そして、第2グループに移ったら、もう第1グループには戻れないんだ。
なんとか第3グループに移るしか無い。
でもここまで読んでくれたみんなはすでに気付いていると思うけど、「意味脱出グループ」から「言葉脱出グループ」に移る意味なんか存在しない。
第3の「言葉脱出グループ」に意味を求めるという行為が示すものは、その人が第1の「意味グループ」の人間だという事実だ。

第3の「言葉脱出グループ」の人は、おいしいものを食べたり、気持ち良いセックスをしたり、楽しいおしゃべりをしながら生きる。
意味じゃない事を、言葉を経由しないで、純粋に楽しむ。
最初から第3の「言葉脱出グループ」にいる人もいるし、第2グループから移れた人もいる。
生まれながらにして「言葉脱出グループ」の素質がある人は楽だが、第2の「意味脱出グループ」でもがいている人はつらい。
なんとか第3のグループに移りたいのに、移る事にはそもそも意味が無いんだ。

じゃあ第2グループはどうすればいいんだろう。
それは成長するしかない。
本を読んだり、いろんな人と会ったり、いろいろな景色を見たりする。
つまり世界の見え方を変えるんだ。
「世界の素晴らしさに気付け」という意味じゃない。元々「素晴らしい世界」に意味なんか無い。
そうじゃなく、素晴らしくもない世界、意味の無い世界に存在する自分をしっかり見つめ直すんだ。
わかりやすく表現すると「ありえなさ」に気付く事。
自分が自分として存在する事のありえなさがわかるだろう。


長々と書いてきて、みんなも読み疲れただろう。
でもしっかり読んでくれたみんなは、もうわかってるだろう。
そう。この文章には元々意味が無い。
「全てに意味は無い」とすでに気付いている男が、それを踏まえた上であえて意味の無い行為をしているんだ。

この文章があるきっかけになっても良いし、ならなくても良い。
ただ、「人生は無意味だ」と思っている君達には、まだまだ先がある事を知ってもらえたと思うし、「人生が無意味なのはわかってるけど、生きるのがつらい」と思ってる君達には、味の無いガムを噛み続けてでもあえて待てと言いたい。


■ 「生きる」と「生きない」と「死ぬ」と「死なない」の鉄線の上で

まとめよう。
言葉に頼るしかない社会では、言葉にする必要が無いものに対して「無意味だ」と思い込まされる。
元々無意味な世界に対し、「無意味という意味」を経由して生きられる人がいる一方で、世界の無意味さに絶望してしまう人もいる。
だが、それでもあえて待て。

このような事を前項までで書いてきた。

「生きない」というのは「死ぬ」というのとは違う。
世界に絶望したからと言ってわざわざ死ぬ必要は無いんだ。
そんな世界、生きなきゃ良い。
より良く生きなければならないと思うからつらい。生きなければ良い。
死なないでいれば、必ず何かが訪れる。
無意味と知りつつもあえてそれを待とう。

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社会を生きていくには信頼するしか無い [2008年11月27日(木)] 

■ 信頼するってどういう事なんだろう

「中高生から考える社会学」第4回は、「信頼」についてです。

みんなもよく、「ずっと信頼してた友達に裏切られた」とか、「人を信頼するのが怖い」とか悩んだりすると思うんだけど、人を信頼するかどうかの基準ってなんなんだろう。
そもそも、「信頼」ってどういう事なんだろう。

最近ニュースをにぎわせている「食品偽装問題」というのがある。よくコメンテーターが「食への信頼が揺らいだ」とか言ってるよね。
なんで僕たちはこれまで「食の信頼」をあてに出来てたんだろう。なんで今「食の信頼」が揺らいだんだろう。


■ 不確定な成功体験=信頼?

学校帰りにファーストフード店に寄る人も多いと思うけど、なんでどこの誰だか知らない人が出してきたハンバーガーを平気な顔して食べられるの?
なんの肉かもわからないし、ジュースに何が入ってるかもわからない。
でも僕たちは、「ハンバーガー」を注文したら「ハンバーガー」が出てくると信頼し、おいしく食べてる。

ここで行われているのは、

・みんなと一緒感覚
・成功体験の反復

の2つだ。それぞれ考えてみよう。
「みんなと一緒感覚」というのは、他の人たちを自分と同じような立場に置き換えて感じる事だ。
レジに並んでいる人を見て、「この人は得体の知れないバーガーや、毒入りジュースが出ないと信頼してるから並んでるんだ」と思い込む。
実際その人が毒入りジュース好きかどうか聞いたわけでも無いのに、自分と同じ立場だと思ってしまう。
これが「みんなと一緒感覚」だ。

次は「成功体験の反復」について。
みんなは、コンビニで買い物したり、切符買って電車に乗ったり、CDショップでアルバムを買った事があるよね?
自分は無くても、親や友達がしているのを見た事ぐらいはあるだろう。
それこそが「成功体験の反復」だ。

社会で生活していく上で、「お金を払ってものを買う」というのを体験していく。
誰だかよく知らない店員だけど、お金を払うと自分の望み通りの事をしてくれる。
その成功体験があるから、ファーストフード店にも安心して行けるんだね。

これらをよく理解するために、一旦頭を真っ白にしてみよう。
固定観念を捨てるんだ。

コンビニに行って、おかしとボールペンをレジに出したとしよう。
でも店員は、そのおかしを食べ出し、しかも芸能人みたいに紙にサインを書いて君に渡したんだ。
確かに君は「これを買いたいので売ってください」とは言ってなかったけど、普通はそんな事しないよね?
少なくとも「これ食べてください」とか「サインしてもらえますか?」という意味で、レジの店員に出したわけじゃないはずだ。

なんだかよくわからないまま駅へ。
切符売り場の行列に並んでいると、前の方から「やったー」とか「ちくしょー」とか聞こえてくる。
不安に感じたまま自分の番になり券売機の前へ。
切符を買ったつもりが、「末吉」という紙が出てきた。

どうだろう。こんな社会に暮らしたいと思う?
確かに、生まれた時からこういう状況だったら、なんの違和感も無く生活できるだろうね。
この「なんの違和感も無く生活できるだろう」という見えない期待こそが「信頼」の正体なんだ。
不確定な成功体験が「信頼」のベースなんだね。


■ 社会を生きていくには信頼するしか無い

「信頼」がどれぐらい大事かわかってもらえたと思うんだけど、みんなはこれまでここに書かれたような事を考えた事があったかな?
たぶんほとんどの人が考えた事が無いんじゃないだろうか。
と言うのも、「社会」というのはそういうものだからなんだ。
みんなが、「この店員何すっかわかんねぇ」とか「電車に乗っても目的地に着かないかもしんない」とか不安にならずに済む社会。
そんな無駄な事をわざわざ考えなくても良い社会。
それが僕らが目指すべき「社会」なんだ。

だって、いちいち相手の身分証明証を確認しなきゃなんない社会とか、お店が常に客をだまそうとしている社会なんてイヤでしょ?


前項で「みんなと一緒感覚」と「成功体験の反復」という話をした。
でもわざわざこういう事を教えられた事は無いと思う。
小さい時から親の買い物姿を見たり、おこづかいでお菓子を買ったりして、社会生活を過ごしている現在の君たちがあるはずだ。

つまり「信頼社会」というのは、教えられるまでもなく教わる事ができている社会という事なんだ。
食品偽装問題は、もともと信頼する土台なんて無かったという事実がみんなに知れ渡ったから、社会が不安になってるんだね。

よく先生の不祥事がニュースで取り上げられます。
他校の生徒とセックスしたとか、女子更衣室を盗撮したとか。
そうなると、誰も先生という職業を信頼しなくなります。
つまり「先生」というのは、たまたま今まで社会的に信頼できるように設定されてただけ、という事です。

このように、現在は「信頼社会」が揺らいできています。
かつてなら無条件で信頼できていたものが信頼できなくなっている。
信頼しようとわざわざ思わなくても良かったものが、信頼すると決めなければ信頼できなくなっている。
言い換えると、信頼によるリスクを計算せずにはいられなくなった、という事になるでしょう。


■ 信頼する仲間はどうすればできる?

前項で、現在が「信頼社会」から「不安社会」にシフトしてきている事を書きました。
「信頼」というのは元々不確かなもので、それが明るみに出てきたので、信頼を裏切られないように警戒するようになる。

ここで、一番最初の問題に戻ろう。
信頼してた友達に裏切られたとか、人を信頼するのが怖いという、君たちが一番悩む問題。
ここまで読んでくれたみんなはすでにわかると思うけど、「友達」というのはそもそも信頼できないものなんだ。
君の友達は、なんで「友達」なんだろう。
同じクラスだから? 話が合うから? 近所だから?
もし同じクラスじゃなかったら。話が合わなかったら。近所に住んでなかったら。その友達は「友達」にならなかったんだろうか。

さっき出た「望んだ行動をしないコンビニ店員」を思い出そう。
この店員からわかるように、現在コンビニで普通に買い物できるのは、たまたまそのようになっているからだ、という事がわかるよね。
つまり、信頼とは不安定だという事だ。

では「友達」はどうだろう。
実は友達も一緒なんだ。友達だけじゃなく、恋人もそうだし、家族だってそうだ。
友達を信頼したり、恋人や家族を信頼するという事は、そもそも不安定な事だ。
何が言いたいかって言うと、友達に裏切られたからと言って、君が泣く必要は無いって事だ。
その友達の状況や住む環境。体調や時代によって、裏切るか裏切らないかは大きく変わってくる。
これは想像しやすいと思う。

「だったら誰も信頼できないじゃないか」と思うかもしれない。
でも「社会を生きていくには信頼するしかない」という項目で書いたように、自覚的に、無自覚的に関係無く、信頼するしかない。

みんな無意識に、「家族ならこれぐらいしても裏切りにならない」とか「恋人だったらこれをすれば裏切りになるかも」とか「友達にこれをしたら裏切りだ」とか思っているだろう。
自分と相手の考え方の違いから、相手の裏切りが許せなかったり、自分が裏切ったと思ったけど許されたりする事もあるだろう。
許せるか許せないか。自分と相手の許容度がどれぐらいか。
それらが重なり合って「絆」が深まる。

ではここで、二者択一の質問をしよう。
「二者択一の問題を出す者は、どちらか一つを選ばせようと意図している」という事についても書きたいけど、話の軸がぶれるからここでは触れないでおこう。

では質問。
君はどちらの人と友達になりたいかな?
・人は元々信頼できないから、いつでも裏切れるように身構えている人
・人は元々信頼できないとしても、それを踏まえた上であえて信頼しようと心掛ける人

答えは明白だね。
人は、理屈なんて関係無く、ただ信頼したいから信頼してるだけって人に惹かれるものだ。
裏切られたら離れれば良い。だから裏切られるまではずっと信頼する。
さっきも書いたように、どんな人でも、時代や状況が変わる事で、本人さえも予測しなかった行動や態度を取る。
だったら信頼するのが嫌になったら信頼するのを止めればいいだけの話だ。
「友達に裏切られた」とか「人を信頼するのが怖い」なんて悩む必要は無い。
人はいつでも裏切る可能性はあるし、だからと言って人を信頼しないで生きていくのはもったいない。

「不安社会」よりも「信頼社会」の方が生きやすい。
同じように、「不安ベースの人」よりも「信頼ベースの人」と一緒にいる方が楽しい。人も集まってくる。
信頼できる仲間を作るにはどうすればいいのか。
それは君が相手を信頼すれば良いだけの事なんだ。

言葉遊びにしか思えないかもしれないけど、君が相手を信頼してて、相手も君を信頼している場合、「裏切る」なんて状況は一切入り込む余地が無い。

まとめよう。
社会は元々信頼できない。たまたま信頼できるように設計されていただけだ。
友達や家族も一緒。今まで信頼できたから、これからも信頼できるだろう、と思い込んでるだけ。
だからもし君が裏切られたとしても、君は泣く必要は無い。
去っていく人を見送り、今居る仲間をどこまでも信頼しよう。
そういう君だからこそ信頼できると思う人が必ず現れる。

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監視カメラと防犯カメラってどう違う? [2008年11月11日(火)] 

■ 楽しいゲームとつまらないゲーム

「監視カメラ」と「防犯カメラ」ってどう違うんですかね?

ここにも当然のごとく「戦略」が存在します。
監視カメラを設置したがる側はこれを「防犯カメラ」と呼びます。
監視社会化が目的ではなく、防犯が目的だ、と市民にアピールする為ですね。


このように、ネーミングで注意を逸らす戦略はいろいろなところで見られます。
ネーミングだけじゃありません。
数値によっても市民を誘導しようとしている奴らがいます。

どうやら日本人は「パーセント」を出されると思考停止に陥るらしく、数字だけ見て「多いんだな、少ないんだな」と判断しがちです。


「二酸化炭素削減」と付けばなんでもありがたがるのと似ています。

例えば、1から13までのカードを3枚ずつ2人に配り、同時に1枚出して数字の大きい方が勝ち、というゲームがあるとします。
相手が最初に出したカードにより、いろいろな事が想像できると思います。
言い忘れましたが、最終的に負けた方は目つぶりビンタです。

自分の手持ちカードから残りのカードを類推し、相手が出したカードの数字からも類推する。
そして自分が出したカードによって相手が次にどう出るかも類推するでしょう。

物事もこれと一緒。
ネーミングでの誘導や、グラフを持ち出す人の意図を常に読まなければなりません。

「元々ゲームしてるわけじゃないし、勝ち負けがあるもんじゃないだろ」
という批判もあるでしょう。
でも、誰も勝ち負けが無いとも言ってないんですね。
それに、もし相手がゲームにどうしても勝ちたいと思ってたら、不意打ちで勝とうとしたり、詳しいルールを告げないまま勝とうとするでしょう。


社会は、ゲームがいつ開始か、すでに何回目かのゲームが終わってるのか。勝ってるのか負けてるのか。その勝敗もすぐわかるのか、数十年後にわかるのか、そういった全てが見えにくくなっています。

重要なのは、
・勝ち方を学び、手持ちカードを増やす
・ゲームのルールに異議申し立てが可能である
という事。

ここまで書けばおわかりの通り、ゲームを支配している者は、「ルール変更ができにくいルール」になるようなゲームを仕掛けてきます。


ゲームは勝った方が楽しい。
しかもゲームバランスが崩れてないゲームの方が、もっと楽しいはず。
「強い方が勝ちだから強い方の勝ち」ってゲームなんか楽しくないでしょ?

なので我々は常に、ゲームに勝てる可能性を確保し、ゲーム支配者の動向をチェックしなければならないのです。

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中高生からの自殺社会学 [2008年11月09日(日)] 

■ 中高生から学ぶ社会学 第2回

中学生や高校生が読んでためになるテキスト第2回。
今回は「自殺」をテーマに書きたいと思います。


みなさんは自殺したいと思った事はありますか?
身近な人で自殺した人はいましたか?

自殺したいと思った原因は何だったでしょう。友達が自殺したいと言ってきたら、どうやったら止められるでしょう。
そもそも、自殺者が出る社会っていけない社会なんでしょうか。
自殺すらも管理される社会の方が生きづらいんじゃないですか?
(「書き方が誘導的だ」と見抜いた中高生のみんなは、しっかり前回の「メディアリテラシー」について把握したようですね)


■ 自殺ゼロ社会は実現可能か

社会学では、自殺者や気違いが発生する社会を異常と断定する事はありません。
問題とするのは、
・他の地区や国と比べて自殺率が高い場合
・自殺者が出るような状態なのに社会的な措置がなされない場合
などです。

もう少し具体的に見てみましょう。
僕の故郷である青森、隣県の秋田などは自殺率が高いけど、東京や沖縄は自殺率が低い。
また、先進国の中でも日本は異常に自殺率が高いというデータがあります。

自殺の原因も様々だと思いますが、例えば学校のいじめや、リストラなどの経済的理由などがわかっているにも関わらず、それに対する手当てが何も行われなかったら、社会学的に「異常社会」だと断定します。


みなさんが住む「社会」と「社会学」とでは、微妙に考え方が違うという事がわかったでしょうか。
そしてその違いこそが社会を救う上で重要な点となります。

もし「自殺ゼロ社会」を目指し、最近はやりの「硫化水素」を無くせば良い、と考えたら、それは正しいと言えるでしょうか。
社会学では正しいとは言わないし、それでは「自殺ゼロ社会」を目指せないと証明します。


そもそも「自殺願望」って異常だと思いますか?
社会自体がすでに「自殺願望生産工場」だとしたら、自分の意志に関わらず自殺願望を持ってしまう。
社会から「自殺したい」と思うように仕向けられている。
そんな社会では「自殺なんかするな」と言われる事自体がつらくなります。
自殺したくなるような社会で生きてると自殺したくなる。
これは正常な事です。

でも。でもですよ。「そんな社会はクソだ」と思う気持ちが湧いてきませんか? 自殺者を量産しといて手当てすらしない社会の方こそ異常だと思いませんか?

正常か異常かを見極める事。そして、その正常とされているものが、自分の魂に反するかどうか。
「社会学」という単語はきっかけに過ぎません。
あなたの魂が答えを求めて激震しているとしたら、この先のテキストもお読みください。
このクソ社会をぶち壊す一つのきっかけとして、以降の文章が存在できたら幸いです。


■ 自殺を止める

前項で「自殺願望を持つ事は異常ではない」と書きました。
でも大事な人には自殺して欲しくないと、ほとんどの人が思うでしょう。
では、どうすれば自殺を止められるか考えてみましょう。

自殺の原因として考えられるのは、「金銭苦」「いじめ」「その他」でしょう。
経済的な事は、それこそ社会になんとかしてもらわなければならず、ダメ政治家を引きずり降ろせるほどの民度を高めなければなりません。
なので、本テキストではそれについては考えません。

「いじめ問題」にしても、現在の学校が「いじめ発生装置」になっており、学校を解体すればいじめが無くなる事から、これも社会がどうにかする問題の一つですね。

・自動車教習所ではいじめが起きにくい
・中学三年になるといじめが激減する

これらを考える事でいじめを減らす事ができ、いじめ自殺が減る事も容易に想像できます。


では「その他」という理由の場合どうすればいいでしょう。
あえて理由は特定しません。「他の人からは理由が見通せないもの」とします。

例えば、あなたの目の前に、飛び降り自殺をしようとしている友人がいるとします。
どうやら自殺の理由は「受験の失敗」らしい。
でもあなたも同じく受験を失敗しているとしましょう。
友人は死にたいと思い、あなたは死にたいと思いません。
あなたには、友人がなぜ受験の失敗ぐらいで死にたがってるか理解できません。でも死んで欲しくない。

問題を要約するとこうなります。

「言葉が通じない相手の自殺を止めるにはどうするか」

となると答えは簡単ですね。
自殺を止めるしかありません。
言葉や理屈ではなく、感情や肉体で止めるしかありません。
でもその為には前段階として、理屈じゃなく感情で接し合える関係性を築けていたかどうか、が問題になります。


■ それでも自殺しないで生きる為に

最後に、自殺しないで生きるにはどうすれば良いかを考えて、本テキストを終了したいと思います。

「自殺論」を書いた社会学者のデュルケムは、自殺を4つに分類しました。

1、社会との関連が希薄だから自殺する
2、社会との関連が強烈過ぎて自殺する
3、自由過ぎて何をして良いかわからず自殺する
4、不自由過ぎて何もできずに自殺する

簡単に分けるとこんな感じです。

どうやら現在は、「1」と「3」が多いようです。
自殺を止めてくれるような仲間がいるかどうか。
何が良き事で、何が悪しき事かもわからないような社会。
自分で正しいと思ってきたものが、実は見えない所に被害を及ぼしているような社会。


となると解決策はひとつしかありません。
仲間を作れ。

それは、自分が自殺するのを防いでもらう為の仲間じゃない。むしろ、そいつの為なら死をもいとわないと思えるほどの仲間だ。
お互いがお互いを助け、高め合うような仲間。

社会がどうとか一切関係無い。なぜなら仲間が決めるからです。
それは小学生の時からの幼なじみ、というようなものじゃなくても構いません。
ネットだけの文字のやりとりでも良いし、ネットゲーでいつも会うキャラクターでも良い。
とにかく「仲間」と思える何か。
その出会いが、自殺なんて事を考える暇も無いぐらい、充実した生を与えてくれるでしょう。


「生きてれば良い事がある」なんて事は言えないし、このクソ社会が地獄なんかじゃないと断言できない。
生きるか生きないかは自分で決めるしかない。
そして、それぐらいあなたたちは自由なのです。

テーマ: 哲学/倫理学 - ジャンル: 学問・文化・芸術

中高生から学ぶ社会学 第1回 [2008年11月08日(土)] 

■ 中高生から学ぶ社会学 第1回

今日は自殺について書こうと思ったけど、それは明日にしよう。
と、書かなくて良い事まで書くから読みづらいのかも知れん。

「何書いてるかわからん」というありがたいご指摘をいただきました。
常々思っていた事で、指摘された事で「やはりな」と思い改めました。

つい先日も、会話がまったくかみ合わない事があって、いろいろ話しかけても反応が乏しく、「外国人か?」と思ったほどですけど、やはり僕の方にも原因があるのでしょう。
どうも設定がおかしいみたい。
「人を見て法を説く」というのを実践している僕。
この人にはこのぐらいの語彙がありそうだから、この単語を交えても大丈夫だろう、とか察しながら話します。
その設定が高いみたい。

それは日記にも影響していて、中学生でも読めるサイトを目指してるんだけど、どうやら中学生は読んでないみたいなので、必然的に大人向けになります。
そして前提をすっ飛ばしていろいろ書きがち。

長々と説明してると膨大な文章量になり、それだと読む気が失せるだろうと短くするも、文章を短くする能力が欠落してる。


わざと乱雑に書いてる面もあって、それは「指摘してもらって議論に発展させ、それを楽しみたい」という狙いもありました。
でも議論なんてするよりも、手っ取り早い答えを求める人が多いのかも知れません。
何も考えないで読める「芸能人ブログ」や、一読して是か非かを振り分けられる「ネットニュース」とかが人気みたい。


■ 発言者と発信者は常に同じなのか

そこで今回は「メディアリテラシー」について書こうかと。
メディアリテラシーの意味は、発信者がどういう意図で発言しているかを読み取る能力、とでもしておきましょう。

例えば、テレビのニュース番組を見ていて、フジテレビの松尾翠アナが原稿を読んでいるとします。
(松尾アナとホリプロアイドルの田代さやかってまったく同じ顔してると思う。げりらっパ)

そのニュースの内容を聞き、「これは松尾翠の思想だな」とは誰も思わないでしょう。
当然その原稿を書いた人がいます。

では、その原稿を書いた人は、日テレの人でしょうか。テレビ東京の人でしょうか。
当然フジテレビの人ですよね。

では、フジテレビのそのニュース番組は、どこからお金をもらっているでしょう。
番組間に流れるスポンサーのCMの広告料ですね。

となると、そのニュース番組で、スポンサーの批判はできませんよね?
スポンサーから圧力が掛かっている場合もあるでしょうし、フジテレビ側が勝手に察して報道しない場合もあるでしょう。


という具合に、「メディアリテラシー」とは、ある発言に対し額面通りに受け取らず、裏にどういう仕組みがあるかを考える能力だと言えるでしょう。


これは僕が書くまでも無く、当たり前過ぎるほどの大前提だと思っているので、「メディアリテラシー」に関連する事について書く時に、わざわざ触れる事はありません。
だって、メディアに関係無く、誰かが何かを言った時って、なんでそれを言ってるか考えるもんでしょ。
ニュース番組や新聞だから毎回正しい事を書いてる、って思えるはずがありません。


「じゃあこのサイトの文章も信じちゃいけないって事だね」という意見もあるでしょう。
半分正解。

信じるか信じないかを常に思考しながら物事を受け取る姿勢は大切です。

なんだけど、僕が読んでくれた人を騙したり誘導する利点が一個もありません。
むしろ馬鹿な荒らしが来る分、デメリットの方が多い。
(はい、ここ笑うとこですよー。馬鹿な荒らしに騒がせて倍返しに切って落とす。そういう戦略です。でもなんか、わかりやすいエサにしか食いつかず、背骨にまで到達してこないので楽しくないです)


僕がテキストを書くのは、将来の日本の為なのです。
僕ほどの愛国の士がいるでしょうか。
日本を破壊しようとする馬鹿どもを駆逐する為に、当サイトの戦いは今後も続きます。


(と書く事で何を意図しているかも見抜きながら読みましょう)

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