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実存浮遊

映画やアイドルなどの文化評論。良い社会になるために必要な事を模索し書き続けます。

『冷たい熱帯魚』から王道を学ぶ 

■ 映画『冷たい熱帯魚』『紀子の食卓』から洗脳と成長と憑依を学び、すべてを覆す強い女子高校生を知る

園子温監督の衝撃作『冷たい熱帯魚』を見ました。
『夢の中へ』や『奇妙なサーカス』でおなじみの園子温監督のナンバーワンの呼び声高い本作。
完全にネタバレを含みますので、未見の方はこの先の文章を読まない方が良いです。
見てないと書いてることがわかりません。
いいから早く見に行って欲しい。




■ 現実が揺らぐ体験


作品に必要なものは何か。
それは、見終わったあとに現実が揺らぐ体験だ。
10年ぐらい前『CUBE』を渋谷に観に行って、鑑賞後外に出ると、「この現実はCUBEの中のようなものなのではないか」と、今まで見てきた現実が揺らいだ。

『冷たい熱帯魚』は、無垢な存在が鑑賞すれば、一発で現実に発狂するであろう怪作だ。
映画でありフィクションである、という逃げ道が用意されているが、「埼玉愛犬家殺人事件」という現実と、吹越満やでんでんという強烈な人物像を見せ付けられ、もはや映画とは思えない本当の現実を見せ付けられる。

逃げ場無し。
劇場に座ったが最後、誰もその現実から抜け出せない。
人生を変えるほどの作品。
園子温監督(本名)はまたしてもやってくれた。

映画的解説など無駄。ただ黙って見て揺らげば良い。


■ 映画的表現は映画に必要なのか


この映画には、吹越満演じる社本が嘔吐するシーンが2箇所ある。
空疎な食卓を囲んだあとと、でんでん演じる村田が死体を解体する場面を見たあと。
死体解体は3回出るが、その中で社本が吐いたのは2回目の時のみ。

吐くシーンというのは映画にとってとてもインパクトがりメッセージ性が強いシーンと言えるでしょう。
「嫌悪感」や「内面吐露」の象徴とも受け取れます。

深読みするとしたら、空疎な家族を目の当たりにし、裏切られたという部分で嘔吐したのと、村田が腹心をいともたやすく殺したという裏切りに対して嘔吐した、という共通性はあるかもしれません。
主人公社本は裏切られることに強い拒否反応を示す人物なのかも知れない。
でも作中ではそんな設定は特に見られない。


『冷たい熱帯魚』を見れば、映画的表現などいらない、と思える。
ただ「映画」を撮れば良い。
水道橋博士が言うように、「テレビドラマの延長にあるような動画」ではなく、「映画」だ。


作品の序盤、でんでん演じる村田が、自身が経営する巨大熱帯魚店に社本家族を連れてくるシーンがある。
ここで珍しい魚を見せる。
「この魚はエサを食い過ぎると腹を破裂させるんで管理が大変なんだ」
村田が語るこれは、まさに村田自身の今後を暗示するかのようだ。
でもこんなものも大したことじゃあない。
なぜなら映画的表現などいらないからだ。

当然、監督や技術スタッフの撮影スキルは素晴らしいです。
ストレス無く映画を鑑賞できるし、映像も音楽も飽きることがない。
映画ファンには細かいテクニックが見て取れるんでしょうけども、僕は単純にストレス無く見れたのが良かったです。

というかこれほど惹きつけられるのも珍しい。
上映中、まばたきを2回ぐらいしかしてないんじゃないか、と思えるほど凝視してました。
2時間半もの間ですよ。
すごいパワーです。この映画は。


■ 『紀子の食卓』の演じ切る関係性と『愛のむきだし』の洗脳


ここまで絶賛していますが、僕の中で園子温監督の映画というか、すべての映画の中で一番好きなのは『紀子の食卓』です。
だからどうしても園子温作品を見ると、『紀子の食卓』と比べてしまう。


『自殺サークル』『紀子の食卓』『愛のむきだし』の3作は、ある共通の組織が描かれる。
『自殺サークル』では、メッセージを受け取った者を自殺に追い込む謎の組織。
『紀子の食卓』では、擬似家族や自殺する役を与える組織。
『愛のむきだし』では、ゼロ教会という洗脳カルト教団。


『冷たい熱帯魚』では、『紀子の食卓』に見られる「役割を与える者」という部分と、『愛のむきだし』に見られる「洗脳」という部分が見られる。


『紀子の食卓』は空疎な家族がキーワードです。
主人公の紀子は、両親と妹の4人で田舎に暮らす平凡な女子高生で処女。
空虚な家族関係が嫌になり、東京に家出をする。
ネットで知り合った「上野駅54」という少女に会い、そこで「レンタル家族」の仕事をする。
孤独な老人や娘を失った中年男性のために擬似家族を演じるのだ。
紀子は役割を与えられることで生き生きとする。
田舎の本当の家族よりも、レンタル家族の方がリアルな家族に見える。楽しく笑い、本気でぶつかり涙を流すほど。


では『冷たい熱帯魚』はどうか。
空疎な家族は、紀子の時が女子高生目線だったのに対し、本作では父親目線だ。
冷凍食品で間に合わすつまらなそうな後妻。
すぐに彼氏と出かけるつまらなそうな娘。
熱帯魚のように平板で何も起こらない生活を過ごす父親。

そして『紀子の食卓』と同じように、娘が家族から離れることで物語が動き出す。


『愛のむきだし』はカルト教団による洗脳がメインになります。
『自殺サークル』で自殺していった者たちや『紀子の食卓』でつぐみが演じたクミコや紀子は、3つにランク分けされていたことが明らかになる。
ケイブ・アクター・プロンプター。

ケイブとは空洞のこと。
全部吐露し、抜け殻になることです。

アクターとは役者のこと。
抜け殻に役割を与えられ、行動する者です。

プロンプターは上位階級で、役割を与える者。
アクターに役割やセリフを与える存在です。


では、『紀子の食卓』と『愛のむきだし』を『冷たい熱帯魚』と照らし合わせてみましょう。


■ 『紀子の食卓』×『愛のむきだし』=『冷たい熱帯魚』


上の構図で見ると、でんでん演じる村田はプロンプターで、社本はケイブです。
村田の妻である愛子。社本の妻である妙子はアクターと言えるでしょう。

詳しく説明します。


村田は何も持っていない社本に、自分の仕事を手伝わせます。
他の人の感想で、「なぜ社本が村田の言いなりになるのか理解できない。村田も、なぜ社本を仲間に入れたのか理解できない。理由がまったく無いじゃないか」というのがあったが、馬鹿かと言いたい。
プロンプターである村田は、ケイブである社本を仲間に入れるのは当然のことです。
『愛のむきだし』では、普通の人を洗脳するためにケイブにする様子を描いてます。
人をケイブにするには時間が掛かる。
非日常体験をさせ、現実が間違いであることを認めさせ、こっちに新たな現実(教義)があるよ、と誘う。

プロンプターはケイブを仲間に入れる。
そしてケイブはプロンプターの言いなりになる。
当たり前の話です。

洗脳のシステムと同じですね。
衝撃を与え現実を失くす。
そして新たな現実を与える。


喜劇『冷たい熱帯魚』で笑えるシーンと言えば、今までにこにこと「社本くん」と呼んでた村田が、諏訪太朗演じるビジネスパートナーの吉田に毒を飲ませた直後に態度を一変させるところです。

「社本!!」と呼び捨てにする。

ここで社本と同じように観客も、わけがわからず事件に巻き込まれていく。
そう。現実はいつだって、気付いた時には後戻りできないほど沼の奥まで沈んでいるんだ。
警察を呼ぶとか村田をぶちのめすなんて選択肢はそもそもありえない。
その沼は重く身動きなんか取れない。
引き返すことはもちろん、前に突き進むなんて選択肢すら無いんだ。
ただ黙って苦しんで死ぬのを待つだけの現実。
「これが現実だ」


後日、兄が消えたことを不審に思った吉田の弟がやってくるという。
そこで村田は、社本に事情を証言するように言う。
こここそまさにケイブからアクターに昇格したシーン。
プロンプター村田は、アクター社本にセリフを与えるのだ。

セリフ、言い方、態度など、事細かに役割を与える。
アクターである村田の妻愛子。そしてアクター社本。
二人とも村田の言いなりだ。
そこには切っても切れない濃密な関係性が構築されている。


■ 離陸→混融→着地


『冷たい熱帯魚』は王道の物語です。
その意味で言えば、映画『スタンド・バイ・ミー』と同じ構図です。
『スタンド・バイ・ミー』では、少年達が日常を離れ(離陸)、死体を発見するという非日常を体験し(混融)、日常に戻るがかつての関係性は無くなり大人に成長する(着地)。

『冷たい熱帯魚』はどうでしょう。

熱帯魚のように平板で何も起こらない日常から、殺人事件の隠蔽という非日常を体験し、村田を殺すことで乗り越え成長していく。

つまり『冷たい熱帯魚』は王道の成長物語なのです。
だから見ていてストレス無く物語を受け入れることができる。
小さい頃から慣れ親しんでいる物語の構造です。


村田は父親。社本は息子。
息子が父親を乗り越える物語。
死体処理を命令される社本。
社本の妻を抱いたことを伝え、社本の感情を出そうとする村田。
もっと怒れ。殴りかかってこい。

感情をむき出しにして村田に殴りかかる社本。
だが拳の重みが違う。

そして村田は、社本に愛子とセックスしろ、と命令する。
娘を家から出したのは、再婚相手の妻とセックスしたかったからだろ。娘にセックスしてるのをばれたくないから追い出したんだろ、と詰め寄る。

娘がいようが関係無く妻とセックスしろ。
わがままな娘なんか張り倒せ。
そんなにセックスしたけりゃ俺の妻愛子とセックスしろ、と。
これで本当の家族になるんだ、と。

そして無理矢理愛子に挿入させられ、村田に腰を動かされる。
映画的に、まさにここで「大人になった」という構図であろう。

ここから物語はさらに加速する。

セックスしながら愛子の首をペンで刺し、そのまま村田を滅多刺しにする。
瀕死の村田を連れ、村田のアジトへ。
愛子に村田を殺させ、解体を命じる。
「お前は俺の女だ」と言うと、愛子は血まみれのままかわいく(この映画の中で、誰よりも一番かわいく)「うん!」と答える。


村田の熱帯魚店から娘を連れ戻し、家に帰って妻妙子に飯を作れと命じる。

ここで映画の最初のシーンと重なる。
映画の序盤。何も無い父親はむなしい食卓を囲む。
映画の終盤。村田を乗り越えた社本は、娘と妻を殴って黙らせる強い父親に成長している。
娘の彼氏と娘を殴って気絶させたり、妻を本能のまま犯す。
目覚めた娘の前で妻を犯す社本。


社本は妻に、「結婚は間違えだったと言え」と言う。
「つまらない旦那も、言うこときかない娘もうんざりだと言え」と。
すると、そっくりそのまま繰り返す妻の妙子。

つまり、社本はプロンプターに昇格したのだ。
プロンプターとして、アクター妙子にセリフを与え、役割を与え、感情を与えている。

物語的には、ケイブからアクターを経てプロンプターにまで成長している、とても感動的なシーンだ。

でも実は、社本は村田を超えていない。
なぜなら社本は、村田に「プロンプターを演じるように命じられたアクター」だからだ。


■ 園作品に登場する、一人で生きていく強い女子高生


村田は社本に、娘なんか殴って黙らせろ、娘がいようが関係無く妻とセックスしろ、と言われる。

そしてそのまま実行する。
つまりアクターのままだ。
結局村田を乗り越えることはできなかった。
村田を殺したのも解体したのも妻の愛子だし、社本が殺したのは自分の妻ぐらいだ。
58人を殺し、殺人が日常と化している村田に対し、社本にとって殺人はいつまでも非日常だ。

自分の娘に1人でも生きていけるよな、と話しかける社本。
娘に包丁を当て、痛がる娘に対して魂の叫びをぶつける。

「生きるってのは痛いんだよ!!」

観客はここで感情が揺さぶられる。
壮絶な非日常を過ごした社本を凝視してきた我々には、社本の言葉が突き刺さる。
生きるとは強烈なまでに痛い。

叫んだあとで社本は自分の首を切って絶命する。
この死体シーンが凄まじい。
目がにごり、本当に死んでるとしか思えない。

そこで娘が言う。
「やっと死んだかクソ親父!!」

そこで我々は絶望に突き落とされる。
壮絶な数日間を過ごした社本だが、それでも村田を超えられず、愛する娘から突き放される。
「生きるって痛いんだ」という言葉が空虚と化す。


社本はプロンプターになれなかった。
所詮はアクターのままだ。


『紀子の食卓』では、最後に吉高由里子が演じるユカが、自ら演じられるアクターという新たな道を歩み出す。
『紀子の食卓』でも『冷たい熱帯魚』でも強い女子高校生が描かれる。
『愛のむきだし』に到っては、戦闘能力的にも強い女子高校生が登場する。

園作品に登場する女子高生は強い。
どんなメッセージも受け付けない。
1人では生きられない人物が多数登場する中、彼女達は純粋に力強く1人で生きていく。


■ 今年最高傑作『冷たい熱帯魚』


2時間半の上映時間の間、ずっと目を離せなかった。
死体を沈めた浴槽にバスクリンを入れてにおいと血の色を消したり、骨をドラム缶で燃やす時にしょうゆをかけてにおいを消したり、細かいシーンも全部目が話せない。

パンフレットで井上三太がコメントを寄せているように、登場する二人の妻はどちらもエロい。
妖艶だ。

エログロナンセンス。
そんな言葉を彷彿とさせるこの映画は、まさに映画、という映画だ。
映画に少しでも興味があるなら見なければならない。

そしてベースになってると僕が思い込んでいる『紀子の食卓』も最高傑作だ。
『自殺サークル』『紀子の食卓』『愛のむきだし』の3作と一緒に、『冷たい熱帯魚』をご鑑賞していただきたい。

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テーマ: 映画感想 - ジャンル: 映画