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実存浮遊

映画やアイドルなどの文化評論。良い社会になるために必要な事を模索し書き続けます。

映画『モールス』が描く通過儀礼とオーウェン的振る舞いしかできない我々のせつなさについて 

■ 映画『モールス』の悲しみ



映画『ぼくのエリ 200歳の少女』のリメイク版である『モールス』を見ました。

以下ネタバレを含むので、見ていない方は了承の上お進みください。




主人公のオーウェンは雪深い田舎町に住むいじめられっ子の少年。
体格の良いいじめっ子には「女の子」と馬鹿にされている。

家庭では両親が不仲で、父親と離れて暮らしている。
離婚も間近らしい。

敬虔なクリスチャンである母親にはいじめられている事を告げられないでいる。


そんなつまらなくて抜け出せない日常に、父親らしき男と裸足の少女アビーが引っ越してくる。

美しい顔立ちだが、みすぼらしい格好で嫌な臭いを放つ。
その少女に「友達にはなれない」といきなり言われるオーウェン。


アビーの父親らしき男は、夜な夜な人を殺し、血液を集めている。
美しき少女アビーは、どうやら吸血鬼のようだ。
人間の食べ物は身体が受け付けないらしく、人間の血液でなければならないらしい。


血を飲んだあとのアビーは、嫌な臭いも消え、顔色も良くなっていて、笑顔もかわいらしい。
観客はここで、アビーの恐ろしさと魅力的な美しさを植え付けられる。

その証拠に、アビーの父親らしき男が人を殺すのに手間取っていると、どうしても応援したくなるだろう。
観客はすでにアビー側に立っているのだ。


アビーの父親らしき男は殺人に失敗し、身元がばれるのを防ぐために自ら硫酸をかぶる。
入院先に訪れたアビーに首を差し出し、最後にアビーの食糧となって死ぬ男。

彼はアビーの父親ではなく、数十年アビーと共に暮らし、アビーのために殺人を繰り返してきた恋人のような存在であることがわかる。

12歳で年齢が止まった少女と、少女のために生きてきた元少年。
閑散とした町に引っ越し、殺人を繰り返し、時期を見てまた別の町に引っ越しているのだろう。
アビーと出会った時の男は、オーウェンと同じぐらいの年齢だったみたいだ。


アビーが吸血鬼であることを知り、それでも共に生きることを決意したオーウェン。

ラストシーンが美しい。


以下、それぞれ思いついたままに感想を書いていきたいと思います。


■ 父親にならざるを得ない状況と通過儀礼について



『モールス』は、オーウェンが父親になるお話だ。

オーウェンの両親の顔はあえて描かれていない。
父親は電話の声しか登場しないし、母親もあえて顔が見えないように映されている。
そう。オーウェンにはもともと両親が存在していないのだ。

その証拠に、人を殺さなければ生きていけない少女の事を愛してしまった苦しみと反倫理に悶えるオーウェンに対し、敬虔なクリスチャンである母親も、クリスチャンの母親を嫌う父親も、明確な回答を与えられない。
どちらも「悪いことはいけないことだ」としか教えられないのだ。

そんなことはわかっていて、それでもアビーのことが好きな少年は、自分で決断を下すしかない。


アビーと一緒に暮らしてたおじさんが、実は少年時代からアビーと一緒だったんだということを知ったオーウェン。
つまり、アビーと一緒になるということは、自分の成れの果てがあのおじさんであるということだ。
最終的には自分の血をアビーに与えて死ぬ運命。
アビーのために殺人者になる運命。
人非人になる覚悟。
アビーの父親になる覚悟。
つまり、少年から大人になる覚悟だ。


さまざまな作品で少年から大人になる工程が描かれている。
それは「離陸→混融→着陸」だ。

つまらない日常があり、そこから抜け出そうとする。
非日常を味わう。
そして日常に戻ってくると、かつての日常とは違い、豊潤な世界がわかるようになっている。


映画『グーニーズ』がわかりやすい。

このままでは家に住めなくなるかもしれないという嫌な日常がある。
宝の地図を見つけ、生きるか死ぬかの大冒険という非日常を味わう。
無事生還すると、嫌な日常は消え失せ、幸福な共同体が待っている。

この時のキーアイテムが「吸引器」です。
『グーニーズ』の主人公マイキーは喘息持ちで、常に吸引器を持ち歩いている。
言わば弱い少年の象徴として吸引器が存在する。
だが最後にマイキーは吸引器を投げ捨てる。
大人になったことを描いたシーンです。

では『モールス』はどうか。


『モールス』に描かれるのは、飴です。

家にも学校にも居場所が無い少年オーウェンは、雪が積もるジャングルジムの上で、派手な色の飴をほおばりながら時間が過ぎるのを待っている。
そこに美しい少女が現れ、少女の魅力に惹かれる。
(離陸)

その後いじめっ子に逆襲したり、少女の異常性を知る。
(混融)

少女と共に生きることを決めた少年は、少女をトランクボックスに入れて町を去る。大好きな飴をほおばりながら、幸福そうな表情を浮かべている。
(着陸)


飴が日常性の象徴として使われています。

父親不在の物語世界で、ただ一人父親になることを引き受けたオーウェン。
観客にはそれが違和感無く理解できるのはなぜなのでしょうか。


■ 覚悟に覚悟で答えることが絆コストを支払うということ



離婚間近でオーウェンの苦悩も理解できない両親。
父親になろうとするも、ミスの果てに少女の食糧になることを選んだおじさん。
そして最初から両親が描かれないアビー。

『モールス』には父親が不在なのだ。

オーウェンがアビーの父親を引き受けるしかない。
でもご覧の通り、アビーの父親になるということは、何百、何千の人を殺し、最後にアビーに殺されるということでしかない。
そして映画『モールス』では描かれていないが、『ぼくのエリ 200歳の少女』や、原作の小説『モールス』では、アビー(エリ)は少女ではなく、男性器を切り落とされ縫合された存在らしい。
つまり彼らは恋人同士ではないのだ。
だからキスもしない。
あくまでアビーに食事を与える父親でしかないのだ。


なぜオーウェンはアビーの父親になることを決断できたのか。

それは社会学の考えを用いるとわかりやすい。

社会学では、「絆というのはいつでも離れることができるのに、あえて関係を続けることにより深まる」と定義します。

そして、絆コストを支払うことで、関係性が強固になる。

作中、二人とも死を掛けたシーンがある。

吸血鬼であることを悟った少年は、アビーの家に行く。
いじめられっ子で弱っちい少年が、怪物の家に行くなんて考えられない。

そしてアビーも、「住人に招かれないまま家に入ると体中から血が吹き出して死ぬ」というルールを破ってオーウェンに会いに家に入ります。

二人とも、死ぬかもしれないという絆コストを支払っている。

だからこそ観客は、二人の絆が深まっていることを感覚的に理解できます。
オーウェンが殺人者となり、アビーに喰われて死ぬ覚悟ができていることがわかるのです。


■ 異質と聖性



アビーを演じたクロエに聖性が宿っている。

彼女を見ていると、善悪の判断が不明になる。
漫画『寄生獣』に描かれる、生きるために生物を食べることの倫理観。寄生生物は人間1種しか食べないが、人間はさまざまな生物を食べる。
悪魔は人間の方ではないか、というシーンがある。

確かにそうだろう。

でも映画『モールス』のアビーはそれとはまた違う何かがある。

それは「聖性」だ。

永遠に12歳のまま生きる異質さ。

招かれなければ家に入ることができないもろさ。

太陽を浴びると死んでしまうという弱さ。

オーウェンと同じように、誰もがアビーの聖性に撃ち抜かれるだろう。

それが一番象徴されているのが、最後のプールでの惨殺シーンだろう。

いじめっ子の兄貴に「出来なかったから目玉をえぐる」と言われプールに沈められるオーウェン。
(作中、彼らが一番悪いように見えてしまう)

それを助けるためにいじめっ子達を瞬殺するアビー。
映像としてアビーの姿は全然映し出されないのだが、血まみれであろう少女をプールの縁から見上げる少年。
その顔は恐怖からは程遠い、恍惚として神に仕える表情をしている。

オーウェンにとって、アビーは神でもあるのだ。
つまり新しい倫理の獲得だ。


ラスト。トランクボックスに入ってるアビーと列車に乗って移動するオーウェン。
中身がばれないように会話はモールス信号だ。
(映画『ぼくのエリ 200歳の少女』ではモールス信号の意味は軽いキスを表す「チュ」というようなニュアンスらしい。今作はどうなのか気になります)

トランクボックスと列車の座席。
おそらくこれは、永遠に交わることの無いことを表現しているのではないでしょうか。
同じ空間に居るのに、同じ景色も同じ音色も同じ香りも体感することが出来ない。
永久に存在する隔たり。

二人をつなぐのはモールス信号。
神(怪物)と人。
もともと言葉(倫理)は相容れない。

それでも二人で生きていく。

せつない。
あまりにもせつない。


人間である僕たちは、オーウェン的に悲しむか新たな倫理観を得るより他ない。

誰もアビーの悲哀を理解することはできない。
映画もオーウェン側に立って作られている。

いつまでも、どこまでも、オーウェン的にアビーを見守り続けるしかないのだ。

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テーマ: 映画感想 - ジャンル: 映画