実存浮遊
映画やアイドルなどの文化評論。良い社会になるために必要な事を模索し書き続けます。
2012.06.11 Mon. 21:49 :edit
『ダークシャドウ』のつまらなさとテレビ朝日『インセプション』の狭量
■ 『シザーハンズ』から『ダークシャドウ』への劣化と『インセプション』と『メメント』の共通点
劇場に『ダークシャドウ』を見に行きました。
以下、『シザーハンズ』と『ダークシャドウ』のネタバレを含みます。
その後、先日テレビ朝日で放送された『インセプション』と『メメント』についてもネタバレを含む感想になります。
ご了承の上お進みください。
■ 『ダークシャドウ』の劣化
『ダークシャドウ』はティム・バートン監督とジョニー・デップ主演の『シザーハンズ』コンビが送る現代版モダンホラー。
ジョニー・デップ扮する資産家の息子が女中で魔女に愛憎の果てにドラキュラになる呪いを掛けられ200年間閉じ込められてた、という設定。
愛する女性を呪いで殺され、救えなかった想いでそのまま投身自殺を謀るが、ドラキュラの呪いで死ねない身体になってる、という設定です。
それから200年生き続けた魔女に追いやられ落ちぶれた子孫たち。
ジョニー・デップが200年後の現代の違和感をコメディタッチで描く。
そして魔女との対決へ。
『ダークシャドウ』は『シザーハンズ』と構造が似ています。
人ではない者が主人公で、その共同体になじめない男が特性を活かして共同体を盛り上げ、だがやはり人では無いために迫害される。
『シザーハンズ』では老婆が小さな子供に「なぜこの町で雪が降るようになったか教えてあげよう」と物語が始まる。
それは両手がはさみの男が町民に迫害され、人里離れた場所で氷の彫刻を削ってるからだ、と話す。
氷を削ったあとが雪となって町に降り注いでいるのだと。
とても美しい物語でした。
では『ダークシャドウ』はどうか。
そのような物語は語られず、『シザーハンズ』とは違い、最後は最愛の人と結ばれる。
だがまったく感動しない。
『シザーハンズ』ではあれほど見事な物語を描いたというのに、『ダークシャドウ』ではまったく心に響かない。
明らかに映画の撮り方が下手だからです。
いろいろ読み解くのも面倒なので、箇条書きで挙げていきます。
・物語の起伏、メリハリが無く、終始平坦な印象
・ギャグが全然おもしろくないので物語転換の意味をなさない
・最後最愛の人と結ばれる理由が不明
説明します。
一つ目と二つ目は同じことなんですけど、まず絶望的にギャグがつまらないです。
普通ギャグというのは映画のインパクトです。
場面の切り替わりにすごく効果的です。
だけど全然ギャグになってないので、物語がダラダラと続いてる印象になります。
ギャグで観客の心をゆるめ、ホラー要素で引き締める。
緩急ですね。
それが一切無い。
吸血鬼と魔女のセックスシーンも全然おもしろくもないしエロくもない。
かと言ってファンタジーっぽさもない。
ほんと映画として中途半端です。
悪魔メフィストフィレスの頭文字「M」から、200年後に蘇った時のマクドナルドの看板の「M」を見て驚く、というギャグがあるんだけど、その後何も触れないのがまず不自然だし、吸血鬼として寝床に困るというのもいちいちおもしろくないし、昔の人が現代の文明におびえるというギャグが一個もおもしろくありません。
ただクロエ・モレッツがかわいかった。
映画『モールス』で吸血鬼を演じた彼女が、本作では狼人間を演じてたのがちょっとおもしろかったです。
そして問題はラストの描き方です。
物語の冒頭、魔女の呪いで崖から身を投げる最愛の女性。
あと少しのところで救えずに、それを嘆いてそのまま身を投げるも、吸血鬼の呪いで不死の身体になる。
そしてラスト。
最愛の女性の瓜二つの家庭教師。
200年前と同じように魔女の呪いで崖の上までくる。
そして同じように崖から身を投げてしまう。
そこでジョニー・デップは一緒に落ち、彼女を咬むことで吸血鬼にし、墜落死を免れさせる。
まずなぜ彼女を吸血鬼にしたのか、という問題があります。
主人公は200年間閉じ込められてるつらさを知ってるのではなかったか。
死ぬことができないつらさを知っているのではなかったのでしょうか。
最愛の人を不死にする覚悟を感じられる伏線が一切ありませんでした。
例えば、冒頭で彼女を失ったショックが強く描かれていればいいです。
絶望に駆られ、もう二度と最愛の人を失いたくない、というのが観客に強く刻まれていればいいんですけど、そういうのが一切なかった。
冒頭主人公はあっさりあとを追って崖から飛び降りました。
また、現代になってこの家庭教師の女性は不遇の幼少時代を送っていたことが描かれたので、ここをフックにするのもいいです。
例えば、彼女自身がもともとこの社会に意味を見出しておらす、人間など信じるに価しない、と。
でも吸血鬼である彼には心を開く。
このような伏線があったのならば、彼が躊躇なく彼女を不死にする理由が理解可能です。
とにかくこの物語は違和感だらけで全然感動できません。
『シザーハンズ』の対に描くのだとしたら、もっと感動的に描けたはず。
ただジョニー・デップを使った、ってだけな感じがして、ティム・バートン監督に不信感を抱きました。
もしこれから見ようと思ってる方がいたら、悪いことはいいません。『シザーハンズ』を見てください。
『ビッグフィッシュ』もいいでしょう。
『ダークシャドウ』は怖くもないし、ギャグも笑えないし、セックスシーンもエロくないし、感動もできない、見ても何も残らない作品です。
クロエファンは見てもいいです。
■ テレビ朝日の害悪でしかないおせっかいについて
さて、話は変わりまして、同じ日にテレビ朝日でやってた『インセプション』も見ました。
クリストファー・ノーラン監督が大好きで、『インセプション』はDVDも持ってます。
夢の中に入り考えを植え付けるミッションを遂行するチームのお話。
夢の中の夢の中の夢、という入り組んだ構成になっているので、一回見ただけではなかなか理解するのが難しい作品でしょう。
なんとテレビ朝日はご丁寧に画面の左に「第1階層」という具合に、現在の映像が夢の何層にいるかを常に表示していたのでした。
考えられません。
地デジのデータ画面でやるならまだしも、常に表示させるなんて何を考えているのでしょうか。
なぜならこの映画はすべてが不確かだからです。
画面に表示された「第1階層」が本当に第1階層かわからない。
なぜならそれは主人公のコブが言う「他人のトーテムは使い物にならない」という言葉であるし、アリアドネに説明する「どこからここにやってきたかわからない場合は夢である」という言葉からもわかります。
物語の最後、コブは妻のトーテムである独楽を回し子供たちのもとに歩み寄ります。
どうやってその家に来たかは描かれません。
だからこれも夢かも知れない。
それなのに、その解釈すら打ち消すような表示。
何を考えているのでしょうか。
クリストファー・ノーランが描くのは「不確かさ」です。
『メメント』も、ラスト(つまり時系列の最初)に語られるテディの言うことが本当かどうかは誰にもわかりません。
『プレステージ』も、どの自分が本当の自分なのかわからない。
『ダークナイト』も、善と悪の不確かさを描いています。
『インセプション』もどれが誰の夢なのかずっとわからないままです。
それを、ラストがあたかも現実であるかのような表示方法をするのは批判せざるを得ません。
もっと映画の見方は自由であるべきです。
最後は現実だ、と思い込むのは自由です。
でもそれを強制するのは間違いです。
映画を愛しているのならば、このような方法は絶対にやめていただきたいです。
劇場に『ダークシャドウ』を見に行きました。
以下、『シザーハンズ』と『ダークシャドウ』のネタバレを含みます。
その後、先日テレビ朝日で放送された『インセプション』と『メメント』についてもネタバレを含む感想になります。
ご了承の上お進みください。
■ 『ダークシャドウ』の劣化
『ダークシャドウ』はティム・バートン監督とジョニー・デップ主演の『シザーハンズ』コンビが送る現代版モダンホラー。
ジョニー・デップ扮する資産家の息子が女中で魔女に愛憎の果てにドラキュラになる呪いを掛けられ200年間閉じ込められてた、という設定。
愛する女性を呪いで殺され、救えなかった想いでそのまま投身自殺を謀るが、ドラキュラの呪いで死ねない身体になってる、という設定です。
それから200年生き続けた魔女に追いやられ落ちぶれた子孫たち。
ジョニー・デップが200年後の現代の違和感をコメディタッチで描く。
そして魔女との対決へ。
『ダークシャドウ』は『シザーハンズ』と構造が似ています。
人ではない者が主人公で、その共同体になじめない男が特性を活かして共同体を盛り上げ、だがやはり人では無いために迫害される。
『シザーハンズ』では老婆が小さな子供に「なぜこの町で雪が降るようになったか教えてあげよう」と物語が始まる。
それは両手がはさみの男が町民に迫害され、人里離れた場所で氷の彫刻を削ってるからだ、と話す。
氷を削ったあとが雪となって町に降り注いでいるのだと。
とても美しい物語でした。
では『ダークシャドウ』はどうか。
そのような物語は語られず、『シザーハンズ』とは違い、最後は最愛の人と結ばれる。
だがまったく感動しない。
『シザーハンズ』ではあれほど見事な物語を描いたというのに、『ダークシャドウ』ではまったく心に響かない。
明らかに映画の撮り方が下手だからです。
いろいろ読み解くのも面倒なので、箇条書きで挙げていきます。
・物語の起伏、メリハリが無く、終始平坦な印象
・ギャグが全然おもしろくないので物語転換の意味をなさない
・最後最愛の人と結ばれる理由が不明
説明します。
一つ目と二つ目は同じことなんですけど、まず絶望的にギャグがつまらないです。
普通ギャグというのは映画のインパクトです。
場面の切り替わりにすごく効果的です。
だけど全然ギャグになってないので、物語がダラダラと続いてる印象になります。
ギャグで観客の心をゆるめ、ホラー要素で引き締める。
緩急ですね。
それが一切無い。
吸血鬼と魔女のセックスシーンも全然おもしろくもないしエロくもない。
かと言ってファンタジーっぽさもない。
ほんと映画として中途半端です。
悪魔メフィストフィレスの頭文字「M」から、200年後に蘇った時のマクドナルドの看板の「M」を見て驚く、というギャグがあるんだけど、その後何も触れないのがまず不自然だし、吸血鬼として寝床に困るというのもいちいちおもしろくないし、昔の人が現代の文明におびえるというギャグが一個もおもしろくありません。
ただクロエ・モレッツがかわいかった。
映画『モールス』で吸血鬼を演じた彼女が、本作では狼人間を演じてたのがちょっとおもしろかったです。
そして問題はラストの描き方です。
物語の冒頭、魔女の呪いで崖から身を投げる最愛の女性。
あと少しのところで救えずに、それを嘆いてそのまま身を投げるも、吸血鬼の呪いで不死の身体になる。
そしてラスト。
最愛の女性の瓜二つの家庭教師。
200年前と同じように魔女の呪いで崖の上までくる。
そして同じように崖から身を投げてしまう。
そこでジョニー・デップは一緒に落ち、彼女を咬むことで吸血鬼にし、墜落死を免れさせる。
まずなぜ彼女を吸血鬼にしたのか、という問題があります。
主人公は200年間閉じ込められてるつらさを知ってるのではなかったか。
死ぬことができないつらさを知っているのではなかったのでしょうか。
最愛の人を不死にする覚悟を感じられる伏線が一切ありませんでした。
例えば、冒頭で彼女を失ったショックが強く描かれていればいいです。
絶望に駆られ、もう二度と最愛の人を失いたくない、というのが観客に強く刻まれていればいいんですけど、そういうのが一切なかった。
冒頭主人公はあっさりあとを追って崖から飛び降りました。
また、現代になってこの家庭教師の女性は不遇の幼少時代を送っていたことが描かれたので、ここをフックにするのもいいです。
例えば、彼女自身がもともとこの社会に意味を見出しておらす、人間など信じるに価しない、と。
でも吸血鬼である彼には心を開く。
このような伏線があったのならば、彼が躊躇なく彼女を不死にする理由が理解可能です。
とにかくこの物語は違和感だらけで全然感動できません。
『シザーハンズ』の対に描くのだとしたら、もっと感動的に描けたはず。
ただジョニー・デップを使った、ってだけな感じがして、ティム・バートン監督に不信感を抱きました。
もしこれから見ようと思ってる方がいたら、悪いことはいいません。『シザーハンズ』を見てください。
『ビッグフィッシュ』もいいでしょう。
『ダークシャドウ』は怖くもないし、ギャグも笑えないし、セックスシーンもエロくないし、感動もできない、見ても何も残らない作品です。
クロエファンは見てもいいです。
■ テレビ朝日の害悪でしかないおせっかいについて
さて、話は変わりまして、同じ日にテレビ朝日でやってた『インセプション』も見ました。
クリストファー・ノーラン監督が大好きで、『インセプション』はDVDも持ってます。
夢の中に入り考えを植え付けるミッションを遂行するチームのお話。
夢の中の夢の中の夢、という入り組んだ構成になっているので、一回見ただけではなかなか理解するのが難しい作品でしょう。
なんとテレビ朝日はご丁寧に画面の左に「第1階層」という具合に、現在の映像が夢の何層にいるかを常に表示していたのでした。
考えられません。
地デジのデータ画面でやるならまだしも、常に表示させるなんて何を考えているのでしょうか。
なぜならこの映画はすべてが不確かだからです。
画面に表示された「第1階層」が本当に第1階層かわからない。
なぜならそれは主人公のコブが言う「他人のトーテムは使い物にならない」という言葉であるし、アリアドネに説明する「どこからここにやってきたかわからない場合は夢である」という言葉からもわかります。
物語の最後、コブは妻のトーテムである独楽を回し子供たちのもとに歩み寄ります。
どうやってその家に来たかは描かれません。
だからこれも夢かも知れない。
それなのに、その解釈すら打ち消すような表示。
何を考えているのでしょうか。
クリストファー・ノーランが描くのは「不確かさ」です。
『メメント』も、ラスト(つまり時系列の最初)に語られるテディの言うことが本当かどうかは誰にもわかりません。
『プレステージ』も、どの自分が本当の自分なのかわからない。
『ダークナイト』も、善と悪の不確かさを描いています。
『インセプション』もどれが誰の夢なのかずっとわからないままです。
それを、ラストがあたかも現実であるかのような表示方法をするのは批判せざるを得ません。
もっと映画の見方は自由であるべきです。
最後は現実だ、と思い込むのは自由です。
でもそれを強制するのは間違いです。
映画を愛しているのならば、このような方法は絶対にやめていただきたいです。