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実存浮遊

映画やアイドルなどの文化評論。良い社会になるために必要な事を模索し書き続けます。

『鍵泥棒のメソッド』のありえなさ 

■ 映画『鍵泥棒のメソッド』の愚昧さとありえないハプニング

内田けんじ監督『鍵泥棒のメソッド』を見てきました。
『運命じゃない人』『アフタースクール』に続く3作目。
(初監督作品は『ウィークエンドブルース』らしいが未見。DVDも入手困難かも。見てみたい)

『運命じゃない人』はある出来事をいろいろな視点から映し出すことで、「現実は単一ではない」ということを描きました。

『アフタースクール』でもある出来事を観客に見せないことでミスリードし、最後にどんでん返しが待ち受けている。

内田けんじファンにとって監督は「どんでん返しの人」だ。
だからこそ『鍵泥棒のメソッド』は退屈に感じる。
だが監督は「日常を描く監督」とも言える。
日常は退屈だ。
演劇でもなければやってられない。


以下ネタバレを含む感想なのでご了承の上お進みください。





■ 「メソッド演技法」というメタ的な構造


「メソッド演技法」とは発声や動きなどの外面的な技術ではなく、感情や心情など内面からアプローチすること。
なので役柄を徹底的に調べ、「その人ならこの時どう反応するか」などをベースにしていく。


ではこのタイトルはどういう意味なのか。

「鍵泥棒」とは銭湯の鍵を盗み、車の鍵を盗む、家の鍵を盗んだ売れない役者のことだ。堺雅人が演じる。
この売れない役者がこだわるメソッド。
そのメソッドは殺し屋ごときにダメだしされる程度のものだ。
つまり、『鍵泥棒のメソッド』とはそもそもがバカにしてるタイトルなのだ。
映画としてどれだけ劣っているかを批評したところで無駄だ。
なぜならそもそも映画や演技のでたらめさを表現しているからだ。
メリハリが無い展開や蛇足のような演出や過剰な演技などを批判したところで無駄。監督はあえてやっているのだ。

「だらしないダメ役者がこだわる程度のメソッド的」な映画。
監督は「映画」ではなく「日常の輝き」を描いている。
だから過去2作のようなどんでん返しが無い。

ただそれと対比させるように香川照之の演技が異彩を放っている。
誰もが彼に騙されるだろう。


記憶を失い売れない役者の人生を引き継ぐ彼は、自分の記憶の手掛かりを得るためにドラマのエキストラに向かう。
都市伝説化するほどの殺し屋である彼は人相を見込まれヤクザ役に抜擢され監督から威圧感を賞賛される。
観客としては「殺し屋なんだから当たり前じゃん」となる。
だが彼は殺し屋なんかではなくただの便利屋だった。
綿密に計画を練り、役に入り込む几帳面な便利屋だった。


「鍵泥棒のメソッド」は低劣でだらしない。だが「便利屋のメソッド」は見ている者すべてを騙し、緻密だ。


■ 「恋に落ちる」ということは「ありえない」ことである


この映画は「演技について」の他に「恋について」を描いている。

几帳面で努力家の二人が恋に落ちる物語。

人を好きになることができない香苗(広末涼子)。
2度の結婚を経験している姉に「胸がキュンとしたことないの?30歳を超えるとこの胸キュンマシーンが壊れちゃって作動しなくなるんだけどね」と諭される。
(小山田サユリが演じる。かわい過ぎて広末涼子の姉役に見えない。37歳!?かわい過ぎるだろ)


貧乏で妻に去られた便利屋と、死期が近い父親のために緊急に結婚したい雑誌編集長。
恋愛ができない二人がなぜ恋に落ちるのか。
それは「ありえない出来事」によってだ。

葬儀の時に流す亡き父が遺したメッセージビデオを間違えるというありえなさ。
記憶喪失の者を身分確認もせず家に帰らせるありえなさ。
几帳面で全身血しぶきの格好のはずが腕と時計を血で汚すありえなさ。
記憶喪失の男の家に住み込むありえなさ。


こんなことは現実ではありえない。
でも「恋」というものはそれ自体ありえないことだ。
なぜ人を好きになるか。
そんなもんわからない。
なぜなら人を好きになることは「ありえない出来事」だからだ。
自分では制御できないけど、気付くとすでに好きになっている。
几帳面で緻密なスケジュールでも達成できない。
何かのきっかけで好きになっている。

その合図として映画では車の警告音が使われている。
それはいいのだが、この音の最初の登場が恋とは一切関係ないシーンだ。
ここが恋を匂わす演出をしていればもっと映画的になったはずで、内田監督ほどの人物ならそんな演出は好きそうなのだがあえて回避しているようだ。


ラスト。
恋に落ちた二人が抱きしめ合う場面。
この時の二人が演技とは程遠い抱き合い方をする。
あやつり人形のように抱き合う二人。

そう。すべては虚構だ。

退屈な日常とはありえない出来事の積み重ねで成り立っている。
この作品のように、映画を求めると映画的展開は期待できない。
恋に落ちるとはありえない出来事に没入することなのだ。

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テーマ: 映画感想 - ジャンル: 映画