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実存浮遊

映画やアイドルなどの文化評論。良い社会になるために必要な事を模索し書き続けます。

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『幕が上がる』の映画の良さと小説のすごさ 



映画『幕が上がる』を見ました。
今回は3つのパートに分けて感想を書きます。

・映画を見て
・映画を見た後に原作を読んで
・映画と原作を比べてみて

という感じです。

映画はもちろん原作にも触れますのでネタバレでも良いという方だけお進みください。
未見の方は、ぜひ映画や小説を見てからまたこちらのブログにお越し下さい。

ではまずはじめに、映画を見た感想からです。
キーワードは「スゴさは言葉にできない」です。



【感想 1 】 映画を見て

■ なぜ風が吹いているのか ■


この映画のストーリーは青春映画によくある単純なものだ。
敗北し、現役を退いた舞台女優に出会い、練習を重ね、過去を乗り越える。

ラスト、勝利を予感させるほどたくましく成長した部員が舞台に立ち、幕が上がり映画のタイトルが現れる。
その後の結末は描かれることなく映画は終了する。
これから先もずっと人生は続いていくからだろう。


映画を見終わり一抹の不安がよぎった。
ももクロファン以外の人に受け入れられるんだろうか、と。

もちろんアイドル評論家の中森明夫さんや伊集院光さんなど、これまでももクロについて語ってこなかった人達が賞賛しており、そこからの観客も見込めるでしょう。
そうなんだけど、『桐島、部活やめるってよ』の口コミによる大ヒットのようなものは見込めない気がする。

ももクロファンは絶対に満足する映画です。
れにちゃん推しとしては活躍する場面が少なすぎる気がするけど、それでも全体的にももクロの魅力が詰まってると思います。
れにちゃん推しとしては、吉岡先生のお別れの手紙を聴いてる時のれにちゃんの美しさが良かったです。
それにみんなの演技も演技と感じさせないほどで素晴らしかったです。

できるだけ多くの人に見て欲しい。
ももクロファンはここで感想を書くまでもなく見に行くでしょうから、見るつもりも無い人のためにこの記事を書くことにします。
メンバーカラーを使ったやりとりとか、先生が突然退職するんだけど、その時の話を聞いている構図があかりん脱退の時の配置と同じとか、ももクロのタオルやTシャツが出てくるとか、ゲスト俳優がこれまで共演してきた人ばかりだとか、たこ虹ちゃんいたねとか、そういう小ネタを気にすると物語を楽しめません。
というか小ネタはクドカンのドラマのように暑苦しいけどうざったくない、というのが良いんじゃないかなと思います。
この映画ではさらりとしてて、ももクロファンにしか気づけないようになっています。

しおりんが緑のペンキ塗って、杏果ちゃんが黄色のペンキ塗って、というシーンなんて最たるものです。
そこに気づいて感動できるももクロファンは今いるんでしょうか。
小ネタだな、という程度にしか感じられません。
そしてメンバーカラーについて知らない人にとっては意味が通じない。
高橋さおり(百田夏菜子)が中西さん(有安杏果)に入部をお願いするシーンも、中西さんは高橋さおりの目の前にあるメロンジュースをわざわざ取っています。緑だからでしょう。注文したのと逆なんだとしたら高橋さおりが渡すべきとも思うんですが、まぁこういう細かいところはいいでしょう。


ももクロファンに寄り過ぎてる感じがして、映画女優の5人を見に来た僕としては不満が残るものとなりました。
ももクロの映画を見に来たのではなく、百田夏菜子が、玉井詩織が、佐々木彩夏が、有安杏果が、高城れにが、それぞれ演じて、作品を作り上げたという映画を見たかったのです。

映画として不満が残りましたが、本広監督の撮影方法は賞賛します。
この映画はほぼ順番通りに撮影したそうです。
最初は揃わなかった演劇部の掛け声が、成長とともに揃いだし、ラストは綺麗に揃う。
それは撮影を重ねるごとにももクロの5人が成長していく姿ともつながっている。

そう、この映画はとてもわかりやすい。
構成も比喩も。
だがそれゆえに疑問が曖昧なまま取り残されていく。

七人の肖像画という短い劇(エチュード?)がとても素晴らしいと思ったが、大会の演目は人真似じゃなくオリジナルで行こうと言われていた。
それなのに『銀河鉄道の夜』を演じたのはなぜなんだろう。
(これはおそらく原作に書かれています。『銀河鉄道の夜』に部員のエピソードを入れたアレンジをする、ということみたい)

「行こうよ、全国」とあるが、この物語は全国大会出場を決めた3年生がその全国大会には出られない、というのが大きなポイントになっている気がするが、映画ではそこが意図的に外されていた。
(説明はあるものの大きく取り上げられなかった)
「行こうよ、全国」と言って、3年生の4人はいくら勝ち上がっても全国大会そのものに出場できず、後輩に託すしかないのに、そのような描写もありません。

杏果ちゃん演じる中西さんを部員に引き込んだけど、彼女の果たした成果って一体なんだったんだろうか。
映画では中西さんのおかげで『銀河鉄道の夜』上演をひらめいたようです。
でもほかに何かあったかな。
他の部員誰もが認める女優として中西さんは存在できたのかな。
そこが少し残念です。


ではこの映画は一体なんなのか。
これは黒木華の映画です。
断言します。
これは見る人が高橋さおり(主人公)となって黒木華に心酔する映画なのです。


黒木華演じる吉岡先生との出会い。
『ロミオとジュリエット』を「ロミジュリ」と略して話されたりして先生の言葉が最初は通じません。
そしてエチュードをやってみればいいと言うアドバイスに対し、そんなに簡単だって言うなら今やってみせてください、と食って掛かる百田夏菜子演じる高橋さおり。
そうして目の前で演じられたエチュードのスゴさにやられる高橋さおり。
言葉ではなく吉岡先生自身のスゴさに撃ち抜かれるのです。

映画の中では吉岡先生が開いた窓が重要なポイントとなっています。
スイッチを入れ替えたというのもあると思いますが、それ以上に「風」がポイントです。
「風」というのはなぜだかわからないけどスゴいものです。
科学的には発生する条件などを説明できます。ですがどんなものか、なんで存在するのかは説明し切れません。
そしてエチュードを演じる上でその物語に必要なわけでもないのです。

吉岡先生の演技に必要なアイテムではない「風」。
なぜかその時に吹き込んできた、人が操縦できない存在である「風」。
この場面では「風」が、説明できないけどなんだかスゴいもの、として使われています。
高橋さおりは吉岡先生の演技力にだけ惹かれたのではなく、この時の「説明できないけどなんだかスゴい体験」を経たので吉岡先生に惹かれたのです。
言い換えるなら「この時にしか見られない一回性の奇跡体験」を経て「変性意識状態」に陥った、と言えるでしょう。

人はスゴい人、スゴい体験に惹かれます。
だからこそ真似したくなるのです。
顧問の先生には何も得るものがなく、吉岡先生からだけ多くを学び取る。
顧問の先生は日常の住人であり、吉岡先生は非日常の住人だからです。
だからこそ吉岡先生は先生をやめて非日常の世界に没入してしまうのです。

スゴい体験をし、スゴい人の真似をすることで世界の豊潤さに触れた高橋さおりは同じ方法で中西さんを演劇部に引き込みます。
その方法とは「風」ではなく「振り乱した髪」です。
中西さんを勧誘する前に、なぜか高橋さおりは落し物を渡そうとする男(中西さんのお父さんとのちに判明)から逃げようとします。
だからこそ髪型が乱れているのですが、この行動は意味不明ですね。落し物を拾ってくれたのに。
その乱れた髪型のまま中西さんの手を突然つかみ入部をお願いするのです。

吉岡先生の風に吹かれながらのエチュードを体験した高橋さおりは、同じように乱れた髪型の状態で中西さんを非日常の世界に舞い戻らせます。
ここで高橋さおりの中に吉岡先生が憑依していることがわかります。
ももクロのライブを見たことがある人には、髪を振り乱して踊る5人になぜか心が惹かれてしまった経験がおありでしょう。


映画では吉岡先生が学校を辞めたあとの姿が回想されます。
これは誰の目線でもありません。
このシーンはいらなかったと思うんですよね。
完全に物語から消え去り、代わりに高橋さおりに吉岡先生が乗り移ったことを描写しておく方が良かったかと思います。
例えば、ラストは風が吹いて終わる、などです。
始め、風に吹かれながら演じられたエチュードにより吉岡先生が乗り移った高橋さおりに、ラスト、どこからともなく風が吹き髪を乱す。
演出家として目覚めさせてくれた吉岡先生への感謝とともに舞台の幕が上がる。
このような終わり方はいかがでしょうか。


劇中劇と稽古風景の映像を事前に見る事ができますが、むしろこれを見ていないと映画をより楽しむことはできないでしょう。
もちろんこの映像は泣く泣くカットしたということなのでしょうし、幕が上がって終わるというエンディングのためにもカットしたのでしょう。
でも演出家として目覚めた高橋さおりのすごさを観客に知ってもらうにはこの映像しか無いと思います。


映画感想をまとめます。
ももクロファンに擦り寄り過ぎててファンは楽しめると思うけど映画作品として楽しむには物足りない。
それよりも黒木華演じる吉岡先生のスゴさに撃ち抜かれよ。


では続いて原作の小説を読んだ感想です。



【感想 2 】 原作小説を読んで

■ 高橋さおりは主人公なのか ■


素晴らしい小説でした。
高橋さおりという頭が良いけどそれゆえにいろんなことに悩む女の子が、様々な人と出会うことで成長していく物語です。
全編高橋さおり視点で、我々読者は彼女と一緒の気持ちになって悩んだり驚いたりすることができる。
「がるる」「わび助」「ゆっこ」「中西さん」という呼び名がある中で、なぜ彼女だけが「高橋さおり」というありきたりな名前なのかというと、読み手の誰にでも成り代われるからだろう。
これが「護国寺エリザベス」という名前だったとしたら、名前が気になって読み手との隔絶が生まれる。

小説を読むと、映画化はももクロ用にいろんな箇所が改変されているのがわかる。
もちろん全国ロードショーのために2時間という制約があるのだろうし、ももクロを登場させるということで5人をピックアップするために強引に役を当てはめたという部分もあるだろう。
でもももクロのことが大好きな監督が撮ったがゆえに原作の良さを大きく損なった部分も出てきてしまったと思う。
あくまでももクロファンのための、ももクロを知っている人のための映画化であり、原作ファンのための映画化ではないということだ。
それぞれの役柄は原作に寄るのではなくあくまでももクロのメンバーのキャラクターに寄っている。

完全にれにちゃん推し補正だけど、高橋さおりはれにちゃんが演じるべきではないかと思っています。
裏方でみんなを活かしいろんな人に好かれ他者に敏感である。
最初は部員に演技指導できないんだけど、作品のためみんなのためにと演技指導できるようになっていく。

夏菜子ちゃんは裏方の人間ではないでしょう。これは多くの夏菜子ちゃん推しが認めることなんじゃないでしょうか。
引っ込み思案で目立ちたくない彼女がリーダーでセンターに選ばれて前面に立ってがんばって突き進んでいくのが百田夏菜子なんじゃないでしょうか。

主人公の高橋さおりは演出家の方に周り、役者を引き立てることに快感を覚えます。
それは吉岡先生という元舞台女優の指導により開眼しました。
みんなで作り上げてみんなの良さを引き出して良い作品にしていく。
まさしくれにちゃんではありませんか!
自分のことは二の次でみんなの良さを引き出す。
夏菜子ちゃんはみんなの良さを知ってもらうために自分がまず前面に立つ覚悟を持ったのです。
高橋さおりとは違いますよね。
まぁ完全に推し補正ですが。


小説は高橋さおりの目線で語られていて、それが徹底しています。
だから吉岡先生がやめるのも高橋さおりを好いてくれる男子についても脚本演出に没頭しているあまり気づけない。読者も高橋さおりと同じタイミングですべての物事を知るのです。

原作ではなぜ『銀河鉄道の夜』でなければならないのかが語られます。
映画では大きく削除されていましたが、原作で描かれているこの理由はとてもきれいです。

何者でもない高校生演劇部員たち。
それは、物凄く遠くから見れば(星から地球を見れば)ひとつの塊にしか見えない。
でも近づいてみるととてつもなく遠くにいる。
まるで、地球からは川に見えるが、実際は何億光年も離れた星々でしかない、という天の川のように。
部員として一緒にいるけど、実は部員たちのことを何も知らない。
信頼しているゆっこの苦悩すら気づけない。近いのか離れ離れなのかわからず、そのことにすら気づけていません。

ジョバンニとカンパネルラは夢の中で銀河鉄道を旅します。
遠くから見たら一つの塊でしかない銀河を旅し、実際にはすべてが離れ離れで個性的であることを知ります。
『幕が上がる』ではそれぞれの銀河駅を、部員それぞれのエピソードを交えた脚本にしているとあります。
つまり、部員たちの心を知る旅に出たのです。

すべての旅が終わるとそれが夢であることに気づきます。
そして一緒に旅していたはずのカンパネルラが実は川で溺れていまだに行方知れずであることを告げられるのです。
銀河鉄道の旅に出る前に一緒になったカンパネルラが髪を濡らしていたのは、実はすでに溺れていたことを暗示させていたのでした。

肉体的にも精神的にも離れ離れになってしまったジョバンニとカンパネルラが一緒になって銀河鉄道を旅し、そして戻ってくる。
旅の中で拾ったくるみをカチカチと鳴らすことで、永遠に離れ離れであるにも関わらず、永遠に一緒でいることを示しています。

つまり、生と死とは、10代の若者たちとは、国と国とは、地球と天の川とは、すべてが一生交わることがなく、だからこそすべてで一つであるのです。

高橋さおりが、なぜ高校生としてのモヤモヤを『銀河鉄道の夜』にぶつけたのか。
なぜいじめ問題とか大学受験などのいわゆる10代の悩みを演劇にしなかったのか。
なぜ『銀河鉄道の夜』でなければならないのか。
それが原作には描かれています。


そして原作では3年生が演劇部を引退し、2年生に『銀河鉄道の夜』が引き継がれます。
なぜ高橋さおり演出でもないし、ゆっこも中西さんもがるるもいないのにこの作品が引き継がれるのか。
それはこれこそが10代の、そしてこの世界の心情を描いているからです。

なんで同じ10代なのに嫌い合ったりするの?
なんで同じアジア人なのに嫌い合ったりするの?
なんで同じ地球に住む人達なのに戦争するの?
なんで同じ高校生なのに物凄く好きな人とそうでない人がいるの?
なんでどこにもいけないの?

そう『銀河鉄道の夜』は何処へでも行ける切符(演劇)を手にした何者でもない若者たちの作品なのです。
星々を旅し、死者と語らう。
すべて別々でバラバラなんだけど、すべてがひとつである。


作者の平田オリザさんの繊細さと、『銀河鉄道の夜』の解釈に脱帽します。
宇宙が膨張し続け、永久に真理に到達できない僕たち。
それでも「何処へでも行ける切符」をみんな持っている。
真理には永久に到達できない。でも真理追究への旅には出ることができる。
それぞれの駅でいろんな経験をできる。
そして現実に帰った時に、旅に出る前とは違った物の見え方ができる。


「中学、高校生に読ませたい小説No.1」とあるがとんでもない。
これはすべての人が読むべき小説だ。
「かつて高校生だったあなたに」などという生ぬるいレベルではなく、生きているならば、悩みを持っているならば、悩みすらないと言ってしまえるほどの薄っぺらい人間であるならば、絶対に読まなければならない小説だ。
そうすることですべてが開演するだろう。



【感想 3 】 映画と原作を比べて

■ 映画表現とは何か ■


まず原作の小説が傑作であり、映画は凡作である。
ただ映画でしかできない表現があり、さらに黒木華という物凄い女優が組み合わさってアイドル映画以上の作品となっている。

映画感想と原作感想をまとめるとこの二つの文章になる。

このパートではもう少し細かく原作と映画の違いについて考えてみたいと思います。


● なんで踊ったのか

まず気になったというか醒めてしまったのが、『Chai Maxx ZERO』が流れる夢のシーンと、『走れ!』を5人で踊るシーンです。
もちろん原作には無いシーンであり、ももクロファン向けでしかないシーンなんですけど、そこで完全に役柄とももクロとが切り離されてしまった感じでした。
せっかく演出や演技なので高橋さおりたちの演劇部の物語を見てたのに「なんだももクロだったのか」と夢から醒めてしまった感じです。
歌とダンスという何処へでも行ける切符を持ってるんだったら演劇じゃなくてもいいじゃん。
そしてももクロは我々を何処へでも連れてってくれる存在なんだな、と改めて思いました。けど映画としてはいらない表現ですよね。
ももクロがすごいことは誰でも知ってるんだし、高橋さおりのすごさは小説を読めば誰もがわかります。


● 全国に行けないのになんでがんばるのか

原作ではいくら3年生がすごくて全国大会へと進んでも、実際に全国大会に出られるのは2年生以下であることが丁寧に描かれます。
つまり高橋さおりもゆっこもがるるも中西さんも全国大会には出られないのです。
それなのに「行こうよ全国!」って言うのが納得できません。

原作ではとにかく目の前の上演をがんばる、という感じです。
とにかく今やりたいことをするしかない、と。
全国大会よりももっと先に行くため、人間的に成長するために何処へでも行ける切符を手にしたと思うのですが。


● 演出家高橋さおりのすごさはどこに行ったのか

ももクロのライブ前などで『銀河鉄道の夜』を演じた舞台や練習風景を事前に披露していました。
僕はあまり映画の情報を入れないで作品を見ようと思っていたので、この映像は少ししか見なかったのですが、映画と小説を見て「この映像を見ないとダメだったんじゃないか!」と思いました。

吉岡先生が憑依して演出家として開眼していく様は映画本編には無いし、『銀河鉄道の夜』が原作とどのように違うのかも映画本編には描かれていません。
だから原作であれほど丁寧に大事に描かれていた「銀河鉄道の夜じゃなきゃダメな理由」が一切描かれていない。

中西さんと高橋さおりが二人きりでホームにやってくる電車を見たからという理由です。
中西さんはカンパネルラを演じます。ジョバンニ(ゆっこ。玉井詩織)を銀河鉄道の旅に連れてってくれる役です。
もしこれが、映画内で中西さんから演劇という「何処へでも行ける切符」を高橋さおりに渡してくれるなら理解しやすいでしょう。

例えば、何処へでも行ける切符を渡してくれた吉岡先生がカンパネルラで、目の前から尊敬する先生がいなくなってしまった高橋さおりがジョバンニだとしましょう。
もしそうであるならば、吉岡先生が学校を辞めたことを契機に爆発的に『銀河鉄道の夜』の演出と演技が良くなるべきです。
そのようなポイントが映画にあることで、この劇でなければならない理由が描かれてると言えるでしょう。


● 吉岡先生とは桐島なのか

映画『桐島、部活やめるってよ』の脚本家喜安浩平氏が『幕が上がる』の脚本をしたそうですが、だとしたらあざといようですが吉岡先生を桐島的に描いて欲しかったです。

吉岡先生のすごさに影響され、翻弄される部員たち。
特に影響を受けていた高橋さおりは、吉岡先生が突然いなくなることで演出家として成長します。
その後吉岡先生が舞台の世界に戻ったことが映像でわかるのですが、これはいらなかったんじゃないでしょうか。
原作は常に高橋さおり目線で物語が進むので、彼女が見ていないものは作品には描かれていません。

映画の方は、吉岡先生もがんばってるから演劇部員もがんばろう、というような描かれ方をしています。
吉岡先生の緊張感と、演劇部員の緊張感がシンクロするわけです。
でも吉岡先生がそんな人間的に描かれていてはいけないと思います。
演劇部員と同じレベルならそもそも惹かれるはずがありません。
ここはやはり「桐島」のように物語から退出することで残っている登場人物たちが輝く、という描き方にするべきです。


原作も映画版も、演劇部員たちの熱により先生を辞めることにして演劇の世界に没入することにした、と説明されます。
小説は納得できます。でも映画の方は納得できません。なぜか。

原作では映画の比じゃないほど必死に苦しんで作品を良くしようとする高橋さおりが描かれます。それゆえ吉岡先生にも依存的になっていきます。
一方映画では、まず黒木華のすごさがあり、劇中劇の映像がごっそり排除されていることにより高橋さおりのすごさが伝わらなくなってしまっています。
つまり吉岡先生が高橋さおりの影響を受けるとは思えないのです。
それよりも単純に吉岡先生はまだ舞台に未練があったので戻りました、という風に見えてしまいます。
それだと演劇に人生を狂わされた(つまり高橋さおりが吉岡先生の人生を狂わせた)感じが出ないのです。

なので映画では「高橋さんの演出する舞台に出てみたい」と吉岡先生が言ってもお世辞にしか思えないのに対し、原作では吉岡先生が本気で手紙を書いていることが伝わります。
原作の吉岡先生は、だからこそ慕われ、だからこそ高橋さおりに一生恨まれます。突然部員たちを置き去りにして辞めてしまったことを絶対に許しはしないけど、恩師として尊敬し認めている、というもどかしいような、言い表せないような感情を抱かせます。言い表せませんがそれがしっかり読み手に理解させているのです。


● 好きなシーン

原作を大きく削ったのは残念ですが、もちろん商業的に2時間でおさめなければならないとか、本番は5月の舞台であり映画本編は長いCMなのだ、というのも納得できます。
原作にはなく映画のみにある表現で好きなのは、家族などに見せるエチュードです。
「7人の肖像画」というようなタイトルだったと思います。

これはとてもおもしろかったです。全部見たかったぐらい。
照明や音響に回ってる部員がそこからセリフを言うのです。
あの教室でなければできない舞台だと思うし、人数が少ないことが良い方向に演出されている素晴らしいものでした。
むしろこれを一番最後のシーンに持ってきた方が良かったんじゃないでしょうか。
演出家高橋さおりの手腕がいかんなく発揮されたと映画を見てる人は感じるでしょう。
『銀河鉄道の夜』の方は事前の劇中劇映像をごっそり削ってるので伝わらなくなってるのは前述の通りです。

他にも映画の感想パートで書きましたが、吉岡先生が風に吹かれながらエチュードを演じるシーンは物凄いです。
これを見るためだけでも十分価値があります。
そして高橋さおりがこの時「簡単だって言うならやってみせろ」と食ってかかるんですが、この時に内面の声がナレーションで入るんですが、ここもおもしろいシーンです。
実際には内面で冷静になってて言動が怒ってるなんてありえないんですけどね。
もしこの才能が演出家足るゆえんなのだとするならば、もっとわかりやすく描くべきかなと思いました。
つまり演じる自分と、それに演出をする自分が別にいる、というのをこのシーン以外でもフックを作っておくべきだと思います。


● 映画化不可能に挑戦する


原作を読めばわかりますが、これは映画化不可能です。
5時間ぐらい使えば原作の良さを活かして忠実に再現できそうですが。
映画版は舞台に向けての成長のためでもあり、長いCMなのだと感じました。
だからこそ本広監督なのです。
『踊る大捜査線』という超大ヒット作品を作った監督にお願いするのは商業的には当たり前のことでしょうし、賞賛されているように及第点の作品でした。

ですが、映画感想ブログを何本も書いている僕としては、映画として残念な気持ちなのです。
素晴らしい映画に5人が出て欲しい。
黒木華さんの凄さが突出してしまった映画ですが、それこそ人生が狂わされるような映画に出て欲しいのです。
ももクロに人生を変えられた人はすでにももクロに人生を変えられています。

僕は以前から女優高城れにの可能性に期待しています。
物凄い女優になるのではないかと思っています。
ももクロのれにちゃんではなく、映画女優の高城れにに心酔する映画ファンが大勢現れて欲しいのです。


最後に。
これは本広監督批判でもなんでもありません。
むしろ本広監督を見くびっていました。こんな良い映画を撮れるのか、と。
でもそれ以上に原作が素晴らしく、大人の世界のしがらみがなく、好きなように撮影できたらなぁ、と同じももクロファンとして監督の無念さが手に取るように伝わってきます。
『幕が上がる』という作品に触れる機会を作ってくださったことに大変感謝しています。


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