実存浮遊
映画やアイドルなどの文化評論。良い社会になるために必要な事を模索し書き続けます。
2015.05.21 Thu. 06:17 :edit
細部の作り込みから宇宙を体感させる 【舞台『幕が上がる』の感想】
舞台『幕が上がる』を鑑賞しました。
以下、小説版・映画版・舞台版の内容について触れますので了承の上お進みください。
(参照記事:映画と小説の感想はこちら)
■ 演じていると思わせない
映画から入り小説を読み、そしてついに舞台『幕が上がる』を見た感想をひとことで言えばそれは「演じないことの難しさ」です。
舞台の経験が無いので体感でしかありませんが、物凄い練習量だったのではないでしょうか。よくテレビドラマなどを見ていて「これは演技だな」と感じることが多いです。というよりも、演技をしているということが当たり前過ぎてわざわざ「あ、今演技っぽい」などと指摘しません。
(と言いつつも、つい先日朝の連続テレビ小説『まれ』にて主人公のまれが酔った男に唇を奪われるシーンがありましたが、それに異を唱えずにいられませんでした。普通顔に何か近づいてきたら避けるでしょう。しかもそれが見知らぬ酔っ払いですよ。頭押さえつけられてたわけじゃないし、目を閉じてたわけでもないんですからいくらでも避けられました。まれは酔っ払いが唇を奪いに来ているにも関わらずキスされるまで待ち、その後突き飛ばしていました)
ドラマや映画を見る側の構えとして、映像に映っている人達は初めから演技をしていると理解しながら鑑賞しています。
そうじゃなかったら、刑事ドラマとかとてもじゃないけど見てられませんからね。人が死んだり犯罪が起こったらもうテレビの前で大騒ぎですよ。
見る方も演技だとわかってるし、演じる方も演技だと思われていることを踏まえた上でストーリーを進めています。
■ やわらかい身体
舞台というのはその境界線が曖昧になる瞬間があります。
そのひとつがアドリブです。見ている方は目の前で起こったライブ感に「演技している人たちを鑑賞する」という前提が揺らぎます。なので「今のは演技じゃなくアドリブだ」という感想を抱きがちです。
舞台版『幕が上がる』はとても不思議な感覚に包まれます。それは平田オリザさんの舞台で行われる「0場」があるからです。
開演時間の前からすでに舞台上に役者が立ち日常空間を過ごしている。
そうすることで観客は日常から別の日常(つまり物語の空間)にシフトさせられます。
僕が鑑賞した5月20日は、パンフレット購入を終えて劇場に入った時にはすでにがるる(高城れに)が舞台上にいて机に向かって何か書いてました。そして僕が座席に着いたころにはもう教室を出て行くところでした。
これがライブであれば近くに見えるれにちゃんに発狂していたことでしょうけど、そこにいたのは部活前の女子高生であり、我々観客はその場に居るはずが無い存在(空気?教室の壁?)として機能させられます。
劇作家の宮沢章夫さんもよく書かれていましたが、硬い身体とやわらかい身体があり、身構えたりせずにやわらかい身体で表現することの必要性と難しさを説いています。
平田オリザさんのワークショップを見てもわかるように(例えば「負荷をかける」という修練)役者はやわらかい身体であることを良しとしています。「0場」は観客にもそれを強いるシステムとして機能しています。それがライブでの高揚(例えばOvertureなど)の仕掛けとは正反対の「やわらかい身体での鑑賞」の仕掛けです。
■ 言葉を超えて肉体で伝える
舞台上では、細かいところで心情をうかがい知ることができます。
例えば冒頭のシーンでは、演劇部の後輩たちが高橋さおり(百田夏菜子)部長の作った台本をとても愛していることがわかるし、セリフを言う役を次々と変えていく練習風景を見れば、地区大会を勝ち上がっていく実力を持つ部であることが伝わってきます。
僕が特にすごいと感じたのはユッコを演じたしおりんとがるるを演じたれにちゃんです。
ユッコはまず後輩達の態度でエースであることがわかります。がるるに対してはみんな気軽に接してくるのに対し、ユッコには馴れ馴れしく近づく後輩はいません。
そして『銀河鉄道の夜』を練習している時とそれ以外とでは、ユッコの座り方が違います。ジョバンニを演じている時は男の子に見え、それ以外は女の子に見える。これは当然なのですが、後輩たちは『銀河鉄道の夜』の時でも座り方が女の子に見えるのです。
つまりこれだけで高橋さおり(百田夏菜子)作・演出の『銀河鉄道の夜』はまだまだ3年生に比重が置かれており、後輩達は必死に引き継がせてもらおうとしているのが伝わってきます。
(疑問が浮かびました。明美ちゃん(佐々木彩夏)が1年生の高田(伊藤沙莉)に対し、他の人のセリフを覚えてそらんじている事に対して「怒られるよ」と笑いながらたしなめていたのですが、セリフ回しの練習ではむしろ全部の役のセリフを覚えていることが前提となった練習をしています。なぜ高田は注意されたんだろう)
しおりんのすごいところは、しおりんよりもユッコの方が歌が下手だということです。
カラオケのシーンでユッコはザ・フォーク・クルセダースの『悲しくてやりきれない』を歌うのですが、明らかにしおりんよりも下手です。安定しておらずおぼつかない歌い方です。実際に演じてみればわかりますが「下手な歌い方をする演技」というのは難しい。「わざと下手に歌ってる感じ」が出てしまうからです。ですがしおりんの場合はユッコが元々歌が上手ではないようにしか思えない演技を見せます。しおりんの歌声を知っているからこそ下手に歌っていると気付けますが、しおりんの歌声を聞いたことが無い人が見たら、下手に歌っている演技だとは気付かないでしょう。
きっとユッコは『悲しくてやりきれない』を初めてカラオケで歌ったのでしょう。おそらく聞いたことはあったけど歌詞内容からカラオケでみんなの前で歌うような曲ではないと判断したのでしょう。それでもあの場で歌わずにいられなかったのだと思います。
中西さんのことが好きになり始めてきたけど、中西さんに成り代わることなどできない。中西さんの悲しみを代弁するなどというおこがましいことも、女子高生の多感さもあって嫌がることでしょう。
ユッコは中西さんに対して何もしてあげられない事を自覚しているからこそ悲しんでいます。
演出家の在り方と友人としてつらいセリフを吐かせる自分に負い目を感じる高橋さおりがいて、過剰なまでに周りの機微に敏感ながるるがいて、自分だけが生き残ってしまったと感じる中西さんがいて、悲しみを受け入れつつも「悲しくてやりきれない」と訴えずにはいられないユッコがいる。
つたなくたどたどしく歌うユッコの姿を見て没入してしまうのは、そうした背景が錯綜しているからでしょう。
『銀河鉄道の夜』ではエースとして憧れられるが、普段は話しかけづらい印象を後輩に与えがちであるということが、「がるるが歌えって言ったんじゃん」と会話の流れを無視して曲を入れる事からもうかがい知ることができます。
小説版でもユッコはお姫様であり他人を気遣うというよりはちやほやされるのを求める女子高生であると高橋さおりは評しています。
それでも愛されるのは『悲しくてやりきれない』という曲を選んだ部分に現れているでしょう。
(中西さんについては後述)
■ がるるが母子家庭で育った女の子であるということ
僕自身少年期から母子家庭で育ったということもあり、がるるの振る舞いは涙を引きずり出される感覚でした。
さらにれにちゃん推しでもあるので、がるるのなんでもないように見える立ち姿から奥深くまで共感できるような錯覚に陥り、感動的な場面でもないのに落涙しました。
作中がるるは、「自分は3年生部員のキャラがかぶらないように今のがるるキャラを演じているだけだ、本当は美人キャラなんだ」ということをおもしろおかしく後輩達に宣言し、変な空気にしています。
もちろん観客も笑っていたのですが、僕は胸が締め付けられるような想いでした。
がるるとれにちゃんはとても似ているな、とも思ったのです。
れにちゃんはインタビューなどでがるると自分は違う女の子だ、という主旨のことを言っており、僕もそう感じていました。ですがここはとても似ていると感じました。
ももいろクローバーZとなり、さらに自己犠牲の場面が増えたように感じるれにちゃん。自分が損を取ることで誰かの得になればいいと考えているのは、このがるるの「ほかの人がやらない役回りを演じる」という部分にも通底しています。
例えば高橋さおりと演劇部を何度もつなぎとめるために「さおり」と呼びかけ続けたり。
演劇部を見てくれていた吉岡先生がみんなに感化され学校を辞めて女優の道を再び歩むと決めました。その後の練習風景から舞台版『幕が上がる』は始まるのですが、部長の高橋さおりはすべてを背負い込むかのように厳しく演出の指導をします。
それをたしなめるのはがるるの役目です。
高橋さおりを気遣って「さおり」と包み込むように言う場面や、後輩部員たちをかばうために「さおり」と強く言う場面もあります。そしてその「さおり」という声のかけ方だけでその空間の調和が取れるという信頼関係の深さがうかがい知れます。
母子家庭で育った子は親の夫婦喧嘩に居合わせている事が多く、特に幼少期の場合は「自分のせいで両親が喧嘩しているんだ」と思い込む傾向にあるそうです。そのため過剰なまでに他人の顔色を気にする人物に育ってしまいます。
がるるはまさにその悲しい特性を活かして部員たちに接しています。それは稽古場に来て後輩に接する態度を見ればわかります。ユッコとがるるとでは後輩達の緊張感が違います。
ユッコでは高田を固まるほど大爆笑させられないのです。
がるるが一番激昴する場面があります。
それは演出家として高橋さおりが中西さんにあることを質問するカラオケでの場面です。
おじいちゃんの介護をするため介護士を目指している彼女はきっと死に対して敏感なのでしょう。
高橋さおりが中西さんの喪失感に触れようとした時に怒鳴りつけました。
れにちゃんとがるるの大きな違いが現れたシーンではないでしょうか。
れにちゃんだったら高橋さおりに食って掛かるようなことはなく、きっと中西さんの隣にいてぎゅっと手を握るんじゃないでしょうか。
■ 中西さんの設定の追加について
鑑賞後思考がぐるんぐるん回ってしまい、会おうと思っていた方とは連絡も取らずにとにかく帰路につきたくなってしまいました。帰りながらその方にはツイッターで謝りましたが、その方も同じように誰とも会いたくないような感覚に陥っていたようでした。
誰かの意見に流されたくないと言えば語弊がありますが、まずは自分の中に発生した感情に手綱を装着させることを優先したくなってしまったのです。
早く手綱をつけないと心の中を暴れまわってしまいます。
なぜ心の中を言葉にできない感情が暴れまくっているのか。それは舞台版が「震災もの」に修正されているからです。
小説版や映画版とは違い、舞台版では中西さんは中学時代岩手にいて被災していたという設定になっています。
前の高校で声が出なくなり演劇部を辞めたというのが震災に影響しており、『銀河鉄道の夜』でもカンパネルラが川で溺れて死んでいるという設定により再びセリフが言えなくなってしまったのではないか、と推察するストーリー展開になります。
映画版では部員たちが高校演劇を鑑賞するシーンがあり、その中に『もしイタ ~もし高校野球の女子マネージャーが青森の「イタコ」を呼んだら』も演じられているのですが、この作品は3.11の震災がテーマとなっており、転校してきた男の子は部員や親を津波で失っている設定です。
中西さんもこの作品を見たのですが、被災者であり高校演劇強豪校のエースでもあった彼女がこの作品を見て、さらにカンパネルラの川に溺れるという設定から声が出なくなったのかも知れません。
中西さんの告白、高橋さおりの問い詰めているように見えてしまう質問、そしてそれを制止するがるる。
そこでユッコは突然『悲しくてやりきれない』を歌い始めます。
この曲の歌詞を読みましたがまさにタイトル通りの内容でした。
悲しみというのは自分の力ではどうにもならない状況を指します。成す術が無く静かに絶望している様が「悲しみ」です。
多くの中学生が津波で死んでしまったのになぜか生き残ってしまったと悲しんでいる中西さん。
彼女だからこそ前の高校の演劇で「世界はどうしてこんなに不公平なの!」と咆哮し、だからこそ悲しみの果てに言葉を失ったのでしょう。
■ 子供から大人になる速度と稽古場から銀河へ飛び立つ速度は同じ
高橋さおりは吉岡先生の突然の退職により演出家として半身をもぎ取られた感覚だったのではないでしょうか。それゆえ埋め合わせるために過剰に厳しくなったり周りの心情を想い図ることができなくなったりし、そのことを悔やんだりします。
カンパネルラの死を35分で受け入れたカンパネルラの父の気持ちがわからないとがるるは言います。それが大人になるということなんじゃないかなと高橋さおりは答えます。
友達の死を受け入れるのは宇宙を一周するぐらいの時間が必要でしょ?と中西さんは問いかけます。宇宙を一周することなどできない我々はつまり死を受け入れることなどできず、それゆえ中西さんは声が出なくなったと前述しました。
子供と大人の違いは宇宙のようにはなればなれで、宇宙のようにひとつです。
稽古場を見ていた我々は、いつしか星々がきらめく宇宙へと導かれていました。
部室、屋上、カラオケなど日常的なアイテムであふれていた舞台上が一瞬にして宇宙という非日常空間になったのです。
すべてはひとつでありはなればなれではないのです。
カンパネルラと旅をした銀河ステーションで見つけたくるみを夢からさめたのに持っていることも、それが死んでしまったカンパネルラとの交信の道具となるのも、カンパネルラの父が息子の死を嘆きつつ親友を失ったジョバンニを気遣うのも、すべてひとつです。
「私たちは舞台の上でならどこまでもいける。でも宇宙の果てには到達できない」のか。それとも「宇宙の果てには到達できない。それでも私たちは舞台の上でならどこまでもいける」のか。
『幕が上がる』の小説、映画、そして舞台を体感すればそれが理解できます。
宇宙の果てに到達できない「悲しみ」に嘆く子供から、宇宙の果てに到達できない「悲しみ」を受け入れ「みんな」とならどこまでもいけると気付く大人へ。
■ 最後に
ももクロがこの世界を刷新すると信じてきましたが、この作品を見てさらに強い確信になりました。
明美ちゃんについて今回触れませんでしたが、後ろの席だったのでよく見えなかったせいです(笑)。
とても素晴らしい作品に出会えたももクロちゃんの幸運と、その幸運を力づくで引き寄せてきたこれまでの努力、そしてももクロちゃんの人柄に多大なる感謝と最大限の賞賛を送ります。
本当にありがとうございます。
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