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実存浮遊

映画やアイドルなどの文化評論。良い社会になるために必要な事を模索し書き続けます。

社会不信:言葉を捨てよう 

■ 「過剰に論理的である理由は非論理的である」


最近論理的な文章ばかり書いていたので、今日は思うままに書き連ねていきたいと思います。


過剰に論理的で緻密に文章を構築し、相手を徹底的に説き伏せる、と思われているようですが実際はそうではありません。
(自分で自分をほめる僕だ)


「過剰に論理的である理由は非論理的である」

論理的にならざるを得ない理由は論理的に説明できません。

なぜかそうせざるを得ない。


論理的でなければ哲学も社会学も先に進めません。

なので論理的思考を得たいとは思っています。


哲学も社会学も論理的思考が必要です。

正確には「哲学史」「社会学史」には論理的思考が必要。

「史」とは歴史のことですね。
これまで哲学ではどんなことが議論されたか。
これまで社会学ではどんな思考がなされたか。

これらはすでに存在している部分なので、論理的に取り入れることが重要になります。


でも大事なのは「哲学史」ではなく「哲学」。「社会学史」ではなく「社会学」です。


「哲学」と「社会学」に必要なのは論理を超えた部分だと思っています。
とくに哲学はそうですね。

社会学は「組み合わせ性」が大事かなと思ってます。

実際の社会学は数理的な思考が必要なんですけど、我々凡人にはそこまでは無理です。


論理を超えた部分。
直感。

さらに言うと「世界からの福音に触れられるかどうか」が重要です。



■ 自分が嫌いだと思うものを排除すれば幸福になるのか


哲学は社会の内部にいては切り開けません。
哲学の素晴らしさは、社会を破壊し世界の福音に到達しようとする気概です。

哲学は道徳を疑います。
哲学は倫理も疑います。
そして哲学は自分の存在すら疑う。
(「道徳」とは社会のルール。「倫理」とは社会がなんと言おうと自分の内なる声に従うこと。神に従うこと)


社会学も「自分を疑う」という点では似てるかも知れません。

社会学では、自分個人が正しいと思うことなんかどうだってよく、社会に対しての真摯な態度が必要とされます。


例えば「性表現」がわかりやすい。

性表現に嫌悪するからと言って「性表現規制」を推進する者は社会にとって害悪でしかありません。
なぜなら、性表現の自由すら奪われてしまう社会は、いずれ表現の自由も徐々に奪われていくからです。

社会に対する真摯な態度とは、自分の快不快に関係無く、未来の社会のために現在戦う作法です。


他には「風俗営業法」があります。
ライターの松沢呉一氏も、社会学者の宮台真司氏も、「風営法を見直せ」と何度も言ってきました。

風営法のせいで店を構えていた風俗店は軒並みつぶされました。
その後ホテルヘルス、デリバリーヘルスへと形を変える。

お店があった時はトラブルがあっても男性従業員が女性を守ることができました。
でもホテルや客の家となると、身を守るのがサービス提供者のみになってしまい危険性が増します。

社会の目に見える部分から風俗店を消すことが、ますます危険を増やす結果になる。
女性を守れないシステムなど害悪に決まってます。

そしてさらに、現在風営法の拡大解釈でクラブハウスが摘発の危機に瀕しています。

松沢呉一氏が言っていたことが現実になってきています。

性に関することだから後ろめたさを感じ反発しないでいると、いずれもっと大きなものを規制される。
性に関することだから今の俺には関係ねぇぜ、と思っていると、未来の自分の首を絞めます。



■ 良き社会が良き社会とは限らない


さて、哲学的態度、社会学的態度とは何か。

それは自分の思考に鉄の信念を持って挑み、常に自分の思考を疑い続ける態度です。

自分の意見が正しいと思いながら接し、正しくないと思いながら意見を聞く。


さらに上に進むためにはこの態度がすごく重要です。

特に議論では、相手を言い負かすなんてビチグソほどの価値すらありません。
というか議論に勝つなんて簡単です。
それよりも、お互いの意見をぶつけ合い新たな地点へ到達することの方が重要です。



僕がブログを書く上で心がけているのは、「テキストでは穴を作り、議論では穴を無くす」ということです。

人とのやりとりが大好きなので、コメントをいただきたい、という想いがあります。
なのでテキストは「俺の考えはこうだ!」というのではなく、「僕はこうだけどみなさんどうでしょう」という感じです。

そしてコメントをいただいた時は、まず自分の考えを正確に伝えることを心がけます。
もし相手が間違って受け取っていたらそれを訂正します。
間違った受け取られ方を修正するだけで延々とやりとりするのは時間の無駄なので、自分の考えをはっきりする。

そこから議論を発展させたいです。


まぁわざとテキストに穴を作ってるわけじゃなく、勢いで書いてしまうので穴ができてる、というのが正しいですが。



良い社会を目指したい。
では良い社会とはなんでしょう。
そもそも良い社会は作れるのか。

良い社会というのは存在不能です。
でも良い社会を目指す態度は常に必要です。


社会システムの構築というのは、必ずそこから阻害される者が生み出されてしまいます。

なので常にシステムの更新が必要とされる。


良き社会が本当に良き社会か思考し続ける。
常に社会を疑う。

クソ社会をぶち壊せ。


■ 何を信じるか


と、ここまで書いてきましたけど、基本どうだっていいんですよ。

映画やももクロについて論理展開をしていますけど、そんなもんはそもそも不必要なんです。

例えば、星空の美しさに説明はいるでしょうか。
水平線に夕日が沈む美しさとさみしさに意味はあるでしょうか。

あの星は三等星で、あそこが何座で、とか、「やっぱりハワイのサンセットはきれいだね」とか説明はいらないでしょ。

誰がなんと言おうと、すごいと思ったもんはすごいし、きれいなもんはきれいだし、くだらねぇもんはくだらない。


すごいものに説明はいらない。

だってすごいんだもん。


だから世界からの福音についても説明はいりません。
ですが、社会が複雑化しているので、福音に気付く道すじが見えにくくなっています。

ちなみに「福音」とは、根源的未規定性のすごさ、なぜかわからないけどなんだかすごいというもの、魂を撃ち抜かれるような感覚、などなどいろいろ言い回しはありますけど、「天からの啓示」みたいな感じです。


社会が複雑化したので、社会の外部から訪れるはずの「福音」になかなか到達しづらくなってしまいました。
福音が降りてくるチャンスを失った。
みんな仕事や勉強で忙しいんです。

「福音」が降りてこないとどうなるか。

それは、社会の向こうにある世界(ありとあらゆるものすべて)のすごさがわからなくなります。

すると社会を生きる気力も失う。
社会は輝きを失います。


そのためには、社会を論理的に読み解き、世界への道すじを照らす必要があります。


映画もももクロも似ているのはそういうところで、見て「すごい」でいいんですけど、複雑化していてすごさに気づきにくい点もあります。

なので建設的に説明することで、複雑だったものが見えやすくなります。
「福音」が降りやすくなる。


基本的に僕は、論理も社会も根本的なところで全然信じていません。
どうなったっていいし破壊されて欲しいし、こんなクソ社会なんかすでに終わってます。

だとしても世界は素晴らしい。
世界は輝きを失いません。


社会が悪くなると人が輝く。

このクソ社会だからこそ人が輝きます。
この複雑で腐った社会がボロボロと崩れているのを説明的に露呈させることで、人は輝きを取り戻し、福音へと近づけます。



結局長くなりました。

ちょっとまとめましょうか。


1、論理的になる理由は論理的に説明できない
2、社会や自分を疑うためには論理的になる必要がある
3、複雑化した社会を論理的に読み解き、世界から訪れる福音を待て



「世界は言葉でできている」なんて腐ったことほざいてんじゃねぇぜ。
言葉や思考の無い世界へと突き進め。


と言葉を使って説明しなきゃならない不幸についてのお話でした。

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テーマ: 哲学/倫理学 - ジャンル: 学問・文化・芸術

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この記事に対するコメント

私は論理的に考える、とは少し違うかもしれませんが、「言葉」には人一倍気を使ってます。

なぜこの物語にこんな感動したのか。
この人の魅力はなんなのか。
この発言に対する不快感は何か。

この「なぜ」「なに」という部分を言葉にしたい性分です。自分自身その事柄に納得したいというのもありますし、人に伝えるにはやはり言葉が大事です。コミュニケーション力が大事と叫ばれる昨今でも、まずは言葉でしょう。

しかし、色んな言葉と向かい合えば向かい合うほど、言葉なんてちっぽけなもんだということも見えてきました。
上手く言葉に出来ない、と言う人の気持ちを察するには、表面上の言葉だけで汲み取ろうとしても不可能です。
「こいつはなんでこんなに上手くしゃべれないんだ。もっと勉強しろよ」と、見下す目線になってしまいます。

自分の考えや気持ちは上手く言葉に乗せて伝える。それが出来ない第三者の気持ちは、「言葉」に捉われ過ぎず内面をわかってあげられる共感の姿勢を。この『共感の姿勢』というのはつまり相手のことをどれだけ受け止めて、わかってあげられるかという器の大きさ、という意味合いで使いました。


矛盾していますが、この言葉の
重要性と言葉以外から読み取ることの重要性については、今でも自分の中で上手く考えがまとまっていません。

支離滅裂な文章になってしまいましたが、言葉ばかり見つめてきたからこそ気付いた言葉以外の魅力に迫っている今日この頃、というわけです。




さて、話は大きく変わるのですが、主様は2chはよくご利用になりますか。私は書店にある本しか読まなかったんですが、最近発見した2chで一般人が投稿している物語があまりに秀逸だと感動したので紹介したいと思います。

①「ねぇ、アドレス教えて」
②風俗行ったら人生変わった

好き嫌いは人それぞれで好みに合わないかもしれませんが、個人的に気に入った作品です。
もし時間がある時に気が向いたらら覗いてみて下さい。

URL | アロエ #-

2012/06/07 01:23 * 編集 *

アロエさんへ

アロエさんへ

コメントありがとうございます!


> この「なぜ」「なに」という部分を言葉にしたい性分です。自分自身その事柄に納得したいというのもありますし、人に伝えるにはやはり言葉が大事です。コミュニケーション力が大事と叫ばれる昨今でも、まずは言葉でしょう。


「なぜ」「なに」と感じるのは言葉の前の段階ですので、ここはかなり重要ですね。
それを理解可能な状態に(言語化)することでコミュニケーションも可能になります。

僕の場合は「なぜ」「なに」を重要視するタイプ、ということですね。


> 自分の考えや気持ちは上手く言葉に乗せて伝える。それが出来ない第三者の気持ちは、「言葉」に捉われ過ぎず内面をわかってあげられる共感の姿勢を。この『共感の姿勢』というのはつまり相手のことをどれだけ受け止めて、わかってあげられるかという器の大きさ、という意味合いで使いました。


僕はまず「言葉を使ってる以上はわかりあえない」という前提でコミュニケーションを始めている気がします。
よくある哲学的命題(赤は本当に「赤」か、というような)が根本的にあるので、たとえ語彙が豊富で同じ単語を指しているとしても、前提が違う以上は同じ意味にならないと思っています。

なので「言葉にとらわれない」というのはとても大事な姿勢ですね。


> 支離滅裂な文章になってしまいましたが、言葉ばかり見つめてきたからこそ気付いた言葉以外の魅力に迫っている今日この頃、というわけです。


言語に頼っていると言語の枠内でしか思考できません。
でも素晴らしいものというのは言語の外に存在します。
こういうのを「超越論」というらしいのですが、「神」がわかりやすいと思います。
神が宇宙の内部にいると、宇宙そのものをつくることはできませんので、神は宇宙よりも外にいます。
でも宇宙の外なんて存在しません。

言語も似ていて、言語で思考しているうちは言語の外に出られない。
でもこういうことを言うことで、言語の外へのほんのわずかな道すじが見えれば儲けもんです。



> さて、話は大きく変わるのですが、主様は2chはよくご利用になりますか。私は書店にある本しか読まなかったんですが、最近発見した2chで一般人が投稿している物語があまりに秀逸だと感動したので紹介したいと思います。
>
> ①「ねぇ、アドレス教えて」
> ②風俗行ったら人生変わった


2ちゃんのまとめは結構見ます。
検索してみましたが、あまりの長さに流し読みしてしまいました。
この手の話って病気で死ぬ女性がいっぱい出てきますね(笑)。

アロエさんは乙一読みますか?
ストーリーも読ませるし、小説の雰囲気というか言葉の選び方が良いので好きです。
読んだことなければぜひ。
『ZOO』は短編だけど重いかも。
『失はれる物語』はわりと読みやすいかも知れません。
機会があればぜひ。

URL | さかもと #-

2012/06/07 04:20 * 編集 *

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