実存浮遊
映画やアイドルなどの文化評論。良い社会になるために必要な事を模索し書き続けます。
2013.12.20 Fri. 04:28 :edit
「悪」のたしなみ ドラマ『クロコーチ』『リーガルハイ』『安堂ロイド』
この秋は珍しくテレビドラマを多く見ました。
『あまちゃん』からの流れで『ごちそうさん』も見続けているし、『ノーコン・キッド 僕らのゲーム史』もいよいよ最終回を迎えます。
今回はブログタイトルに挙げた3作品について思ったことを書きます。
ネタバレしか無いのでご了承の上お読みくださいませ。
● 『安堂ロイド』の哲学的苦悩の無さ
『安堂ロイド』ですが世間ではこき下ろされてますが、僕はそこまで嫌いじゃないです。
そもそも恋愛ものが好きじゃないのでそのあたりはつまらなかったですが、SFものとしてはそこそこ楽しめました。
「そこそこ」というのはこのドラマを見て思考を巡らすのが楽しく、哲学性を刺激してくれた、という点で楽しかった、ということです。
ドラマ自体はかなり残念でした。ラストがね。
このドラマは1話目でいきなりキムタク演じる沫嶋黎士教授がアンドロイドに殺されます。
だが彼はどうやら自分の死を計算で予測していたらしく対策を講じていたようでした。
というのも、彼のフィアンセである柴咲コウ演じる安堂麻陽も暗殺されるらしく、それを守るためにあえて死を選んだような描かれ方をしていました。
なので視聴者は1話目のこの謎を知るために見続けるわけですね。
それなのにラストでも謎は謎のままでした。
彼の遺志がどのようにして100年後のアンドロイドを2013年に送り込めたのかがよくわかりません。
もし描かれていたとしたらおそろしく僕の読解力が無かったということでしょう。
そして僕がかなり落胆したのは安堂ロイドとの別れと松嶋零士の復活です。
安堂麻陽はネット対戦の将棋で1,000勝以上し、しかも無敗という驚異的な頭脳の持ち主です。
初めて負けた相手が松嶋零士だった、ということで出会いが始まるわけですが、この1,000勝無敗というのはA級棋士レベルと言って良いでしょう。
いくらネット対戦で素人とは言え、1,000戦もして一度も負けないというのは凄まじい棋力です。
そんな大天才の彼女ですが、ドラマではとても馬鹿に描かれています。
世間知らずというのか、理解力に乏しいというのか、危機感が無く彼女のせいで安堂ロイドが危機に陥ることも何度かあったと思います。
でもなぜ彼女が馬鹿っぽく描かれていたかと言うと、松嶋零士の復活法に理由がありました。
彼は安堂ロイドの記憶プログラムを消去し、松嶋零士の記憶をインストールすることで復活しようとしていたのです。
つまり、身体はユカワOSを搭載したロボットで、記憶だけが松嶋零士ということです。
それを見て安堂麻陽は「目の前からロイドがいなくなり、松嶋零士が生き返った」と思い込めます。
すごくないですか?
肉体も魂も存在しない物体だが見た目と記憶が松嶋零士ならそれでいいんだ、と思い込めているということです。
哲学性なんかどっか行っちゃいましたね。
普通の哲学性を持っていれば、見た目も記憶も松嶋零士だが、これは松嶋零士ではない、と苦悩するはずで、そこを乗り越えることが愛(自己愛かも知れませんが)だとして描けると思うのです。
例えば安堂ロイドはストーリーを追うごとに味覚があったり体温があったり記憶があったりして、ついに感情がありプログラムではなく自らの意思で安堂麻陽を守ることを決意します。
つまり機械であるにも関わらず魂を持っているかのように振る舞う。
ここで「安堂ロイドと我々人間の差異はどこにあるのか」などと哲学的に苦悩できます。
それなのにこのドラマと来たら。
かなりおもしろい題材なのにストーリー展開とキャラクターの思考がヘボかったですね。
おそらく細かいギミックというのか、五次元プリンターとかアスラOSとか、そういうSF的なアイテムに特化しちゃった感じです。
タイムパラドクスとか入れたらすごいおもしろいはずなのに、多重人格とかどうでもいいこと入れちゃいましたからね。
まぁ本田翼がかわいかったからいいんですけどね。
● 『クロコーチ』の薄い悪について
『クロコーチ』は3億円事件を題材にしており、モンタージュの男と呼ばれた犯人は実は警察関係者の息子だった、という設定でした。
僕は常々思ってるんですけど「この物語はフィクションです」っていうあれいらなくないですか?
芸能人が演じてる時点でフィクションに決まってんだろ!それとも何か?全部隠しカメラで撮影してるってのか?本人だけが出ていて、それを放送する社会だとでも思ってんのか?馬鹿か!
『クロコーチ』は「このドラマは一つの仮説である」と書かれているのが好印象でした。
結論から言うと、このドラマは不完全燃焼です。
浦沢直樹の漫画『MONSTER』と比較すると大変わかりやすいと思います。
黒河内刑事は悪に手を染めることで悪をあばいていきます。
それは後に3億円事件を追っていた恋人を殺されてしまった事への復讐だとわかります。
利用できるものはなんでも利用する、という悪徳刑事。
それが警察内の巨悪をあばく、という内容です。
でもこのオチはなんなんでしょうね。
結局黒河内刑事は何も明らかにできませんでした。
巨悪は巨悪のまま闇に葬られてしまいます。
悪を消すためには自分がさらに悪にならなければならない。
このことを描いたのは『MONSTER』です。
以下この漫画のネタバレになりますので未読の方は読まないでください。
『MONSTER』にはヨハンとアンナというキャラクターが登場します。
ヨハンは頭脳明晰でカリスマ性があり人を殺すことにも躊躇しない絶対悪のような描かれ方をしています。
だが実は、幼少期にヒトラーのようなカリスマを作ろうという組織に洗脳のような教育をされたのは妹のアンナの方でした。
ヨハンはアンナを救うためにアンナへ施された悪の教育を自分に移したのです。
そうすることでアンナは普通の学生生活を送ることができ、ヨハンは悪に突き進みました。
一方『クロコーチ』では、黒河内は桜吹雪会以上の悪にはなり切れませんでした。
恋人の敵に桜吹雪会のトップを引きずり下ろした程度で、より大きな巨悪には立ち向かえなかった。
結局3億円事件は謎のままでした。
個人的には黒河内刑事が桜吹雪会のトップになることで壊滅させる、というような展開が良かった気がします。
3億円事件の仮説なんだから好き勝手展開していけばいいのに。
まぁ芦名星さんと剛力彩芽ちゃんのキスシーンが見れたからいいか。
● 『リーガルハイ』の世界観
一方『リーガルハイ』は素晴らしかったです。
古美門が羽生に放つセリフに集約されている。
「醜さを愛せ」
岡田将生が演じる羽生という人物は「みんなが幸福になれる道を目指す」「Win×Winの関係を目指す」という思想を持ちます。
だがそこに薄ら寒さを感じるのは(薄ら寒く演出されているのは)、古美門が指摘するように羽生自身が上位に居続けようとしているからです。
人は人が作った世界に拒否反応を示す。
「なんでお前が」という感覚が強いからです。
『クロコーチ』の黒河内刑事が悪になり切れずに結局悪をあばけなかったのに対し、『リーガルハイ』の古美門は徹底して欲望に忠実になり勝利を目指すことで関係性を安定させます。
小雪演じる毒婦の裁判ではあくまで殺していないという事実があったからこそ真実を明るみにして羽生に勝つことができました。
なので物語の構成上は古美門と黛が勝たなければならなかったのです。
死刑廃止論者の道具に利用するのではなく、冤罪は必ず避ける。そのために真実と向き合う、という姿勢が一貫しているので古美門はヒーローであり羽生はヒールなのです。
醜いもの、ダメなものを排除することで平和な社会を目指すのではなく、醜いものもダメなものも含めての社会であるという大前提に立たなければならない。
そして目指すべきはその場しのぎの「Win×Win」ではなく、「長期的・時間差的なWin×Win」です。
勝者と敗者が永遠に固定されるのではなく、今回の勝者は次回の敗者となり、敗者だった者が勝者になれる社会。
その入れ替わりで社会を成立させる。
みんなが均等に薄く広く勝ち続けるなど不可能なのです。
最大多数の最大幸福はこの一瞬ではなく、遥か先の未来までも含めて考えねばならず、そもそも人間ごときが100年以上先のことを考えて行動などできるはずもない。
なので羽生的な振る舞いではなく古美門的な振る舞いが必要となってくるのです。
醜さの排除ではなく醜さをも許容する社会を。
『あまちゃん』からの流れで『ごちそうさん』も見続けているし、『ノーコン・キッド 僕らのゲーム史』もいよいよ最終回を迎えます。
今回はブログタイトルに挙げた3作品について思ったことを書きます。
ネタバレしか無いのでご了承の上お読みくださいませ。
● 『安堂ロイド』の哲学的苦悩の無さ
『安堂ロイド』ですが世間ではこき下ろされてますが、僕はそこまで嫌いじゃないです。
そもそも恋愛ものが好きじゃないのでそのあたりはつまらなかったですが、SFものとしてはそこそこ楽しめました。
「そこそこ」というのはこのドラマを見て思考を巡らすのが楽しく、哲学性を刺激してくれた、という点で楽しかった、ということです。
ドラマ自体はかなり残念でした。ラストがね。
このドラマは1話目でいきなりキムタク演じる沫嶋黎士教授がアンドロイドに殺されます。
だが彼はどうやら自分の死を計算で予測していたらしく対策を講じていたようでした。
というのも、彼のフィアンセである柴咲コウ演じる安堂麻陽も暗殺されるらしく、それを守るためにあえて死を選んだような描かれ方をしていました。
なので視聴者は1話目のこの謎を知るために見続けるわけですね。
それなのにラストでも謎は謎のままでした。
彼の遺志がどのようにして100年後のアンドロイドを2013年に送り込めたのかがよくわかりません。
もし描かれていたとしたらおそろしく僕の読解力が無かったということでしょう。
そして僕がかなり落胆したのは安堂ロイドとの別れと松嶋零士の復活です。
安堂麻陽はネット対戦の将棋で1,000勝以上し、しかも無敗という驚異的な頭脳の持ち主です。
初めて負けた相手が松嶋零士だった、ということで出会いが始まるわけですが、この1,000勝無敗というのはA級棋士レベルと言って良いでしょう。
いくらネット対戦で素人とは言え、1,000戦もして一度も負けないというのは凄まじい棋力です。
そんな大天才の彼女ですが、ドラマではとても馬鹿に描かれています。
世間知らずというのか、理解力に乏しいというのか、危機感が無く彼女のせいで安堂ロイドが危機に陥ることも何度かあったと思います。
でもなぜ彼女が馬鹿っぽく描かれていたかと言うと、松嶋零士の復活法に理由がありました。
彼は安堂ロイドの記憶プログラムを消去し、松嶋零士の記憶をインストールすることで復活しようとしていたのです。
つまり、身体はユカワOSを搭載したロボットで、記憶だけが松嶋零士ということです。
それを見て安堂麻陽は「目の前からロイドがいなくなり、松嶋零士が生き返った」と思い込めます。
すごくないですか?
肉体も魂も存在しない物体だが見た目と記憶が松嶋零士ならそれでいいんだ、と思い込めているということです。
哲学性なんかどっか行っちゃいましたね。
普通の哲学性を持っていれば、見た目も記憶も松嶋零士だが、これは松嶋零士ではない、と苦悩するはずで、そこを乗り越えることが愛(自己愛かも知れませんが)だとして描けると思うのです。
例えば安堂ロイドはストーリーを追うごとに味覚があったり体温があったり記憶があったりして、ついに感情がありプログラムではなく自らの意思で安堂麻陽を守ることを決意します。
つまり機械であるにも関わらず魂を持っているかのように振る舞う。
ここで「安堂ロイドと我々人間の差異はどこにあるのか」などと哲学的に苦悩できます。
それなのにこのドラマと来たら。
かなりおもしろい題材なのにストーリー展開とキャラクターの思考がヘボかったですね。
おそらく細かいギミックというのか、五次元プリンターとかアスラOSとか、そういうSF的なアイテムに特化しちゃった感じです。
タイムパラドクスとか入れたらすごいおもしろいはずなのに、多重人格とかどうでもいいこと入れちゃいましたからね。
まぁ本田翼がかわいかったからいいんですけどね。
● 『クロコーチ』の薄い悪について
『クロコーチ』は3億円事件を題材にしており、モンタージュの男と呼ばれた犯人は実は警察関係者の息子だった、という設定でした。
僕は常々思ってるんですけど「この物語はフィクションです」っていうあれいらなくないですか?
芸能人が演じてる時点でフィクションに決まってんだろ!それとも何か?全部隠しカメラで撮影してるってのか?本人だけが出ていて、それを放送する社会だとでも思ってんのか?馬鹿か!
『クロコーチ』は「このドラマは一つの仮説である」と書かれているのが好印象でした。
結論から言うと、このドラマは不完全燃焼です。
浦沢直樹の漫画『MONSTER』と比較すると大変わかりやすいと思います。
黒河内刑事は悪に手を染めることで悪をあばいていきます。
それは後に3億円事件を追っていた恋人を殺されてしまった事への復讐だとわかります。
利用できるものはなんでも利用する、という悪徳刑事。
それが警察内の巨悪をあばく、という内容です。
でもこのオチはなんなんでしょうね。
結局黒河内刑事は何も明らかにできませんでした。
巨悪は巨悪のまま闇に葬られてしまいます。
悪を消すためには自分がさらに悪にならなければならない。
このことを描いたのは『MONSTER』です。
以下この漫画のネタバレになりますので未読の方は読まないでください。
『MONSTER』にはヨハンとアンナというキャラクターが登場します。
ヨハンは頭脳明晰でカリスマ性があり人を殺すことにも躊躇しない絶対悪のような描かれ方をしています。
だが実は、幼少期にヒトラーのようなカリスマを作ろうという組織に洗脳のような教育をされたのは妹のアンナの方でした。
ヨハンはアンナを救うためにアンナへ施された悪の教育を自分に移したのです。
そうすることでアンナは普通の学生生活を送ることができ、ヨハンは悪に突き進みました。
一方『クロコーチ』では、黒河内は桜吹雪会以上の悪にはなり切れませんでした。
恋人の敵に桜吹雪会のトップを引きずり下ろした程度で、より大きな巨悪には立ち向かえなかった。
結局3億円事件は謎のままでした。
個人的には黒河内刑事が桜吹雪会のトップになることで壊滅させる、というような展開が良かった気がします。
3億円事件の仮説なんだから好き勝手展開していけばいいのに。
まぁ芦名星さんと剛力彩芽ちゃんのキスシーンが見れたからいいか。
● 『リーガルハイ』の世界観
一方『リーガルハイ』は素晴らしかったです。
古美門が羽生に放つセリフに集約されている。
「醜さを愛せ」
岡田将生が演じる羽生という人物は「みんなが幸福になれる道を目指す」「Win×Winの関係を目指す」という思想を持ちます。
だがそこに薄ら寒さを感じるのは(薄ら寒く演出されているのは)、古美門が指摘するように羽生自身が上位に居続けようとしているからです。
人は人が作った世界に拒否反応を示す。
「なんでお前が」という感覚が強いからです。
『クロコーチ』の黒河内刑事が悪になり切れずに結局悪をあばけなかったのに対し、『リーガルハイ』の古美門は徹底して欲望に忠実になり勝利を目指すことで関係性を安定させます。
小雪演じる毒婦の裁判ではあくまで殺していないという事実があったからこそ真実を明るみにして羽生に勝つことができました。
なので物語の構成上は古美門と黛が勝たなければならなかったのです。
死刑廃止論者の道具に利用するのではなく、冤罪は必ず避ける。そのために真実と向き合う、という姿勢が一貫しているので古美門はヒーローであり羽生はヒールなのです。
醜いもの、ダメなものを排除することで平和な社会を目指すのではなく、醜いものもダメなものも含めての社会であるという大前提に立たなければならない。
そして目指すべきはその場しのぎの「Win×Win」ではなく、「長期的・時間差的なWin×Win」です。
勝者と敗者が永遠に固定されるのではなく、今回の勝者は次回の敗者となり、敗者だった者が勝者になれる社会。
その入れ替わりで社会を成立させる。
みんなが均等に薄く広く勝ち続けるなど不可能なのです。
最大多数の最大幸福はこの一瞬ではなく、遥か先の未来までも含めて考えねばならず、そもそも人間ごときが100年以上先のことを考えて行動などできるはずもない。
なので羽生的な振る舞いではなく古美門的な振る舞いが必要となってくるのです。
醜さの排除ではなく醜さをも許容する社会を。
スポンサーサイト
« 12/20のツイートまとめ
12/19のツイートまとめ »
トラックバック
| h o m e |