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実存浮遊

映画やアイドルなどの文化評論。良い社会になるために必要な事を模索し書き続けます。

殺し屋少女が正義を埋め込む 【キック・アス2】 

『キック・アス/ジャスティス・フォーエバー』を鑑賞しました。
前作の『キック・アス』でヒット・ガールを努めたクロエちゃんがあまりにもかわいく、ぜひ続編も見ようと思っていたのでした。

以下、『キック・アス/ジャスティス・フォーエバー』や『ダークナイト』『ダークナイトライジング』のネタバレを含むので了承の上お読みくださいませ。




■ 『キック・アス2』はありえたかもしれない『ダークナイトライジング』だったのかも


『キック・アス/ジャスティス・フォーエバー』(以下キック・アス2)はあからさまにクリストファー・ノーラン版のバットマンである『ダークナイト』と『ダークナイトライジング』を意識して作られていました。

キック・アスの友人は「オペラの帰りに両親を殺されヒーローを志した」という設定でジャスティスフォーエバーに加入したバットマンの真似をしているマニアだ。

また、キック・アス、ヒット・ガール、マザー・ファッカー(前作ではレッド・ミスト)は『ダークナイト』のハービー・デント(トゥーフェイス)、バットマン、ジョーカーと対の構造になっているのではないでしょうか。

キック・アス、ヒット・ガール、マザー・ファッカーの3人はそれぞれ父親を殺されているという共通点があります。
前作で父親を殺されたレッド・ミストはキック・アスに恨みを抱き、母親の死をきっかけに極悪人を目指しマザー・ファッカーへと名前を変えます。

ヒット・ガールは父親を殺されて普通の学校生活を送るように保護者に言われる。

キック・アスは父親の忠告を守らなかった事が要因となって結果的に父親を殺されてしまう。

『ダークナイトライジング』で善から悪に身を投じたベインと、『キック・アス2』でギャング側からジャスティス・フォーエバーに転じたストライプス大佐(ジム・キャリー)は対称を描いているのではないでしょうか。


『ダークナイト』のハービー・デントはホワイトナイトとして市民に愛され正義を貫いてきた。
だがその強烈に悪を憎む姿勢が自らを悪に染めてしまう。

一方キック・アスは単純で、大勢でリンチしている奴らが悪いと決めて行動したり(前作)、ヒット・ガールをけなすような奴らが悪いとしてアドバイスをする。

ハービー・デントとキック・アスはイケてるかイケてないか、の違いがある気がします。
デントは市民に愛され、デイブは学校でも友達が少なくイケてない。

恋人を失い顔を半分失ったデントは悪に染まりトゥーフェイスになりました。
デイブは痛覚を失い親を失ったけどマザー・ファッカー側に付くことは無かった。

それはやはりバットマンとヒット・ガールの違いにも思えてきます。


バットマンはダークナイト(闇の騎士)として社会を平和にしようとします。
デントは悪に染まったが、それを世間に知らせずに自らが悪である事にしてデントはいつまでも市民の心の中で光の騎士のままで存在し続けるように仕向ける。

ヒット・ガールは振る舞いは極悪だけど、中身は男性アイドルに胸がときめくような女の子です。

そのヒット・ガールを尊敬し、同志と慕うキック・アスが悪に染まらないのは必然かも知れません。
単純に図式化すると、レッド・ミストは父親を殺された時に周りに仲間はおらず、キック・アスは父親を殺された時にヒット・ガールを始め多くの仲間が集まりました。

つまり『キック・アス2』はさまざまな人種が集まり善の道を歩むことを推奨した作品とも読み取れるのです。


■ 共同体 共生 正義


ここで「共同性」と「共生」についての違いを考えていきましょう。

共同性やコミュニティというのは同じ生き方をしていくようなものです。
例えば「村」。
同じ場所で互いに争わずに外敵を排除しつつ「村」を存続していく。

共生というのは共に生きていくのは同じですが、違いを認めて侵害し合わないで行く、というニュアンスがあります。

共同体というのは異端者を嫌います。
同じ行動や思考をしない人は共同体を壊す原因になりうるということで排除の対称になる。
例えば、バレーボール部の中にバスケット選手がいたらどうでしょう。
バレーの練習をしている中にボールをつかんでバスケットゴールにシュートしようとする人がいるのです。
これではバレーボール部は存続できません。

では共生はどうか。
共生は、バレーをしたい者たちとバスケットボールをしたい者たちが共に生きていく場所です。
一緒にバレーをやってもいいし、バスケットをやってもいい。やらなくてもいい。
ただ彼がバレー好きであることや、彼女がバスケット好きであることを認める。
自分がバレー好きだからってバスケット好きの者を非難したりしません。


なぜこのような事を書いたのかと言うと、『キック・アス2』ではこの「共生」が正義には必要なのだと描かれているからです。


『キック・アス2』では前作からの流れでヒーローを真似た格好をする人たちが自然に街中にいるという状況になっています。
ジャスティス・フォーエバーというチームはメンバーが過去に辛い体験をしています。
悪を撲滅するという想いで結成されています。

同じチームだからと言って全員が同じ格好をしているわけではなく、みんな好きな格好をしています。
これはおそらくアメリカといういろいろな人種が集まってできている国を象徴しているのだと思います。

いろんな人種、年代、思考、性癖などなど、な人たちが「正義」の名のもとに集結する。
そしてこれは絶対じゃありません。
売春業者に踏み込む時はデートで来られない夫婦もいました。
「正義だから絶対にこのルールに従わなければならない」というのは「共同体」ですから、各々の意思に任せるという「共生」こそが正義への道であると描かれているのです。


ここで問題になってくるのが「正義とは何か」です。

ヒット・ガールが掲げる正義はわかりやすく、悪い奴が悪でそれをこらしめるために正義が存在する、というものです。
『ダークナイト』のように自己の存在意義について悩む事もありません。
悪を懲らしめるための暴力は正義なのです。
これもかなりアメリカ的と言えるでしょう。

アメリカは大量破壊兵器が存在するという一点で戦争を仕掛けます。
本当にあるかどうかは問題ではなく、アメリカこそが正義を実行できると信じているのです。

ここまでアメリカ臭い映画であるにも関わらずさほど嫌悪感を抱かずに見られるのも、中心にクロエちゃんが存在するからだろう。

ここまで長々と書いてきましたが、キック・アスがなぜヒット・ガールを崇拝するのか、なぜこの映画がおもしろいのかは、「クロエちゃんがかっこいいから」以上の解答など存在しないのです。

時には少女のように。時には百戦錬磨の殺し屋のように。
自在に表情を変えて汚いワードを撒き散らし、多くの観客を魅了するクロエ・グレース・モレッツ。

『キック・アス2』では彼女が大人になるための通過儀礼も描かれているので、最後にそのことについて触れたい。



■ ヒット・ガールに「学校化」を埋め込めるのか


前作はヒット・ガールの異常性が際立ち『キック・アス』のおもしろさを極限まで引き出していました。
今作はクロエちゃんが成長していて、あの時のような異常性(幼女が人を殺しまくる)という魅力が損なわれているのではないか、という危惧がありました。

確かにその部分は前作で描ききっており、今作ではなかったのですが、その代わりに「通過儀礼ものの反転」が描かれており、そこも『キック・アス2』の魅力となっていました。

おそらく今作はクロエちゃんが主演した『キャリー』のパロディとなっているのだと思います。
(つまり『キック・アス2』は『ダークナイト』や『キャリー』のパクリ映画であり、おもしろくパクる事で新たな魅力を生み出している作品と言えるでしょう。これはももクロ、『あまちゃん』、マキシマムザホルモンなどの「偽物が本物を凌駕する」という構図です。これについてもいずれ書きます。いずれね。いずれ)


通過儀礼ものというのは3つのパートに分かれます。
「離陸混乱着陸」です。

つまらない日常がありそこから抜け出し非日常体験をして自分の存在を疑い再びつまらなかった日常に戻ってくるが変化した自分には日常がまぶしく見える、という流れです。

通過儀礼ものにはアイテムが付き物で、『グーニーズ』で言えば主人公が持つぜんそくの薬ですし、『スーパー8』で言えばペンダントです。
これらを失う事で大人になったのだということが映像として描かれます。

では『キック・アス2』はどうか。
この作品は先ほど書いたように『ダークナイト』へのアンチテーゼという部分でもわかるように、すべてが逆。

人殺しの世界で父親を失うという壮絶な体験をし、警察官に引き取られ学校生活で女子生徒のしきたりや男子とのデートなどでときめくというありきたりな日常を体験し再び悪を倒すスーパーヒーローの世界に舞い戻ってくる。

つまり、非日常から日常に行き自己の存在を強固にして非日常に戻ります。

学校生活というヒット・ガールにとっての非日常(我々にとっての日常)ではデートで騙されるという仕打ちを受けます。
『キャリー』的であればここで騙した全員をぶん殴って終わりなんでしょうけど、学校的日常に染まっている彼女はキック・アスに相談します。

「明日どんな顔で学校に行けばいいの」という弱々しさに彼女が学校的日常に重きを置いていることが描かれ、我々観客は悲しい気持ちになります。
君は学校の奴らとは違ってスゲェ奴なんだよ!と。

その後彼女は自分がヒット・ガールであることを強烈に自覚します。
つまり通過儀礼で言うと着陸です。
これは幼女姿のクロエちゃんでは描けないことです。
大人になる段階にいる今だからこそ描けたものです。

前作では最後に彼女は「私はミンディ・マグレディ」と名乗って終わります。
今作は「私はヒット・ガール」として物語を終える。
この辺も対の構造となっています。


『キック・アス2』はヒット・ガールがミンディとなって学校生活を送り、再びヒット・ガールとして自己を確立する物語です。
なぜなら学校的日常では正義を実行できないからで、これは我々が住む社会でも問題になっている事でもあります。

「学校化」は必要無いのです。

社会学的に言うと、我々が社会生活を営めるのは社会化させられたからです。
社会ではこのように振る舞う、ということを洗脳されたわけです。

では「学校化」とは何か。
読んで字のごとく学校的振る舞いを埋め込まれる事です。

『キック・アス2』に強調されていますが、学校というのがとてもくだらなく描かれています。
正義の心を持つキック・アスやヒット・ガールがとても窮屈に生活する場です。
下らないランク付けで上下関係が決まったり、周りと違うというだけでけなされる。
こんな場所にいてどうやって正義の心が育つというのでしょうか。

この映画ではこんな場所にゲロと糞を撒き散らして崩壊させます。
学校なんて糞で、正義のもとに共生することこそが素晴らしいのだ、と。

ヒット・ガールに学校化は埋め込めませんでした。
彼女には父親から受け継いだ強烈な正義の意志が存在するからです。
その意志をくちづけでキック・アスに伝達し、彼女は街を去ります。


『ダークナイトライジング』ではバットマンは核爆発とともにこの世から去る事を選び、そうすることで正義が伝承されていくことを望みました。
(ザ・バットの自動操縦で脱出し生き延びているのだ、というのが正しいようです。参照:完全ネタバレ解説!『ダークナイト ライジング』ラストシーンの真相。ですが僕は頑固に死んだ説を唱え続けます)

『キック・アス2』ではヒット・ガールは生きたまま街を去る。
キック・アス達に正義の意志を伝承して。


正義の意志というのは学校化された生活では伝承できないのです。
なぜなら正義とは誰かにあーしろこーしろと言われて実行するものではないからです。

ヒット・ガールは父親の傀儡として振る舞ってきましたが、父親の死から学校的日常を体験したあとで、自分がヒット・ガールでしかない事を悟ります。自分こそがヒット・ガールである、と。

彼女はこの戦いで何も得をしません。
ただ悪が許せないから行動しただけです。
そうしたら多くの仲間ができ、悪を倒せました。

この映画は我々にとても大事なことを教えてくれる。

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テーマ: 洋画 - ジャンル: 映画

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