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実存浮遊

映画やアイドルなどの文化評論。良い社会になるために必要な事を模索し書き続けます。

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映画『くちびるに歌を』は世界の美しさを奏でる 



映画『くちびるに歌を』を鑑賞しました。
素晴らしい映画でした。

以下ネタバレを含む感想となります。


長崎の中学生合唱部と、新たに合唱部の顧問となった元ピアニストの心のつながりを、アンジェラ・アキの『手紙』をテーマに描いた作品です。


■ 方言という共同性

『スウィングガールズ』でも方言が使われていました。
方言は「仲間」の映画表現です。
『スウィングガールズ』では女子高生たちが見た目で全員バラバラなため、方言という仲間言語を使う必要がありました。
もしあれが標準語を話す女の子たちだったとしたら、一致団結とはまた違った見え方になってしまったはずです。

『くちびるに歌を』では、あらたに赴任してきた元ピアニストの女教師が終盤までずっと標準語でいることで、生徒たちと女教師との隔絶をわかりやすく説明しています。


■ 『手紙』に記されている郵便的誤配

東浩紀が『存在論的、郵便的』で「コミュニケーションとは郵便的である」と書いたそうです。未読なので情報のみですが。
コミュニケーションは郵便と同じように誤配や遅配がありえる、と。
向けた人に遅れて届いたり、向けた人とは全然違う人に届いたりする。さらには宛先不明で再び自分に戻ってくる場合もあります。

アンジェラ・アキの『手紙』は15歳の自分が30歳の自分に向けて手紙を出し、それを読んだ30歳の自分が15歳の自分に希望を示す内容です。
映画ではまず主人公の女の子がピアノを弾かない女教師の心を動かします。
そして女教師から大事な時にこそ自分に向き合い逃げない事を諭されます。

女教師はピアノの発表会の当日にフィアンセを事故で亡くし、それを直前に知ったことでピアノが弾けなくなりました。
でも今は親友の出産に届けるために弾きます。

主人公の女の子が記憶も定かではないほど幼い時に聞いた母親の言葉を、自閉症の少年が10年以上の時を経て悩み迷う少女に届けます。

このように、誰かのために発した言葉が遅れて届いたり、ほかの人に届いてしまうことで、未来の誰かを救うこととなるのです。


■ 『くちびるに歌を』のリアルと『幕が上がる』のリアルは別物

『幕が上がる』は素晴らしい映画だと思いますが泣けませんでした。
『くちびるに歌を』は涙が止まりませんでした。

『幕が上がる』は演劇部を描いた映画です。
ももクロが平田オリザのワークショップを受けて演技が変わったことがいろいろな媒体で語られています。
いわゆる「自然な演技」で、演技とも思わせないような言動を取ります。
見ていてももクロであることを忘れるほど自然な振る舞いを彼女たちはします。

一方『くちびるに歌を』は中学生が中学生を演じているのが伝わってきます。
あくまで演技がうまい中学生を集めて中学生演劇部を演じさせた、という感じです。
そしてとても「映画的」な構成をしています。

『幕が上がる』は淡々と時間が過ぎていきますが、『くちびるに歌を』は劇的なことが起こります。
例えばフィアンセが死んだ過去を知らされたり、心臓が弱い元顧問の出産をコンクール発表の直前に知らされたりです。

リアルさで言えば断然『幕が上がる』でしょう。
ですが僕が『幕が上がる』のリアルよりも『くちびるに歌を』の虚構さにこそリアルを感じました。
『幕が上がる』が演技としてリアルなのに対し、『くちびるに歌を』は映画を超えた部分でリアルなのです。

『幕が上がる』はももクロだとは感じさせず、高橋さおり、ユッコ、がるる、中西さん、明美ちゃんがそれぞれ映画の中で生活しています。黒木華さんの素晴らしい演技も大きく手助けしているでしょう。
すごくリアルに見えます。
ですが彼女たちはももクロです。

一方『くちびるに歌を』では映画的な構成で起こる出来事も映画的なので、普段生活している人にはなかなか起こりません。
演技もうまいとは思いますが「演技だな」とわかるものです。
一番大きな理由は新垣結衣の起用でしょう。
彼女がいることで「これは作り物のお話だ」というのがわかるのです。
これは否定でもなんでもなく、見終えたあとで「新垣結衣でなければ成立しなかった。黒木華では絶対に成立しなかった」とさえ思いました。
だからこそ反転して「リアル」だと思ってしまうのです。
映画としての物語よりも、少年少女ががんばっているのが伝わってきます。

そして更に重要なのが「合唱であること」です。
歌は演技ができません。歌が下手な人がプロの歌手の演技をできないように、です。

演出により演技が下手な人を演技が上手な人に見せることは可能でしょう。
(もちろん長時間演技させたら無理が出ますけど)
でも演出により歌が下手な人を歌が上手な人に見せることは不可能です。

ここに「演技の上手いか下手かは判断が難しい」のに対し「歌が上手いのか下手なのかは判断しやすい」という差があります。

言い換えるなら、歌は本人性が乗っかりやすい、となります。
『幕が上がる』はももクロらしさが見えなくなるほどの演技力によって「演技がうまい」と認識しやすく、『くちびるに歌を』は歌に演技が乗っからないことで演技ではなく本人が見えるリアルさに胸を打たれるのです。


■ 「くちびるに歌を持て」

前々項で書いたように『くちびるに歌を』は手紙のように時を経て誰かが受け取ります。

自閉症の青年から今は亡き母親からのメッセージを受け取った少女は、その青年に向けて合唱を送ります。
コンクール会場のロビーで披露されたその合唱は、徐々に他校の生徒を巻き込み、最終的にはその場にいた生徒全員による合唱となりました。
青年に向けたメッセージが、伝えてはいなかった人達にまで広まったのです。
この世界の素晴らしさを象徴しているとても美しい場面です。


前項に書いたように、この映画は演技は演技として見抜けるし、普段の生活では起こらないような起こる上に、とてもわかりやすく物事が進んでいきます。つまり作り物でしかない。
ですが、それ以上に「この世界がいかにすごいのか」を描いているので理由もわからず泣いてしまうのです。
この映画は人間のリアルさを描いてはいないかも知れません。ですがこの世界のリアルを描いているのです。
この世界はこの映画のように、ありえないことがありえ、人間の想像を超えたところで動いている、というのが瞬間的に、肌でわかるようになっています。


「くちびるに歌を持て」
世界の調べは言葉をメロディに乗せて何年後にも残る形で伝承されていくのです。
長崎の方言がメロディとなり、15歳の時と今の自分をつなぐ手紙は、この世界の美しさを伝承するために誤配され続けて行くことでしょう。


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