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実存浮遊

映画やアイドルなどの文化評論。良い社会になるために必要な事を模索し書き続けます。

「パパがも一度恋をした」の哲学的考察 

「パパがも一度恋をした」1巻 阿部潤を読みました。

最愛の妻を亡くしひきこもりニートになった男。
その娘。
ネコみたいな男の父親。
その家族に妻がやってきた。
知らないおじさんの姿となって。


ギャグマンガ。異色の恋愛マンガ。
いろいろジャンル分けが可能でしょうけど、このマンガは深いです。
愛するとはどういうことなのか。
容姿は変わっても魂が一緒ならば愛せるのか。
人を愛する時、我々は何を愛しているんだろうか。

例えば、最愛の人が死に、魂がその辺の小石に乗り移ったとしよう。
自分自身もその小石から「最愛の人らしさ」しか感じられないとしよう。
はたしてその小石を愛せるだろうか。

仕草や発言や雰囲気までもが最愛の人にしか感じられないのであれば、もう愛せずにいられないだろう。
愛とはそんなもんです。

「パパがも一度恋をした」でも主人公の男はおじさんの姿をした妻を愛し始める。


ただこのマンガにはトリックがあって、おじさんの姿で蘇った妻が、自身についてまったく悩んでいないのだ。
自分の姿が全然別物に変容する、という物語を回避している。
マンガとしてぶれぶれになるからだろう。


「パパがも一度恋をした」の「魂と容姿の乖離問題」は、容姿変貌→顔面欠損→部位欠損という段階で議論を進めることができる。
愛する者をどこまで愛せるのか。
愛するとはどの部分を愛しているのか。

このマンガには哲学的問いが含まれている。
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テーマ: 哲学/倫理学 - ジャンル: 学問・文化・芸術

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