実存浮遊
映画やアイドルなどの文化評論。良い社会になるために必要な事を模索し書き続けます。
2010.02.21 Sun. 04:35 :edit
「私の頭の中の消しゴム」と「アバター」から自分とは何者なのかを学ぶ
■ 「私の頭の中の消しゴム」と「アバター」から自分とは何者なのかを学ぶ
映画「私の頭の中の消しゴム」と「アバター」について聞きました。
観てないです。聞いただけです。
観てもいないのに考察をするのが「浮遊する実存と輪廻する初期設定」の真髄です。
以下、二つの映画のネタバレを含むので、ご覧になってない方は了承の上お進みください。
■ 「私の頭の中の消しゴム」から記憶の継続と断絶と消滅について思考し、恋人と他人との境界を探る
聞いた話だと「私の頭の中の消しゴム」とはこんなストーリーです。
彼女がアルツハイマー型痴呆症になる。
献身的な介護をする彼。
徐々に記憶を失っていく彼女。
時々彼のことを思い出すが、思い出す頻度が下がっていく。
彼と昔の元彼とを間違えることもあり、そのことに気付き自責に陥る彼女。
彼を傷付けるのが嫌で彼のもとを離れることを決意する彼女。
記憶を失い療養所で過ごす彼女。
そこを訪ねる彼。
彼は彼女と初めて出会った時のシチュエーションを再現し、彼女を連れて行く。
そして奇跡的に少しだけ記憶を取り戻した彼女は彼と再会する。
■ 記憶の連続性と断絶性 魂の喪失
昨日の自分と今日の自分。
同一であると認めるために必要なものは「記憶」です。
例えば、昨日五体満足だった僕が今日両足を失ったとします。
昨日の僕と今日の僕は同一と言えるでしょうか。
確かに身長はかなり低くなったけども、おそらく同一人物でしょう。
親や友達も、僕を以前の僕と同じ人物として認識しているはずです。
でも「記憶」は違う。
もし昨日の僕の記憶が今日なくなり、代わりに宮台真司の記憶が植え付けられていたとしたら。
見た目は僕なのに思考や発言は宮台真司なのです。
もうそこに僕はいない。
そこに「さかもと性」は存在しません。
「さかもと」の魂は無い。
「私の頭の中の消しゴム」が巧妙なところはここです。
完全に記憶を失っていれば感動しないのに、完全に彼氏と彼女の関係性が切れていないので、記憶が戻った彼女と彼氏の幸福に涙することができる。
構図としては、いなくなった恋人が一時的に戻ってきた、という物語です。
一時的に記憶が戻ってくるという部分で、彼氏が彼女を想う気持ちも、彼女が彼氏を想う気持ちも継続することになります。
これが完全に記憶を失っていたらどうか。
肉体は継続しているのに魂は継続していない。
この残酷な遊離に身もだえすることだろう。
でもそれだと彼氏にしか感情移入できない。
記憶を失うことがないと思い込んでいる我々からすると、「もしかしたら最愛の人が記憶を失うかもしれない」という物語に涙する。
でも「私の頭の中の消しゴム」だと彼氏の側にも立てるし、彼女にも感情移入できる。
だから男女どちらも感動できます。
漫画「キャッツアイ」では記憶を失った瞳に対し、俊夫は初めて出会ったことにし関係を再構築する。
映画「エターナル・サンシャイン」では自ら記憶を消そうとも、何度でも関係を修復し合う意志が描かれている。
一方「私の頭の中の消しゴム」は一度も彼と彼女の関係は切れていない。
魂の喪失が描かれていない。
だから「キャッツアイ」や「エターナル・サンシャイン」並の深さを感じられない。
■ 「アバター」から下らない社会と自己を捨て去り美しい世界と自己を獲得することの怖さを学ぶ
映画「アバター」も「自分」について考えるのに適した題材です。
実際に映画を見たわけじゃないですが。
あらすじはこうです。
ある惑星に高価な物質があることを発見した地球人は、この星を攻めて強奪しようとする。
そのためにこの星の種族になりきり、スパイとして内部から崩壊させようとする。
人間として眠るとアバターとして起きて行動できる。
アバターとして寝ると人間として起きる。
やがてアバターとして惑星の素晴らしさに撃ち抜かれた主人公は地球を捨てることを決意する。
こんな内容らしい。
アバターというのは化身という意味らしいんですけど、本物を捨て去り化身として生きるという物語ですね。
故事「胡蝶の夢」と違うところは、本物が地球で嘘がアバターだと理解しているところです。
映画「マトリックス」に近い。
ザイオンとしてマトリックスシステムにおびえて暮らすよりも、脳に電気信号を送り込まれて幸福だと思い込む生活の方が良い、というサイファが選んだ方と構造が一緒です。
■ アバターが実体を食い破る時
映画「アバター」に描かれている限りでは、現実社会は下らなく、異種族の惑星は美しいから地球なんか無くても良い、という扱いらしいです。
でも美しく素晴らしいものに出会い、その一部になれることに多幸感を得て、今までのすべてを捨て去るなんてことはあり得るんだろうか。
「そうは言ってもやはり我が家が落ち着く」なんてことになりはしまいか。
これが、完全に乖離してたらわかります。
一生人間に戻れず、異種族として生活をしなければならないとか。
人間だった頃の記憶をすべて消されたとか。
アバターとして生活することに決め、人間社会を崩壊させる。
でもそうすると、アバターとして生活してた基盤も無くなる。
これでは本末転倒です。
アバターとして生きて行きたいのならば、人間としての場もしっかり確保しなければならない。
酷薄な社会を捨て、美しい世界に生きる。
でも我々にはあらかじめ社会につなぎ止めるものが植え付けられている。
それは家族であったり地域性であったり友達であったりするんだけど、その洗脳はなかなか解けません。
というか社会を生きるとは洗脳されるということです。
その洗脳を打ち破ってアバターとして生きるということは、よっぽどの脱洗脳があったということです。
果たして美しい景観や愛する異種族の存在ごときで脱洗脳できるのか。
もしかしたらアバターの精度が高過ぎたのかも知れない。
洗脳を解くには新たな洗脳を注入するしかない。
「アバター」の主人公は精度の高いアバター装置により脱洗脳を知らない内にほどこされていた。
今までの社会が嘘で、アバター世界が真実だと思い込ませるのは簡単だということだろう。
新洗脳だとしても洗脳は洗脳。
洗脳が先か後かの違いだけで、どちらの社会も洗脳社会に変わりはありません。
見た目が美しければ良い社会なのか。
どちらの洗脳社会を選ぶか。
「アバター」は難しい問題がはらんでいます。
■ 「自分」はどこにいる?
「私の頭の中の消しゴム」の記憶喪失。
「アバター」の脱洗脳。
このふたつを見る限り「自分」というのは存在しない。
つなぎ止める何かが無いと「自分」というのはいかにも不安定だ。
相手が自分を認めてくれなければ「自分」なんてどこにも存在しない。
この社会がくだらないと思ってしまったら、自分のことを認めてくれる存在にコロリと転がる。
それくらい「自分」は不安定だ。
記憶が無くなっても自分と言えるか。
洗脳が解けて新たな洗脳を施されても自分と言えるか。
自分とは誰か。
自分とは曖昧だ。
認識されて初めて存在する。
映画「私の頭の中の消しゴム」と「アバター」について聞きました。
観てないです。聞いただけです。
観てもいないのに考察をするのが「浮遊する実存と輪廻する初期設定」の真髄です。
以下、二つの映画のネタバレを含むので、ご覧になってない方は了承の上お進みください。
■ 「私の頭の中の消しゴム」から記憶の継続と断絶と消滅について思考し、恋人と他人との境界を探る
聞いた話だと「私の頭の中の消しゴム」とはこんなストーリーです。
彼女がアルツハイマー型痴呆症になる。
献身的な介護をする彼。
徐々に記憶を失っていく彼女。
時々彼のことを思い出すが、思い出す頻度が下がっていく。
彼と昔の元彼とを間違えることもあり、そのことに気付き自責に陥る彼女。
彼を傷付けるのが嫌で彼のもとを離れることを決意する彼女。
記憶を失い療養所で過ごす彼女。
そこを訪ねる彼。
彼は彼女と初めて出会った時のシチュエーションを再現し、彼女を連れて行く。
そして奇跡的に少しだけ記憶を取り戻した彼女は彼と再会する。
■ 記憶の連続性と断絶性 魂の喪失
昨日の自分と今日の自分。
同一であると認めるために必要なものは「記憶」です。
例えば、昨日五体満足だった僕が今日両足を失ったとします。
昨日の僕と今日の僕は同一と言えるでしょうか。
確かに身長はかなり低くなったけども、おそらく同一人物でしょう。
親や友達も、僕を以前の僕と同じ人物として認識しているはずです。
でも「記憶」は違う。
もし昨日の僕の記憶が今日なくなり、代わりに宮台真司の記憶が植え付けられていたとしたら。
見た目は僕なのに思考や発言は宮台真司なのです。
もうそこに僕はいない。
そこに「さかもと性」は存在しません。
「さかもと」の魂は無い。
「私の頭の中の消しゴム」が巧妙なところはここです。
完全に記憶を失っていれば感動しないのに、完全に彼氏と彼女の関係性が切れていないので、記憶が戻った彼女と彼氏の幸福に涙することができる。
構図としては、いなくなった恋人が一時的に戻ってきた、という物語です。
一時的に記憶が戻ってくるという部分で、彼氏が彼女を想う気持ちも、彼女が彼氏を想う気持ちも継続することになります。
これが完全に記憶を失っていたらどうか。
肉体は継続しているのに魂は継続していない。
この残酷な遊離に身もだえすることだろう。
でもそれだと彼氏にしか感情移入できない。
記憶を失うことがないと思い込んでいる我々からすると、「もしかしたら最愛の人が記憶を失うかもしれない」という物語に涙する。
でも「私の頭の中の消しゴム」だと彼氏の側にも立てるし、彼女にも感情移入できる。
だから男女どちらも感動できます。
漫画「キャッツアイ」では記憶を失った瞳に対し、俊夫は初めて出会ったことにし関係を再構築する。
映画「エターナル・サンシャイン」では自ら記憶を消そうとも、何度でも関係を修復し合う意志が描かれている。
一方「私の頭の中の消しゴム」は一度も彼と彼女の関係は切れていない。
魂の喪失が描かれていない。
だから「キャッツアイ」や「エターナル・サンシャイン」並の深さを感じられない。
■ 「アバター」から下らない社会と自己を捨て去り美しい世界と自己を獲得することの怖さを学ぶ
映画「アバター」も「自分」について考えるのに適した題材です。
実際に映画を見たわけじゃないですが。
あらすじはこうです。
ある惑星に高価な物質があることを発見した地球人は、この星を攻めて強奪しようとする。
そのためにこの星の種族になりきり、スパイとして内部から崩壊させようとする。
人間として眠るとアバターとして起きて行動できる。
アバターとして寝ると人間として起きる。
やがてアバターとして惑星の素晴らしさに撃ち抜かれた主人公は地球を捨てることを決意する。
こんな内容らしい。
アバターというのは化身という意味らしいんですけど、本物を捨て去り化身として生きるという物語ですね。
故事「胡蝶の夢」と違うところは、本物が地球で嘘がアバターだと理解しているところです。
映画「マトリックス」に近い。
ザイオンとしてマトリックスシステムにおびえて暮らすよりも、脳に電気信号を送り込まれて幸福だと思い込む生活の方が良い、というサイファが選んだ方と構造が一緒です。
■ アバターが実体を食い破る時
映画「アバター」に描かれている限りでは、現実社会は下らなく、異種族の惑星は美しいから地球なんか無くても良い、という扱いらしいです。
でも美しく素晴らしいものに出会い、その一部になれることに多幸感を得て、今までのすべてを捨て去るなんてことはあり得るんだろうか。
「そうは言ってもやはり我が家が落ち着く」なんてことになりはしまいか。
これが、完全に乖離してたらわかります。
一生人間に戻れず、異種族として生活をしなければならないとか。
人間だった頃の記憶をすべて消されたとか。
アバターとして生活することに決め、人間社会を崩壊させる。
でもそうすると、アバターとして生活してた基盤も無くなる。
これでは本末転倒です。
アバターとして生きて行きたいのならば、人間としての場もしっかり確保しなければならない。
酷薄な社会を捨て、美しい世界に生きる。
でも我々にはあらかじめ社会につなぎ止めるものが植え付けられている。
それは家族であったり地域性であったり友達であったりするんだけど、その洗脳はなかなか解けません。
というか社会を生きるとは洗脳されるということです。
その洗脳を打ち破ってアバターとして生きるということは、よっぽどの脱洗脳があったということです。
果たして美しい景観や愛する異種族の存在ごときで脱洗脳できるのか。
もしかしたらアバターの精度が高過ぎたのかも知れない。
洗脳を解くには新たな洗脳を注入するしかない。
「アバター」の主人公は精度の高いアバター装置により脱洗脳を知らない内にほどこされていた。
今までの社会が嘘で、アバター世界が真実だと思い込ませるのは簡単だということだろう。
新洗脳だとしても洗脳は洗脳。
洗脳が先か後かの違いだけで、どちらの社会も洗脳社会に変わりはありません。
見た目が美しければ良い社会なのか。
どちらの洗脳社会を選ぶか。
「アバター」は難しい問題がはらんでいます。
■ 「自分」はどこにいる?
「私の頭の中の消しゴム」の記憶喪失。
「アバター」の脱洗脳。
このふたつを見る限り「自分」というのは存在しない。
つなぎ止める何かが無いと「自分」というのはいかにも不安定だ。
相手が自分を認めてくれなければ「自分」なんてどこにも存在しない。
この社会がくだらないと思ってしまったら、自分のことを認めてくれる存在にコロリと転がる。
それくらい「自分」は不安定だ。
記憶が無くなっても自分と言えるか。
洗脳が解けて新たな洗脳を施されても自分と言えるか。
自分とは誰か。
自分とは曖昧だ。
認識されて初めて存在する。
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