09« 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.»11

実存浮遊

映画やアイドルなどの文化評論。良い社会になるために必要な事を模索し書き続けます。

「藤子・F・不二雄[異色短編集]2 気楽に殺ろうよ」 

■ 「気楽に殺ろうよ」から洗脳の容易さと倫理不在性を知る


「藤子・F・不二雄[異色短編集]2 気楽に殺ろうよ」の表題作「気楽に殺ろうよ」はとても興味深い。
まずタイトルからして注意をひく。
気楽に殺そうって。

論考に入る前にあらすじを書きます。
未読の方は了承の上お進みください。



■ もし倫理が逆転したら


サラリーマンの男が主人公。
月曜のある朝。突然刺されたような激痛に襲われる。
しばらくして痛みが引くと、どこか日常に違和感を覚える。
会社に遅れると妻に言うと、なぜ休みの日に行くのかと問われ、大声で朝飯の用意をしろと叫ぶと「近所に聞こえるじゃないですか」と妻が赤面する。
娘に絵本を読み聞かせるが、性描写までしっかりある。
どういうことなのか。

日常の不可思議なできごとをカウンセラーに相談する、という構成になっています。

そのカウンセラーは、性欲も食欲も同じく欠かせないものだ。
食欲は恥ずかしいものだし、性欲は日常的なものだ。
だから性にオープンで食に閉鎖的な社会は普通なのだ、と説く。


さらに、子捨ても平然と行われ、殺人が起こっても誰も騒がない。

カウンセラーに「なぜ生命を尊重せなばならんのか説明できるか」と問われ、つまる主人公。
その後自分の間違いに気付き、性や殺人に開放的な社会を容認する。


■ 「倫理が逆転した」と思えるのは誰か


我々は社会規範に沿って行動する。
もっと細かく言うと、ローレンス・レッシグの言うように「法律・規範・市場・アーキテクチャー」によって行動が制限されている。
法律とか、親のしつけとか、お金が無くて欲しいものが買えないとか、コンピュータで世界征服できないとか。

さらに「倫理」が存在する。
「神様が見ているから」とか「お天道さまが見てるから」とか「誰がなんと言おうと自分がイヤだからイヤだ」とか。

性や殺人に寛容な社会に直面し、しかもどうやら自分だけがこの社会に溶け込めてないとする。
しかも昨日まではそんなことが無かったのに、という状況だ。
この場合いったいどちらが間違っていると言えるのか。

多数の方が常識なのか。
昨日までと違うと感じた者の意見が正しいのか。


この物語の主人公は明らかに「倫理観が逆転している」と感じてます。
倫理観が逆転しているにも関わらず、周囲の人間が平然としているから不安になる。

もし逆に、我々の前に、性や殺人に対してオープンな人物が一人いたらどうか。
明らかにこいつは狂ってると判定するでしょう。
なぜなら倫理観が違うからです。

つまり、個人の倫理観は相容れない。
僕には僕の。あなたにはあなたの倫理観がある。
テロリストにはテロリストの倫理観がある。
倫理観に則って人に親切にしたり、自爆テロをしたりするわけです。

となると、人数に関係なく、社会性に関係なく我々は常に「倫理観が違う」という局面に立たされる。
この物語の主人公だけの問題じゃありません。


■ 僕たちの洗脳社会


この主人公の男が施されたように洗脳は容易だ。
脱洗脳し、あらたな規範を洗脳すればいい。
あらかじめ我々は洗脳されている。
何をしていいか、何をしてはいけないか。
テレビを見れば洗脳されるし、周囲の人の雰囲気でも洗脳されています。
洗脳は洗脳を呼び、より強固な洗脳になる。

これに対し、正反対の教義を与える。
今までの教義が間違いで、新たな教義こそが正しいのだと。

「気楽に殺ろうよ」の場合、自分以外のすべての人物があらたな教義(殺人や性が当たり前で食が恥ずかしいものだというルール)を体現しており、そのことで主人公は勝手にあらたな教義を受け入れます。

この例でもわかるように、自分が思い込んでるルールというのは不安定です。
周りのみんなが自分と違うことをしてれば自然とそっちに洗脳される。
人数の違いで勝手に自分が正しいとか間違ってるとか思い込みがちだということです。

日本人はとくにそうでしょう。
付和雷同。

多くの人は多数決は正しいと思い込みがちだ。
1000人の意見と10人の意見があれば、1000人の意見こそが正しいのだと思っている。
多数決は正しいかどうかを決めるものではない。
多数決は、大勢の意見を取り入れた方がことが運びやすい、ってだけの話です。
とりあえずその場は多い方に進めましょう、ってことです。

でも何を勘違いしているのか、多数決での決定が正しいことだと思っている人が多い。

「気楽に殺ろうよ」の主人公のように、周りのみんなの考え方が変わっただけで、そちらの考え方に寄る。
多い意見に従った方が煩雑な対応を回避できます。
どちらが正しいとかではありません。

正しいというのが無いということはつまり、どちらの倫理が正解かは誰も判断できません。


■ 「気楽に殺ろうよ」から見る作者のメッセージ


藤子・F・不二雄先生が描く短編は一貫したメッセージがある。
それは「常識と非常識は思い込みでしかない」ということです。
今回取り上げた「気楽に殺ろうよ」。人が家畜となり、牛が人を管理する社会を描いた「ミノタウロスの皿」。

現在従っているルールを信じ込むと痛い目に遭う。
たまたまそのようなルールになっているだけで、いつそのルールが変わるかわからない。
日本が戦争に負けて天皇崇拝から欧米礼賛に激変した。
倫理観なんて一日で激変する。
それを知っている作者だからこそ、すごくわかりやすく伝わってくる。

自分が信じているものがなぜ信じれるのかを深く考えることが重要だ。

スポンサーサイト

テーマ: 哲学/倫理学 - ジャンル: 学問・文化・芸術

この記事に対するコメント

△top

コメントの投稿

Secret

△top

トラックバック

トラックバックURL
→http://jitsuzonfuyu.blog111.fc2.com/tb.php/422-3f674df8
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

△top