実存浮遊
映画やアイドルなどの文化評論。良い社会になるために必要な事を模索し書き続けます。
2010.04.08 Thu. 09:13 :edit
空洞・世界・奇跡
当サイトの日記も、独白となるといつもパターンが決まっている。
「空洞化」「世界への不信感」「打ち震えるほどの奇跡」
これらについて順繰りに書いている。
7年ぐらい続けてるとやはりこうなる。
世間での出来事は枚挙に暇が無いのであらたな目線で書けるが、自分のこととなるとどうしてもパターンが決まってきます。
出したキーワード3つについて書いてみましょう。
この行為はきわめてメタ的だが、どうしてもメタ的になりたがる僕です。
「空洞化」はつまり「絶望」とも言い換えられるでしょう。
厳密に言うと、絶望できる程度ではまだまだ絶望ではない。
絶望するという行為にすがっているからだ。
僕が言う「空洞化」はその先の話です。
絶望することに意味がない。
意味がないことに対しても意味がない。
「空洞化」とはつまりそういうことです。
「空洞化」していることに意味を見出しているようでは、まだまだ「空洞化」には至れてません。
「世界への不信感」というのは、哲学的な話でもあるし、社会学的な話でもあります。
つまりは何も信じてはいない、ということですね。
僕自身アンドロイドかもしれないですし、この社会がうまく回っているように認識させられてるだけかもしれないですし。
そもそも、この社会が、この世界がどうなろうと知ったことではない。
いつでも僕はこの世界に裏切られる可能性が含まれている。
そういった意味も込めて「世界への不信感」と表記した。
「打ち震えるほどの奇跡」はそのままの意味ですね。
現時点ですべてが存在していることのありえなさに打ち震える。
桜が散ることの奇跡に打ち震える。
陽が沈むことの奇跡に打ち震える。
言葉が存在することの奇跡に打ち震える。
つまりはそういうことですね。
さて、今回は「空洞化」についてです。
「空洞」という表現は、園子温監督「愛のむきだし」を参照にしてます。
すべてを失わせ空洞にしたあとで新たな教義を吹き込む。
この「空洞化」ですが、僕はてっきり現在空洞化してると思い込んでたんですね。
でもまだまだ「空洞さ」が足りませんでした。
何も無さにもっと至らなければならない。
「空洞化」しなければ新たな教義が入りません。
ただちに空洞化せよ。
「空洞化」「世界への不信感」「打ち震えるほどの奇跡」
これらについて順繰りに書いている。
7年ぐらい続けてるとやはりこうなる。
世間での出来事は枚挙に暇が無いのであらたな目線で書けるが、自分のこととなるとどうしてもパターンが決まってきます。
出したキーワード3つについて書いてみましょう。
この行為はきわめてメタ的だが、どうしてもメタ的になりたがる僕です。
「空洞化」はつまり「絶望」とも言い換えられるでしょう。
厳密に言うと、絶望できる程度ではまだまだ絶望ではない。
絶望するという行為にすがっているからだ。
僕が言う「空洞化」はその先の話です。
絶望することに意味がない。
意味がないことに対しても意味がない。
「空洞化」とはつまりそういうことです。
「空洞化」していることに意味を見出しているようでは、まだまだ「空洞化」には至れてません。
「世界への不信感」というのは、哲学的な話でもあるし、社会学的な話でもあります。
つまりは何も信じてはいない、ということですね。
僕自身アンドロイドかもしれないですし、この社会がうまく回っているように認識させられてるだけかもしれないですし。
そもそも、この社会が、この世界がどうなろうと知ったことではない。
いつでも僕はこの世界に裏切られる可能性が含まれている。
そういった意味も込めて「世界への不信感」と表記した。
「打ち震えるほどの奇跡」はそのままの意味ですね。
現時点ですべてが存在していることのありえなさに打ち震える。
桜が散ることの奇跡に打ち震える。
陽が沈むことの奇跡に打ち震える。
言葉が存在することの奇跡に打ち震える。
つまりはそういうことですね。
さて、今回は「空洞化」についてです。
「空洞」という表現は、園子温監督「愛のむきだし」を参照にしてます。
すべてを失わせ空洞にしたあとで新たな教義を吹き込む。
この「空洞化」ですが、僕はてっきり現在空洞化してると思い込んでたんですね。
でもまだまだ「空洞さ」が足りませんでした。
何も無さにもっと至らなければならない。
「空洞化」しなければ新たな教義が入りません。
ただちに空洞化せよ。
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