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実存浮遊

映画やアイドルなどの文化評論。良い社会になるために必要な事を模索し書き続けます。

映画「ヒーローショー」の空虚さと現実性 

■ 映画「ヒーローショー」の虚構性と井筒監督が描く希薄さから暴力による現実直視の酷薄さを読み取る


井筒監督の最新作「ヒーローショー」を観てきました。
人気若手芸人ジャルジャルが主演。
かわいい女優さんのちすんちゃんがヒロイン。
目が離れているちすんちゃんのエロいキスシーンが見れただけでも儲けもんでした。
ちすんちゃんは朝鮮人なのかな?
「パッチギ」の2作目のヒロイン中村ゆりも朝鮮人だったと思います。
朝鮮人の女優ってなんてかわいいんだ!!

あとジャルジャルのつっこみの方がなかなかかっこよかったです。

吉本興業のタレントがいっぱい出てました。
ギャラが安いからか、吉本にお金をいっぱい出してもらったからか、そういう大人のお話はよくわかりません。


以下の文章はネタバレを含むのでご了承の上お進みください。



■ 「ヒーローショー」という子供だまし

吉本の芸人養成所に通うもパッとしないユウキと、配管工で元自衛官の勇気。
ユウキは、元相方の先輩が悪役を勤める「電竜戦士ギガチェンジャー」のヒーローショーのバイトを紹介され、働き始める。
元相方とヒーローショーメンバーとの内輪もめに巻き込まれ、慰謝料を払えだの、返り討ちにしてボコボコにしてやるだの、物騒な展開になっていく。

度を越えたリンチの果てに瀕死に陥る元相方。
ユウキは命惜しさにそれを見殺しにし、元相方を生き埋めにする手伝いをする。

そのリンチの一員でもある勇気は、殺人の重荷を背負い、夢も恋人も捨てる。

妄想の世界に生きていたパッとしないユウキは強烈な現実に召喚され、平板で苦しい世界を生きる。


かなり省きましたがストーリーはこんな感じです。
井筒流「笑い&涙」は一切排除され、ただ悲惨な現実だけが映し出されます。
平穏無事な人が見ると気分が悪くなるかも知れません。
でも現実の残酷さを知っている人にとっては薄っぺらに映るでしょう。

希釈された映像をただ見せられている感覚です。
単純に言うとつまらなかった。
でもそのつまらなさは、「ヒーローショー」というタイトルが示す通り、意図した空虚なのです。

「のど自慢」「ビッグ・ショー! ハワイに唄えば」「ゲロッパ!」で歌の感染力を描いた井筒監督は、「パッチギ!」」「パッチギ!LOVE&PEACE」で歌と暴力で民族の壁を突き抜けようとしました。

そうして出した答えが「ヒーローショー」です。
どんなに素晴らしい歌でも、肉体感覚を取り戻すような暴力でも、その結果現実に引き戻されたところで「現実」自体がそもそも空洞だ。
つまらないヒーローショーのようなものでしかない。
映画自体が虚構である以上、映画には現実を描き切れない。
超越論的に、メタ的に、「空虚な映画を描くしかない現実こそが空虚」という表現法でしか、現実を伝えることはできない。


この映画はつまらないが、そのつまらなさはそのまま現実のつまらなさだ。
中学生のガキに笑われながらたい焼き売る程度の現実。

何も知らない無垢な存在である子供や、子供みたいな何も考えてない馬鹿にはこの映画は暴力とセックスを描いた映画として映るでしょう。



■ 妄想の世界が空虚だとしても現実世界がもっと空虚ならばどうすればいいのか

主人公のユウキは冴えない日常を過ごしている。
親に50万円出してもらって卒業したお笑い養成所でもパッとせず、バイトのバナナの皮むきもやる気がしません。
家に帰ってパソコンを開き、ギャルゲーの妹にだけ心を開いています。

そこから突然暴力の報復合戦に巻き込まれる。
その場で敵側に「電竜戦士ギガチェンジャー」のギガレッドの格好をさせられます。
目の前で暴力事件が起こっているのに、ユウキだけはずっとヒーローショーのままだ。

元相方の先輩がリンチの果てに瀕死状態になる。
命惜しさから先輩を穴に突き落とすユウキ。
先輩が持ってたお笑いネタ帳を見つけても助けようとはしない。
先輩が生き埋めになっても、どこか自分が助かったことにほっとしているようだ。

事件後、一旦勇気に解放されパソコンの妹のもとに戻るが、再び勇気に連れられ先輩が埋まってる現場に来たユウキ。
そこでもギガレッドの格好をさせられる。

先輩が埋まってる現場に立ち妄想と現実が分離する。
映像的に2種類のユウキが交互に映し出されます。

勇気に口封じのために殺されると想像するユウキは、錯乱しながら穴に入る。
想像のユウキは、頭をカチ割られ血を流しながら生を渇望する。
現実のユウキは、何事も他人のせいにして自分の人生に甘えきったままだ。


生き残ったユウキは田舎に住む親がやってるたい焼き屋に行き、希薄な現実を選ぶ。


ユウキは明らかに、パソコンの中の妹と一緒にいる時だけ人間味のある、幸福な表情をする。
親と一緒に地道に生きていくことを選んだところで、先輩の亡霊におびえながら、中学生に笑われながらたい焼きを売る人生だ。


虚構にも生きられず、現実も生きるに価しない。
酷薄な生をどう生きればいいかは提示されない。
ただ、虚構は暴力によりいとも簡単に崩壊し、現実は暴力でも濃密さを獲得することはできない、ということだけが提示される。

それはつまり井筒作品の否定だ。
「ゲロッパ!」では、モノマネを題材に、「偽物でも人々の魂を打ち震えさせる」、という素晴らしさを描いた。
「パッチギ!」では、暴力により民族の壁を乗り越える、という物語を描いた。

「ヒーローショー」ではどちらも否定する。
偽物は結局偽物で、現実にまったく影響力がない。
焼け付くような暴力は何も生まず空虚な現実を際立たせるだけだ。


要所要所でユウキはギガレッドの格好になっている。
先輩が殺されるシーンでもそうだし、勇気に殺されるとおびえるシーンでもそう。
そしてたい焼きを売るシーンでは、下半身だけギガレッドだ。

井筒監督は、「虚構性」を前面に出す。
映画のストーリー展開もめちゃくちゃで、なんでそうなるのかわからない点もいろいろあった。
勇気の彼女はバツイチ子持ちなんだけど、その子供は父親が引き取っていて、念書を書かされずっと会ってなかったらしい。
でも久しぶりに会ったというのに、その子は彼女にすごくなついてママと呼んでいる。
あと復讐に来た鬼丸は、勇気が彼女と住むために新しく借りた部屋の場所を知っていた。
勇気が仲間に部屋の場所を言ってるようにも思えないのに。

でもそれらもすべてわざとだ。
現実とはでたらめで、ストーリー展開なんてあったもんじゃない。しかも、何か起こりそうで結局何も起こらない。
ただ苦痛とむなしさがあるだけ。
この映画のつまらなさは、そのままこの現実のつまらなさだ。
この映画のでたらめさは、そのままこの現実のでたらめさだ。


ヒーローショーという虚構を終えても現実自体が虚構、という入れ子状態であることを観客に突きつける映画「ヒーローショー」は、「起き上がれ(ゲロッパ)」とも「突き抜けろ(パッチギ)」とも言ってくれない。
つまらない現実というショーが永遠に続く、というメッセージだけが残る。
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テーマ: 考えさせられた映画 - ジャンル: 映画

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