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実存浮遊

映画やアイドルなどの文化評論。良い社会になるために必要な事を模索し書き続けます。

映画「シーサイドモーテル」が描く酷薄な生 

■ 映画「シーサイドモーテル」のチープな虚構性から人間関係の希薄さと何も起こらなさを知る

生田斗真、麻生久美子が出演している「シーサイドモーテル」を見ました。
予告を見て気になってたんですけど、日本の予告作成技術は目を見張るものがありますね。
完全に予告編にだまされました。

以下、「シーサイドモーテル」のネタバレを含む感想になります。
了承の上お進みください。



■ マルチスレッド方式と「風が吹けば桶屋が儲かる」的世界観

映画「シーサイドモーテル」はマルチスレッド方式で展開します。
シーサイドモーテルという山中にあるモーテル。
4つの部屋で繰り広げられる物語。

それぞれが独立したお話で、隣同士の部屋であるにも関わらず、物語のつながりはほぼ皆無だ。

僕の好きな映画「運命じゃない人」や、劇団ひとり原作で映画化された「陰日向に咲く」などがマルチスレッド方式の手法を取る。
例えば、太郎と花子という登場人物がいるとする。
それぞれ独立した物語で進行していく。
太郎が親切にした老人が、実は花子の恩師だった。
花子が捨てたチラシに書かれたフレーズを見て、太郎は奮起する、などなど。

セガサターンの名作ゲーム「街」を思い浮かべればわかりやすい。
独立しているが、何か影響し合っている。
それを見て我々は、「確かにありえる」と感じ、世界の豊潤さに癒される。


「運命じゃない人」では我々は神の視点に立てる。
映画の進行上、視点を変えて同じ時間を何度か繰り返す。
視点が変わることで、実は裏側ではこうなってたのか、と気付く。
でも登場人物はその奇跡に気付いていない。
我々だけがその絶妙な関係性を把握できています。


では「シーサイドモーテル」ではどうでしょうか。


生田斗真の部屋の話と古田新太の部屋の話で、時間が前後します。
古田新太の部屋に行くはずだったホテトル嬢が、間違って生田斗真の部屋に行った。
それだけ。


生田斗真の部屋に、ホテトル嬢の麻生久美子が間違ってやってきて、二人は恋に落ちる。

古田新太の部屋では、不倫に出かけた妻の事故死を知らされ、古田新太は妻に施された女装のまま喪に服す。

池田鉄洋と山崎真実の部屋では、キャバ嬢につぎ込んだ金の見返りのため必死になってセックスまで持ち込もうとする。

山田孝之の部屋では、借金の取立てに玉山鉄二がやってくる。


この4つの部屋での出来事は、驚くほど無関連に進行していく。
やる気のない警官2人が登場し、古田新太に妻の死を告げたり、山田孝之のギャンブルの対象になったりもするのだが、関係性が薄い。


山田孝之が逃走する車との事故で、麻生久美子は生田斗真との約束に間に合わない。

でもまったくビックリ感が無い。
むしろ嫌悪感すら覚える。
ようやく見つけた愛すら叶わないのか、と。


世界は「風が吹けば桶屋が儲かる」だ。
風が吹く。
砂で目がつぶれる。
目が見えない人でも弾ける三味線が売れる。
三味線の原料となる猫の皮が多く必要となり狩られる。
猫が減りねずみが増える。
ねずみが風呂桶をかじる。
風呂桶が大量に売れるようになる。


何がきっかけで何が引き起こされるのかは誰にもわからない。
神の視点でしか判別できないような複雑で絶妙で美しい関係性が、この世には常に存在している。

なのに「シーサイドモーテル」ではそのどれもが一切描かれない。
キャバ嬢を抱こうとする男はぎっくり腰になって救急車に運ばれる。
山田孝之は友人を裏切ってヤクザの金を奪う。
生田斗真はだましだまされながら麻生久美子が来るのを信じて待つ。

それぞれの物語が、最後まで独立したまま進行し終わる。

各部屋に飾られているシーサイドの夕日の写真だけが共通して存在するのだが、そのことが映画全体に影響することはない。
ただ、生田斗真と麻生久美子の愛の象徴として存在するだけだ。


「シーサイドモーテル」の世界観は希薄だ。
「風が吹けば桶屋が儲かる」まで行かず、「風が吹けば砂が舞い上がる」ぐらいまでの展開しか見せない。
何も奇跡を感じられない。
希薄な世界観はそのまま映画監督の薄さだ。

この世の豊潤さが全然描かれていない。
関係性をあえて断絶させているのは、この現代社会を風刺しているのか。


■ 徹底した虚構性と到達できない幸福に、抜け出せないこの世の苦痛を読み解く

豪華出演陣とは裏腹に、映画は全体的にチープさが漂う。
部屋の中はセット丸出し。モーテルも即席で作ったようなたたずまいだ。
全部が偽物だというのが強調されている。

そこに、偽物のクリームを高額で売り歩くセールスマンの生田斗真と、偽物の愛を売るホテトル嬢の麻生久美子が現れる。

シーサイドに無いのに「シーサイドモーテル」と名づけられた建物。
チープな撮影セット。
偽物の愛。

各部屋にはシーサイドの夕日の写真が飾られている。
カップルが砂浜で幸せそうに寄り添い、夕日を見つめている。

この写真が幸福の象徴としてすべての部屋に存在している。

映画「シーサイドモーテル」には幸せな者が登場しない。
恋人に売られそうになる少女。
拷問師に指を削り取られる男。
キャバ嬢とセックスできない男。
妻に浮気され、しかも先立たれた男。


詐欺のようなセールスマンに嫌気が差し、偶然出会ったホテトル嬢と夕日のシーサイドを目指す。
だがそのカップルに見えた砂浜の写真は、実は生田斗真とヤクザの舎弟の姿だった。
物語のラスト、麻生久美子にだまされたと思っている生田斗真は、ヤクザの舎弟を引き連れ逃避行に出て、あの写真の砂浜だと思われる地にたどり着く。
そこで途方に暮れ、カメラが引いていくとモーテルに飾られていた写真になる。


映画は突然円環となる。
幸福の象徴として目指していた夕日のシーサイドは、実は冴えない男二人がうなだれている現実だった。


この世は虚構で、しかも目指すべき幸福は実はくだらない現実でしかない。
くだらない現実を目指すべき幸福だと思い込み毎日を過ごすしかない。
そして人々の関係性は皆無で、希薄な社会を生きるしかない。

映画「シーサイドモーテル」は酷薄な社会を描く。
人間関係は希薄で、風が吹いても桶屋は儲からない。
目指すべき幸福も偽物だ。


やる気のない警官2人が最後に登場する。
キャバ嬢に接客されるわけだが、この3人はあの日近くにいたことを知らない。

このラストを見ても、我々にはまったく感動が伝わらない。
神の視点に立てたことすら感じない。
この警官2人のように、やる気の無い雰囲気がずっと続くだけだ。


円環から抜け出せない。
酷薄な日常は繰り返される。
奇跡は起こらない。
この世は虚構でしかない。


映画「シーサイドモーテル」は、大した盛り上がりもなく、ただだらだらと下らない日常が流される。
この映画を観た時の無感動は、そのまま社会への無感動につながる。
強烈な社会批判を描いた作品だ。
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テーマ: 映画レビュー - ジャンル: 映画

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