実存浮遊
映画やアイドルなどの文化評論。良い社会になるために必要な事を模索し書き続けます。
2012.04.30 Mon. 08:54 :edit
映画『KOTOKO』から社会に生き残る方法を学ぶ
■ 映画『KOTOKO』から社会に引き止めるのは何かを考える
塚本晋也監督『KOTOKO』はすごい映画だ。
この映画を見れば骨がきしむ。
「ああそうだった。この社会はコールタールを口に押し込まれてるような息苦しさがあり、針金で拘束されてるような身動きの取れなさがあり、眼球にビニール袋を貼り付けられるような不鮮明さでいっぱいだったんだ」と思い出す。
「社会」を生きられず「世界」に触れることでなんとか呼吸を続ける女性を徹底して描いた作品。
(社会学者宮台真司の言葉を借りると、「社会」とはコミュニケーション可能なもの全部。「世界」とはありとあらゆるもの全体を指す)
見終わって映画館のロビーに出た瞬間ドッと疲れが吹き出た。
DVDは買わない。
買う価値が無いのではない。凄まじすぎてもう見れないのだ。
そんな映画でした。
以下ネタバレを含む内容のため、了承の上お進みください。
■ 琴子が生きる社会
社会をうまく生きられないシングルマザー琴子。
彼女には人物が、一般的に社会を生きる人と、琴子や琴子の最愛の息子に危害を加える人の二人に見える。
息子を守るために出会う人を攻撃するが、その度にその地で生活することができなくなる。
現実の区別すらも不安定になる彼女は、歌っている時だけが唯一この世界で安定して呼吸ができる瞬間だ。
児童虐待を疑われ我が子を沖縄の姉にあずけられる。
社会を生きるために引き止める存在だった息子が居なくなる。
ある時、歌を口ずさんでいると、それをたまたま聞いた小説家(塚本晋也監督が演じる)に惚れられる。
琴子の歌を聞き、世界に触れることができた男は、小説で賞を取れる実力があるにも関わらず、琴子の世話をすることを仕事にしたいと断言する。
琴子は賞を取った小説を読むが、小説ごときでは琴子をこの社会に引き止めることはできない。
求婚するもフォークで手を突き刺される小説家の男。
この傷の痛みが男と琴子をつなぐ。
男が痛みに眠れないでいると、なぜか琴子のリストカットを察知し、家まで駆けつけて手当てをする。
その後琴子の家を後にするが、側溝にはまって怪我をする。その痛みでまたなぜか琴子のリストカットを察知する男。
二人の関係性は、「歌」で出会い、「痛み」で深まる。
顔面が変形するほど殴られるも琴子の愛を感じる男。
同棲を始めると琴子の調子も良さそうだ。
不動産の広告に線を引く作業により、社会とのチューニング具合がわかる構成になっている。
序盤はぎこちなく線を引いてるが、男の同棲するようになって軽やかに線を引くようになる。
男の前で歌を歌い上げる琴子。
それを聴き号泣する男。
だがこの幸福はここで終わってしまう。
男は忽然と琴子の前から居なくなってしまう。
再び社会とのチューニングがうまくいかない琴子。
息子とまた一緒に暮らすことができるようになるが、社会に引き止めてくれる存在だったはずの息子すら二重に見え出す。
そう、この世界は、家族ですら社会に引き止めてはくれないのだ。
この生きづらい社会が殺意を持って息子に近づいてくるのならば、いっそのこと自分の手で我が子を殺そうと首を絞める。
すると風景が一変する。
すべてが段ボールで作ったような風景になる。
彼女は社会を失った。
社会は現実感を失った。
「歌」「痛みによる関係性」「我が子」。
生きづらい社会を生きるためにつなぎとめてくれた存在はすべて無力だった。
雨の中踊る琴子。
ここで冒頭の少女時代の琴子が想起されるだろう。
そう、琴子は踊ることで世界の調べを表現する存在だった。
社会を生きられないが世界を生きる琴子。
精神病棟のようなところで療養中の琴子にある人物が面会に来る。
それは小学6年ぐらいに成長した息子だった。
手を振ってお別れをする琴子と息子。
糸のようにか細いが、確実に社会へとつなぎ止めてくれる息子。
社会から逸脱しつつも、なんとかこの場で生活するには何が必要か。
我々にわかるのは、琴子がかろうじて生きているこの現実こそが、かすかな希望だということだけだ。
■ 我々はなぜ「社会」を生きられるのか
この映画を見ていると不快な音の洪水に飲み込まれる。
開始数分で、琴子が生きる社会(つまり我々が生きる社会)の生きづらさを呼び起こされ、途端に不快になる。
琴子が異常なのではなく、不快な音の洪水の中、自分に敵意を持って襲いかかってくる人たちに囲まれているのに安穏と生活している我々の方が異常なのだと気付く。
歌と踊りで社会を超えた素晴らしさに敏感に体感できる琴子が、この生きづらい社会とどのように折り合いを付けるか。
従来の物語だと、「社会」を捨ててその先にある素晴らしい「世界」に触れて生きろ、となる。
でも『KOTOKO』は違う。
素晴らしき「世界」に触れることができる存在だとしても、それは「社会」を生きるのにちっとも役立たない。
そもそも「世界」の素晴らしさとは「社会」とは無関係であるに決まってる。
当然だ。
だが、それでもこの酷薄な生を生きるにはどうすればいいのか。
それを描いた作品です。
琴子には社会に引き止めてくれる4つのポイントがある。
踊り・歌・痛み・子ども
「踊り」は「世界」と交信するため。
この酷薄な社会で唯一「世界」のすごさを体感できる時間。
「歌」は「世界」のすごさを伝承するのに使われる。
「歌」で癒された小説家の男はこの物語から退出する。
「痛み」は関係性の深度をあらわす。
血まみれになることでなんとか関係を保てる。
それは社会と琴子だったり、小説家の男と琴子だったりする。
「子ども」は社会的な存在であるための証明。
社会を知らずに無垢なまま笑顔でいる子どもを愛でることが、社会に居ていいという証になる。
我々が社会で生きていけるのは、家族とのつながりがあるからです。
「社会的な存在」というのはつまり人と人とのつながりがある存在です。
では「世界」に触れることができる存在は「社会的な存在」となれるのか。
それはこの映画が示すように、とても生きづらさを伴うものです。
最愛の息子でさえも社会に引き止めてくれる存在とは成り得ない。
社会に引き止める存在だったはずの息子が、社会から逸脱させられる存在になってしまう。
唯一、社会から退行し、精神病棟のようなところに収容された時に、かすかに、成長した息子との関係性に救われる。
■ 踊り・歌・痛み・子ども
この映画でただ一人「世界」と交信できる琴子。
だが当然ながら「社会」は「世界」からの旋律を必要としていない。
求められないので琴子は社会に生きられない。
「世界」の素晴らしさに気付かないままで生きていける社会的な存在である多くの人にとっては、彼女が気違いにしか見えないだろう。
だが、「社会」を生きられず「世界」に触れることでかろうじて呼吸をしていける人にとって、琴子の存在が強烈なまでに肌に食い込む。
それこそ呼吸困難になるほどに。
子供を愛でることで生きていける社会的な存在は幸福だ。
痛みによって生の実感を得られる程度の存在も幸福だ。
そう。
そもそもこの社会は生きるに足り得ない。
生きる価値も無い社会だが、「世界」は素晴らしい。
だが琴子のように、「世界」に触れることで社会を生きられなくなる。
この困難。
「世界」に触れることでなんとか死なずに生きようと思えるのに、この「社会」は我々に死ね死ねとノイズのような轟音を掻き鳴らし続けるのだ。
この映画が示すのは、やはり「子ども」だ。
我が子のせいで社会から逸脱する琴子は、我が子のおかげでなんとか死なずに済んでいる。
「踊り」によって世界と交信しつつ、「子ども」によって社会につなぎとめられる。
「痛み」による社会とのつながりは否定されている。
「世界」に触れる方法は人それぞれだろう。
海の波に見出す人もいるだろう。
風に舞う桜の花びらに見出す人もいるだろう。
朽ち果てた鉄塔に見出す人もいるだろう。
「世界」に触れつつ、死なずに「社会」に留まる作法とは何か。
人と人とのつながりが、かろうじてこの社会に留まる糧となる。
塚本晋也監督『KOTOKO』はすごい映画だ。
この映画を見れば骨がきしむ。
「ああそうだった。この社会はコールタールを口に押し込まれてるような息苦しさがあり、針金で拘束されてるような身動きの取れなさがあり、眼球にビニール袋を貼り付けられるような不鮮明さでいっぱいだったんだ」と思い出す。
「社会」を生きられず「世界」に触れることでなんとか呼吸を続ける女性を徹底して描いた作品。
(社会学者宮台真司の言葉を借りると、「社会」とはコミュニケーション可能なもの全部。「世界」とはありとあらゆるもの全体を指す)
見終わって映画館のロビーに出た瞬間ドッと疲れが吹き出た。
DVDは買わない。
買う価値が無いのではない。凄まじすぎてもう見れないのだ。
そんな映画でした。
以下ネタバレを含む内容のため、了承の上お進みください。
■ 琴子が生きる社会
社会をうまく生きられないシングルマザー琴子。
彼女には人物が、一般的に社会を生きる人と、琴子や琴子の最愛の息子に危害を加える人の二人に見える。
息子を守るために出会う人を攻撃するが、その度にその地で生活することができなくなる。
現実の区別すらも不安定になる彼女は、歌っている時だけが唯一この世界で安定して呼吸ができる瞬間だ。
児童虐待を疑われ我が子を沖縄の姉にあずけられる。
社会を生きるために引き止める存在だった息子が居なくなる。
ある時、歌を口ずさんでいると、それをたまたま聞いた小説家(塚本晋也監督が演じる)に惚れられる。
琴子の歌を聞き、世界に触れることができた男は、小説で賞を取れる実力があるにも関わらず、琴子の世話をすることを仕事にしたいと断言する。
琴子は賞を取った小説を読むが、小説ごときでは琴子をこの社会に引き止めることはできない。
求婚するもフォークで手を突き刺される小説家の男。
この傷の痛みが男と琴子をつなぐ。
男が痛みに眠れないでいると、なぜか琴子のリストカットを察知し、家まで駆けつけて手当てをする。
その後琴子の家を後にするが、側溝にはまって怪我をする。その痛みでまたなぜか琴子のリストカットを察知する男。
二人の関係性は、「歌」で出会い、「痛み」で深まる。
顔面が変形するほど殴られるも琴子の愛を感じる男。
同棲を始めると琴子の調子も良さそうだ。
不動産の広告に線を引く作業により、社会とのチューニング具合がわかる構成になっている。
序盤はぎこちなく線を引いてるが、男の同棲するようになって軽やかに線を引くようになる。
男の前で歌を歌い上げる琴子。
それを聴き号泣する男。
だがこの幸福はここで終わってしまう。
男は忽然と琴子の前から居なくなってしまう。
再び社会とのチューニングがうまくいかない琴子。
息子とまた一緒に暮らすことができるようになるが、社会に引き止めてくれる存在だったはずの息子すら二重に見え出す。
そう、この世界は、家族ですら社会に引き止めてはくれないのだ。
この生きづらい社会が殺意を持って息子に近づいてくるのならば、いっそのこと自分の手で我が子を殺そうと首を絞める。
すると風景が一変する。
すべてが段ボールで作ったような風景になる。
彼女は社会を失った。
社会は現実感を失った。
「歌」「痛みによる関係性」「我が子」。
生きづらい社会を生きるためにつなぎとめてくれた存在はすべて無力だった。
雨の中踊る琴子。
ここで冒頭の少女時代の琴子が想起されるだろう。
そう、琴子は踊ることで世界の調べを表現する存在だった。
社会を生きられないが世界を生きる琴子。
精神病棟のようなところで療養中の琴子にある人物が面会に来る。
それは小学6年ぐらいに成長した息子だった。
手を振ってお別れをする琴子と息子。
糸のようにか細いが、確実に社会へとつなぎ止めてくれる息子。
社会から逸脱しつつも、なんとかこの場で生活するには何が必要か。
我々にわかるのは、琴子がかろうじて生きているこの現実こそが、かすかな希望だということだけだ。
■ 我々はなぜ「社会」を生きられるのか
この映画を見ていると不快な音の洪水に飲み込まれる。
開始数分で、琴子が生きる社会(つまり我々が生きる社会)の生きづらさを呼び起こされ、途端に不快になる。
琴子が異常なのではなく、不快な音の洪水の中、自分に敵意を持って襲いかかってくる人たちに囲まれているのに安穏と生活している我々の方が異常なのだと気付く。
歌と踊りで社会を超えた素晴らしさに敏感に体感できる琴子が、この生きづらい社会とどのように折り合いを付けるか。
従来の物語だと、「社会」を捨ててその先にある素晴らしい「世界」に触れて生きろ、となる。
でも『KOTOKO』は違う。
素晴らしき「世界」に触れることができる存在だとしても、それは「社会」を生きるのにちっとも役立たない。
そもそも「世界」の素晴らしさとは「社会」とは無関係であるに決まってる。
当然だ。
だが、それでもこの酷薄な生を生きるにはどうすればいいのか。
それを描いた作品です。
琴子には社会に引き止めてくれる4つのポイントがある。
踊り・歌・痛み・子ども
「踊り」は「世界」と交信するため。
この酷薄な社会で唯一「世界」のすごさを体感できる時間。
「歌」は「世界」のすごさを伝承するのに使われる。
「歌」で癒された小説家の男はこの物語から退出する。
「痛み」は関係性の深度をあらわす。
血まみれになることでなんとか関係を保てる。
それは社会と琴子だったり、小説家の男と琴子だったりする。
「子ども」は社会的な存在であるための証明。
社会を知らずに無垢なまま笑顔でいる子どもを愛でることが、社会に居ていいという証になる。
我々が社会で生きていけるのは、家族とのつながりがあるからです。
「社会的な存在」というのはつまり人と人とのつながりがある存在です。
では「世界」に触れることができる存在は「社会的な存在」となれるのか。
それはこの映画が示すように、とても生きづらさを伴うものです。
最愛の息子でさえも社会に引き止めてくれる存在とは成り得ない。
社会に引き止める存在だったはずの息子が、社会から逸脱させられる存在になってしまう。
唯一、社会から退行し、精神病棟のようなところに収容された時に、かすかに、成長した息子との関係性に救われる。
■ 踊り・歌・痛み・子ども
この映画でただ一人「世界」と交信できる琴子。
だが当然ながら「社会」は「世界」からの旋律を必要としていない。
求められないので琴子は社会に生きられない。
「世界」の素晴らしさに気付かないままで生きていける社会的な存在である多くの人にとっては、彼女が気違いにしか見えないだろう。
だが、「社会」を生きられず「世界」に触れることでかろうじて呼吸をしていける人にとって、琴子の存在が強烈なまでに肌に食い込む。
それこそ呼吸困難になるほどに。
子供を愛でることで生きていける社会的な存在は幸福だ。
痛みによって生の実感を得られる程度の存在も幸福だ。
そう。
そもそもこの社会は生きるに足り得ない。
生きる価値も無い社会だが、「世界」は素晴らしい。
だが琴子のように、「世界」に触れることで社会を生きられなくなる。
この困難。
「世界」に触れることでなんとか死なずに生きようと思えるのに、この「社会」は我々に死ね死ねとノイズのような轟音を掻き鳴らし続けるのだ。
この映画が示すのは、やはり「子ども」だ。
我が子のせいで社会から逸脱する琴子は、我が子のおかげでなんとか死なずに済んでいる。
「踊り」によって世界と交信しつつ、「子ども」によって社会につなぎとめられる。
「痛み」による社会とのつながりは否定されている。
「世界」に触れる方法は人それぞれだろう。
海の波に見出す人もいるだろう。
風に舞う桜の花びらに見出す人もいるだろう。
朽ち果てた鉄塔に見出す人もいるだろう。
「世界」に触れつつ、死なずに「社会」に留まる作法とは何か。
人と人とのつながりが、かろうじてこの社会に留まる糧となる。
スポンサーサイト
« 幼児性を持つシャーマン:高城れにの脆弱性
04/29のツイートまとめ »
トラックバック
| h o m e |