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実存浮遊

映画やアイドルなどの文化評論。良い社会になるために必要な事を模索し書き続けます。

仏教開眼 [2009年07月14日(火)] 

神はいるか。

僕は無神論者と呼べるでしょう。
無宗教であるのは間違いない。入信したことないので。

世の中から争いごとが絶えない。悪がはびこる。
神がいるならこの世から不幸が無くなるはずだ。
と、そう言って神の存在を否定する人がいます。
そんなはずがありません。
神があえて悪を組み込んだ可能性は当然ありえます。

なんで神が人ごときのために行動せねばならないのか。
神であれば人などどうだっていいと思うに決まってる。


僕は無神論者と言えるでしょうが、神の存在は信じます。
どんな生命も。どんな非生命も。神の存在を知覚できない。
僕の言う「神」とは、人型のそれじゃなく、宇宙全体という感覚に近いです。

さて、ある本を読んでいると、どうやら僕は仏教に近い考えを持っているらしいです。
仏教では、正邪や善悪や社会ですら相対化する。
「正」が正しいとか、「善」が善いとかの判断が、無い。
生きる意味すらも砂だ。

そんな空疎な生をそれでも生き続けるのが仏教の核らしい。
まさに僕の境地。
僕ってブッディストだったんですね。
「○○宗」とかはまったく興味ないですけど、今後仏教にまつわる本を集めようと思います。
そして早く宗教を開きたいと思います。

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ネガティブ→ポジティブ [2009年06月13日(土)] 

あまり自覚は無かったんですけど、思えばネガティブ傾向にある日記ばかりアップしてた気がします。
例えば「日本はすでに終わってる」と言ったような。

でも僕としてはまったくマイナス面を押し出そうとしてるんじゃなく、むしろ逆です。
というか僕自身、常にハッピー&ハッピーな毎日を過ごしております。

他にも「誰しも入れ替え可能である」というような事も言います。
どんな人も唯一性など無い、と。


繰り返しますが、ネガティブな意味で発言しているわけじゃありません。
幸福になるための足がかりとして受け取っていただきたいのです。

日本はすでに終わってる。その先どうするんだお前は。
誰もが入れ替え可能だ。その先どうするんだお前は。

そういう提言をしています。
日本がすでに終わってるとし、自分が幸せになるためにどんな思考を持ち、どんな行動ができるのか。
誰もが入れ替え可能であるにもかかわらず、なぜかたまたま現在このような状況に存在している奇跡を感じれているのか。


これはまったくの個人的な見解ですけど(というか全部そうだ)、哲学的思考を持ってない人はメンタル的にやられやすい気がします。
なんとなく。

乱暴に言うと、すごい嫌な事があって落ち込んでも「どうせ今いる世界は電脳世界なのだ」とか「パラレルワールドのひとつなのだ」とか発想して退避できる、という事ですね。

哲学を持ってないと、現在のこの世界のくだらなさをモロに喰らいます。
哲学者の永井均も言っているように、日本はドラえもんなどで小さい時から哲学性に触れているので、哲学的思考は養いやすいはずなんです。

でも「哲学なんてどうせ無駄じゃん」とか思われてそう。
僕からすれば「無駄だからなんなんだよ」って感じですけど。


思考がバラバラで人格が乖離しているようにすら見受けられる僕ですけど(あくまで「こう思う人もいるかもなぁ」ぐらいの意味ですよ。狙ってやってたらかなり痛々しい奴ですよね)、そこには哲学が横たわってたんですね。

哲学的思考を育てて人生お気楽にしあわせにいきましょう。




さっき買い物から帰ってきたんですけど、パソコンつけっぱなしにしてたらこんな文章が残ってました。
でも読んでみたらそんなひどくもないので、このまま更新しようと思います。
日記書く時間も無いっす。

日記が保存された日付が2010年とかなってるけど、ちょっとパソコンの調子がおかしいのかも知れないです。

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にんげんは永久に幸福になれない [2009年06月07日(日)] 

僕は今まさに、この瞬間に「にんげん」になってしまいました。
残念なことに「にんげん」になってしまったので、以前と違って「にんげん」的な思考しかできません。
例えば「人生とは何か」であるとか「好きな人を喜ばせるにはどうすればいいか」であるとか「なぜ人は悪い事をするのか」というような思考です。
「にんげん」になる以前はそうじゃなかったのに。

卑近な例を出すとすれば、人がロボットになった時を想像すればわかりやすいかもしれない。
ロボットになった時にはすでに人の時にできた思考は無くなってしまう。
ロボットはロボットとしてしか振る舞えない。
当然「昔は人だった」とすら思考できません。

僕の場合も一緒で、ついさっき「にんげん」になった僕はそれ以前の思考はできなくなってしまいました。
あくまで「にんげん」的な思考しか持ち得ない。
なので「にんげん」的に「人とロボットの違い」という例しか出せません。

でも僕はたしかについさっき「にんげん」になってしまったのです。
「にんげん」になってしまったので、どうしても人の目線でしかものを語れなくなってしまいました。
倫理や魂や個性が存在しない世界こそが幸福な世界かも知れないのに、「にんげん」の僕にはそのような思考ができません。
以前の僕は「倫理」や「魂」や「個性」や「思考」や「世界」や「僕」すら存在しないステージにいて、それこそが幸福だったと思っていたかもしれませんけど、「にんげん」の僕からはそれがどんなものか、どんな幸福なのか計り知れません。

どうして「にんげん」になってしまったんだろう。
「にんげん」の僕から見れば、以前の僕は不幸にしか思えません。
倫理も魂も無いなんて。
でも実際に倫理や魂や………、が存在したかどうかすら「にんげん」の僕にはわからないんですけどね。


とにかく。僕には「にんげんになってしまった」という感覚が存在するのです。



ちょっと短い文章で難解になってしまいましたけども、要するに「人がロボットになってしまったら、人だった時の記憶を忘れ、ロボット的に振る舞うしかない」という哲学的思考実験の発展系です。
人よりも高い(もしくは低い)ステージにいた存在が、人になったら。
でもどうやら人よりも幸福度は高いようだ。
でもでも、人は人としての幸福度しか計り得ない。

人とアリを比べた時、人は「絶対アリなんか嫌だ」と思うでしょうけど、アリになったら人の思考はできません。
アリはアリの幸福を満喫するしかありません。
というかアリは自分が幸福だとすら感じてないでしょう。

そう考えると人が一番不幸ですね。
人じゃない存在はみんな幸福です。

人は人である以上、人的な幸福しか追求できず、そして人であるがゆえにその幸福は達成が不可能です。

「アリ」も「ロボット」も「にんげんになる前の僕」も全部幸福であるにも関わらず、「人」だけが永久に幸福になれないとは。
なんと脆弱な存在なんでしょう。

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記憶は正しいのか [2009年05月01日(金)] 

記憶を扱った作品はいっぱいあります。

記憶を失う。
記憶と現実が食い違いを見せる。
物語の終盤でかつての記憶を取り戻し愕然とする。

「記憶もの」は、当人以外の誰かが存在して成立するものがほとんどです。
そしてそれは、観客である我々が担う場合もあります。


「記憶を失ったんだよ」と判定してくれる人が誰もいなかったらどうだろう。
自分も永久に「記憶を失ったという事実」に到達する事が無いとしたら。

答えは簡単で、「何も変わらない」。

周囲の人もその人物がそのような人物であるとしか認識できず、当人も昔から自分がそのような人物であるとしか認識できない。

でも日常のほころびから「もしかして今の記憶はあとですげ替えられたものなのかも」と思える瞬間が訪れる。

突然の来訪者や小さい頃の記憶の曖昧さなど。
それにより、今の自分は偽物なんじゃないか、と地盤が揺らぐ。


記憶を無くす事で現在平穏に過ごせているかも知れない。
旧友に久しぶりに会い、そいつが自分の記憶とまったく一緒の思い出話を語り始めたとしたら。
旧友が勘違いしてるのか、自分が勘違いして旧友の体験を自分のものと思い込んでるかはわからない。

特に小さい頃は視点が不安定だ。
そして記憶の連続性もあまり無い。
手が届く範囲が全世界。
大人になって、「全世界」の範囲は広がるけど、それすらまだまだ世界の一端でしかない。

今の記憶は本当に自分の記憶と言えるんだろうか。
いや、この問いはおかしい。
我々は「今の記憶は本当に自分の記憶だ」としか認識できない。
日常のほころびからすべてが明らかになるのを待つしかない。
多くの人は、「そんなもの知りたくない」と思うでしょう。
確かに「日常のほころび」が正しいかどうかすら判別できません。

だとしても。
僕は、僕のこの記憶がすべて間違いだった、という馬鹿馬鹿しさを待っています。
そんな世界じゃなきゃ生きるに価しない。

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「さかもと」はなんで良い事をするの? [2009年02月25日(水)] 

最近あえて僕がした良い事を日記に書いてます。
あえて。

以前から書いてる事ですけど、「世界がどのように見えているか」という事につながります。
ここでの「世界」とは、シンガポールとかバリとかイタリアとか日本とかの「世界各国」という意味ではありません。
地球や銀河や宇宙を含むすべてという意味であり、「世界の見え方」とはつまり、「どのような生を生きているか」という構えでもあります。


僕は良い事をしますけど、見返りは求めません。
お礼言われてにこにこするぐらいです。

ただ、その人が他の誰かに良い事をする事のみを求めています。

僕は、目の前の人に1000円渡して、その人から1000円返してもらうようなレベルで「世界」を考えてません。
目の前の人に1000円渡す。
その人が、その人の大切な人に1000円分の何かを渡す。
それを受けて、その人がまた別の誰かに何かを渡す。

それが何年の期間か、1000円が何に変化するか、それはわかりません。
僕と関係する誰かにいつか渡ってくるかも知れないし、そうじゃないかも知れない。
未来の僕の子孫に渡るかも知れないし、そうじゃないかも知れない。

「世の摂理は人智を超える」

社会学的視線を持つ「さかもと」は、良き社会を目指すために人と人とがつながり、お互いがお互いのために良い事をし合える環境を目指せ、と言います。
でも僕は、そもそも社会に期待していません。
どうなろうが知ったこっちゃないと思ってます。
くだらない社会にしかならないのであれば、それはそもそもそのようにしかならない社会でしかありません。

僕はそんなレベルで行動していません。
単純に、周りの人が笑顔なら楽しいから、楽しくなるように振る舞うだけです。
その行動が遠くの未来の、遠くの国の、僕の知らない僕の子孫を幸福にするかも知れないけど、そんな事はどうだって良い。
そりゃあ幸福になってくれるんだったら、それに越した事はありませんが、「風が吹けば桶屋が儲かる」「人間万事塞翁が馬」です。
ひとつのアクションが、どんなリアクションを呼び起こすかは誰にもわからない。
幸せが不幸を、不幸が幸せを呼び込む、かもしれない。

そんな事よりも、「世界」の凄さに撃ち抜かれる事の方が大切です。


僕はもう二度と合わないような人に親切にします。
なぜなら世界は凄いからです。
「世界」に関わろうとかそんな意味じゃないです。
端的に「世界」が凄いだけです。

僕らが住んでる社会や、この「世界」がどうなろうが構いません。
それをひっくるめて、全てが凄いんです。

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哲学の深度 [2008年10月14日(火)] 

短期間の内に14冊ほど本がたまった。
小説が多め。
社会に関わりのあるものと言えば「希望格差社会」山田昌弘著と、「風俗お作法」松沢呉一著ぐらい。
「ゲーム理論トレーニング」も社会に入れていいかな。
(「ゲーム理論」とは、将棋やポーカーなどを想像していただけるとわかりやすいでしょう。相手の出方によって自分がどう出るか、というようなもの)

推理小説は現実からかけ離れたものであるし、「哲学」については社会とまったく関係がありません。
(そこまででも無いんだけど、展開上わかりやすくしてみました)

「翔太と猫のインサイトの夏休み」永井均著
「<反>哲学教科書 君はどこまでサルか?」ミシェル・オンフレ著、嶋崎正樹訳
この2冊は社会とまったく関係がありそうに無い。
哲学大好き。
社会学モードで社会批判をするのも好きだけど、哲学モードで哲学に埋没するのも好き。

哲学は社会を救う事は無い。
でも僕の事は救ってくれる。

社会的には何が悪か選定する事が可能です。
物を盗んじゃいけないとかね。他人に迷惑が掛かる事はいけないとか。
でも哲学的に考えると、何が良い事か悪い事かなんて存在しません。
究極的には善悪なんて無い。
「人から見て」などの視点を導入して、ようやく善か悪かが決まる。
逆に言うと、「善を定める事は悪が決定される」という事です。
悪魔は忌み嫌われますが、悪魔からしたら天使が「悪」。


この世は「起こった事」で成立してますが、「起こらなかった事」こそが重要だ。
善悪が無い世界を考える事で、善悪があるこの世界を深く思考できる。

数え切れないほどの可能性を排除してこの世界は存在している。
その中で僕は、「起こらなかった世界」に興味があるだけです。
会話がたまたま通じない社会。言語と発話が一致しない社会。視覚と認識が一致しない社会。
そして、神が存在する社会。

無駄な事を考えずにいられません。
「すべての人間は実はロボットかも知れない」という世界じゃないと生きられない。
「すべての人間はロボットでは無い」と断言する世界では生きられません。


哲学に詳しい人じゃなく、哲学的深度の高い人と会話がしたい。
デカルトだのニーチェだの名前を出されても知らない。
その人がどう考えているのかに興味があるのであって、どう考えさせられているのかに興味は無い。

当然、誰もがロボットである可能性がある以上、誰もがプログラムという形で「思考させられている」かも知れないんだけども………

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言葉にできないってなんだ? [2008年07月08日(火)] 

言葉にできない事がたくさんある。

一応これには二段階あります。
僕が以前から言ってきたのは、一段階です。
つまりは、「感情は言葉にできない」という部分。

まずは難解な言い回しをします。

もし「好き」という言葉が先にあり、相手を「好きになった」としたら、それは倒錯していると言えるでしょう。

なぜなら、「人は、好きになったから好きになったのであり、好きになる為に好きになる事は順序がおかしい」からです。
別に、セックスしてから好きになるのがおかしい、という意味ではありません。
好きじゃなかったけど段々好きになってきた、という事でもありませんから、お間違えなの無いよう。


会話したり、触ったり、笑って欲しかったり、クンニしたかったり、手をつなぎたかったり、などなどある中で、この社会ではとりあえずそれらを「好き」と表現する。
だから「好き」と言う事にしとく。

「感情は言葉にできない」とはそういうレベルの事です。


では更に上の段階の「言葉にできない事」とは何か。

わかりやすく言うと「神」です。


低次元の神と、高次元の神がいます。
(「あー、今言葉にしたじゃーん」などと子供みたいな指摘をする方は、正しい。厳密には「言葉にできない事を説明する」という事なので、相変わらず言葉にできない「神」については永久に書き記す事はできない)

低次元の「神」は、みなさんが「神」というドットの黒い集合体を目にし、想像できるようなあれです。
そう、それ。まさに。今思ってるような、それ。

有形無形はもとより、超自然的、宇宙意志的、不可視的なものを全て含める、あれです。神的なあれ。


では高次元の「神」とは何か。
それはまさしく「言葉にできない部分」。

虫かごの中の虫を観察する僕らを想像してみてください。
僕らは虫にエサを与えたりできます。
でも虫かごに入る事はできない。

高次元の「神」は、我々のフィールドに立てません。


高次元の「神」が世界をこのように設定しました。
5分で世界のすべてが更新される。
5分前は女の子で、現在日記を書いている人物は僕という男で、5分後は犬のメスで……、という具合に。
当然世界の方も、5分前は中世ヨーロッパで、現在の僕は日本で、5分後は金星で……、という具合です。

でも誰もこれを判別する事はできない。
なぜならすべてが更新されているからです。

僕は「そんな事はありえない」としか言えない。
なぜなら言葉しか持たされてないからです。

「ありそうもない事ができるからこそ高次元の神なのだ」というような、とてもわかりやすく、かつ、ありえる表現法でしか、「神」について書けません。

言葉の時点でまだまだ「神」は出現しない。
人の思考の時点でまだまだ「神」は出現しない。
というか、「神」は永久に出現しません。

そういう意味で、僕は「無神論者」です。
人々が不幸になるような世の中だから、神なんて存在しない、というレベルでの「無神論者」とは全然違う。
人々が幸福になったごときで神を信じるような奴らだからです。


「神」が、人に幸福や試練を与えるはずがない。
人が認識や想像や妄想や発狂や………などなどができるようなものを与えるはずがない。


「言葉にできない事」についての考察は難しい。
文章力が無いので、うまく説明できない。
しかも、文章力があり、万人にうまく説明できたところで、「高次の言葉にできない事」とはまったく関係が無いのだ。

無駄とかのレベルじゃない。
むしろ、無駄ならまだましだ。1つ無駄だとわかった事により、他の領域に何か隠れている可能性が残されるから。

無駄というのではなく、むしろ我々には、すでに全て与えられている。
その「全て」の中に「高次元の神」がまったく存在しない。


ちょっと意味がわからない事を書き過ぎました。

別の角度からまた考えてみようと思う。

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世界はスゴイ 聖性について [2008年06月16日(月)] 

最近、詩を投稿した。
(「生きる価値の無い世界だから生きる」)

その内容に合わせて、今日は日記をつづって行こうと思う。



詩の内容を要約すればこうだ。
(詩って短いものなのに、さらに要約するって、馬鹿みてーだな)

世界は端的にスゴイ。でもスゴイから生きられる訳でもない。
鉄塔や風になびくビニールのひもに、世界の凄さを体感する。聖性に撃ち抜かれる。

なぜだか知らないけど、自殺する勢いと同じように生きる決意をする。
死んだように生きるのでは、決してない。
自殺する勢いのまま、あえて生きるのだ。

やがて鉄塔やビニールひもなど、外部にあった「スゴサ」が、実は自分自身の内部に存在している事に気付く。


こんな内容です。

鉄塔を眺めたり、風になびくビニールひもを眺めるのは僕の事です。
他にも、川の流れ、大勢の人がそれぞれ別の目的で歩行する速度、くらげ、などを眺めていたい衝動に駆られる。

世界はスゴイ。
「人が鉄塔を作ったから」とか「人類がここまで繁栄したから」とかの理由じゃない。
確かにそれもスゴイんだけど、さらにスゴイ事がある。

「そうじゃなくても良かったのに、なぜだか知らないけど、たまたま偶然そうなった」という部分だ。

ビニールのひもが風に揺れている。
でも、風が吹かなくても良かったはずだ。高気圧や低気圧が原因で風が発生するが、そもそも気圧なんて無くても良かったはずだ。
上から下に物が落下するようにならなくても良かったはずだし、水が蒸発しなくても良かったはずだし、酸素が誕生しなくても良かったはずだ。

この世に存在する物理法則の、どれかひとつでも欠けたら世界は存在しなかったそうだが、それでも良かったはずだ。


なぜ僕はここにいるんだろう。
ほんのちょっとした事で、僕はここに居なかったであろう事が容易に想像できる。
だからこそスゴイ。


スゴイから生きられるのと同じように、スゴイからこそ打ちのめされる。

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「絶対彼氏」と「僕の彼女はサイボーグ」から見る、人と機械の境界線について [2008年05月08日(木)] 

僕の大好きな映画「運命じゃない人」の内田けんじ監督が、「アフタースクール」という新作を撮ったみたいです。
5月24日公開。
観に行こうと誓う。


映画で、「僕の彼女はサイボーグ」というのをやりますね。綾瀬はるかと小出恵介のやつ。
テレビでは「絶対彼氏」というドラマがフジテレビで放送されています。
相武紗季と速水もこみちのやつ。
こちらは、速水もこみちがサイボーグです。


相武紗季はコンタクトレンズのCMに出てまして。眼鏡かけて。
まさかここまで売れるとは。

ドラマは一瞬だけ見ただけなんで、詳しい内容は知りませんけど、どうやら、相武紗季が速水もこみちロボットを購入し、自分好みの彼氏に設定した、というのがあらすじみたいです。


僕が一瞬見た時に、「なんか嫌」と思ったので、その事について書こうかな、と。
その流れで、「人とロボットの違いとは何か」と言うような、哲学的なお話に持っていく予定。


速水もこみちロボは、ナイトという名前のフィギュアらしい。マンガが原作みたいなんだけど、ドラマとは全然別物みたい。

設定されると、彼女を守る為に行動し、プログラム通り、彼女に愛を囁いたり、彼女が他の男としゃべってると嫉妬したりします。

そのナイトの事が好きになった彼女の友達は、隠れてナイトとキスをしました。
この時、ナイトの記憶は消去され、キスした女の子の事を新たな「彼女」と認識します。

ここで僕は「ん?」と思った。
「パーマン」に登場する重要なアイテムで哲学的でもある「コピーロボット」がありますけど、あれは、鼻を触ると、触った人や動物と同じ形に変化します。
んで再び鼻を触るかぶつけるかすると、元のコピーロボットに戻る。

この単純な設定のせいで、大事な場面でコピーロボットに戻ってしまったりする展開が何度かありました。


「絶対彼氏」のロボットも、他人とキスしたごときでフォーマットされてしまうという事で、ここに違和感があります。
あんなに彼女の為に尽くし、彼女を守り続けたナイトロボットが、彼女以外とキスしたら設定が更新されてしまうなんて。
人間にしか見えないほどのハイテクなのに、なんでこんな馬鹿なプログラムにしたんだ。


他の女性とキスをすると、ロボットは自分の名前すらも消去されてしまいます。
現時点で「元彼女」という立場の相武紗季は、何が起こってるのかわからず、自分をちやほやしないロボットにいろいろ話しかけます。

んで「元彼女」が、「あなたの名前はナイトでしょ。職業は清掃員で」と、かなり説明的なセリフを吐きます。
するとロボットは、それを入力。設定されるのでした。

こんなんで良いの?
彼女設定した人物以外からの入力も受け付けるなんて。


彼女Aがキスをします。
人物Bが名前や職業などを設定します。
それが気に入らない彼女Aは、フォーマットする為に、彼女Aじゃない誰かにキスしてもらわなければならない。
(物語を知らないので、他にフォーマットする方法があるのかも知れませんが。というか無きゃおかしいだろ普通)


例えば、彼女設定してない他人から、「あなたはナイトという名前で、清掃員のバイトをしてるのよ」と言われたら、それを彼女に復唱して確認するとか。
それで認められたらプログラムに組み込めばいい。

こういう細かい部分がすごく気になる僕。
科学的な技術の問題、とか以前の、人間がどういうプログラムをしようとするか、という部分が気になる。

よくドラマで、電話切れてんのに「もしもし? もしもーし!! 切れちゃった」とかやるじゃないですか。
たぶん電話の音とかは、あとで入れてると思うんで、役者の人は悪くないと思うんだけど、あの音の入れ方はおかしいでしょ、普通。
そういうレベルで、ロボットの設定がおかしい、って事です。



ロボットは限りなく人間に近付きたい。
「絶対彼氏」のナイトは、自分がロボットである事を認識しているようです。

ロボットは自分の事をロボットだと思ってるんだろうか。
自己認識プログラムを「ロボット」に設定しないと、自分をロボットと思えないだろう。

では「人間」の場合はどうか。
同じ論理で、「お前は人間だ」とプログラムされたものは「自分は人間だ」と思い込む事だろう。
それが「人間」だろうが「ロボット」だろうが。

速水もこみちロボットを見てわかるように、綾瀬はるかサイボーグを見てわかるように、人間とロボットの区別はありません。
ドラマの設定上、わかりやすいロボット仕草とか、サイボーグ思考とかは可視的になってますけど。

「自分はロボットだ」と思い込んでいる人と、
「自分は人間だ」と思い込んでいる機械と、
どちらが「ロボット」で、どちらが「人間」なのか。


前者を「ロボ思考人間」。後者を「魂のあるアンドロイド」としましょう。

ロボ思考人間は、胃や腸や心臓などがあり、血液や細胞などもあり、どう検査しても人間という結果しか出ません。
でも本人は、自分がロボットだと思っている為、それらの臓器は設計者が「より人間に近付く為に」と作ったものでしかないと思っています。
ロボ思考人間が見る世界も、ロボットが見ているものとして認識し、処理します。


一方、魂のあるアンドロイドは、自分の事を人間だと思っている為、内部の金属や回路や銅線やオイルなどを見ても、それらが骨や神経や血液にしか見えません。
自分には「心」があると思っているし、風景や音楽と接して癒されると思い込んでいます。


わかりやすく設定を作りましょう。

「ロボ思考人間」は、どんな外部反応も、すべて自分がロボットだと思い込むように認識します。
(誰かに「お前は人間だ」と言われても、「お前は機械だ」と聞こえる、というような)

「魂のあるアンドロイド」は、どんな外部反応も、すべて自分が人間だと思い込むように認識します。
(レントゲン撮影で内部を見ても、人間のものにしか見えず、内部を手術されても、人間の手術にしか見えません)


ここまで書くと、慧眼なみなさんはお気付きでしょうけど、「魂のあるアンドロイド」こそが人間で、「ロボ思考人間」がロボットになります。

「魂のあるアンドロイド」にだけ心を許せ、人として愛せ、魂があると思えます。
隣の人とどう違うのか。
友達や恋人とどう違うのか。
親とどう違うのか。


人間に「あなたは機械ですか?」と問うと「違います」と答える。
魂のあるアンドロイドに「あなたは機械ですか?」と問うと「違います」と答えます。


「魂のあるアンドロイド」を作ったのが誰だかわかりませんが(それこそ、魂のあるアンドロイドかどうかすら!!)、その完璧なる設計者は、人間を作り出す事に成功したようです。

「人間だと思い込むプログラム」こそが、人間の人間たる所以だと。


普通の人がロボットを作る場合。ゲームを作る場合。
それらに自覚させるプログラムを組み込まない。
自分がロボットである事や、ゲームキャラの一つでしかない事などを書き込まない。

じゃあ人は?
当然人も、「誰か」に造られている以上、自分が何かに造られているというプログラムは書き込まれていない。


「絶対彼氏」の速水もこみちや、「僕の彼女はサイボーグ」の綾瀬はるかを見て、これこそがアンドロイドだ、と思えるプログラムを組み込まれた我々は、永久にこの世界から脱出する事はできない。

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神学論的、内環的 [2008年05月03日(土)] 

最近、神学論的な対話をしております。

神学論って何? という方は、むしろ僕が知りたいぐらいですよ、まったく。


僕は無神論者です。かつ、無宗教。

対話中に、無宗教とか無神論者とか言うと、周りとの関係があまりうまくいかない、というような意見を聞きました。
いちいち会う人会う人に、「どの宗教ですか」とか聞かないので、僕の周りの宗教分布はさっぱりわかりませんけど。
結構みんな、漠然とでも「神さま」を信じて生きてるのかもしれない。


「神が人を造ったのではない 人が神を造り出したのだ」
という言葉があります。
僕はまさにそうだと思っています。

他に、「人が神を認識できるとしたら、おそらくそれは神の形をした悪魔だ」という言葉があります。
僕が作ったんですけど。

とりあえず、これらが僕の意見だという事で話を進めましょうか。


神ってなんだろ。
僕は無神論者ですけど、神はいると思っています。
ちょっと表現が難しいんですけど。

僕は、人間ごときの為に存在するようなものは、神だと思っていません。
ただの商売を宗教だと思ってるような奴は馬鹿だと思ってるし、心霊的なものもまったく信じてないです。


心霊的なものは信じてませんけど、「見える・見えない」は話が別だと思っています。
これだけ見えるって言う人がいるんだから、幽霊とかが見える人はいるんでしょう。

対話中に出てきたので、「共感覚」というのがあります。
共感覚というのは、例えば見たものを味で感じたり、音を色で感じたりする、という脳の異常というのか、そんなやつです。

脳を扱った番組で、生まれてからの記憶を失わない男というのが紹介されてました。
記憶を失わない理由として、共感覚が全てに及んでいた、というのがあったのではないか、とされています。

つまり、見たものを、匂いや音や皮膚感覚など全てを使って覚えていた。
よく、何かを覚える時に、香水の匂いを嗅ぎながら覚えると、その匂いで記憶が呼び起こされる、という記憶法があります。
それのフルバージョンが、記憶を失わない理由では? とされてました。


さて、話を「幽霊」に戻しましょうか。

「共感覚」と「幽霊」に、何らかの関連があるとしたら、どうでしょう。
普段生活している上で、ある状況下に置かれた時に呼び起こされる記憶があるとします。
今回はわかりやすく、「じめじめした薄暗い部屋で恐いテレビを見てた」という経験がある人を例にします。

この人は、雰囲気が悪い部屋に入ると、よく幽霊を見る。
当然他の人には見えません。

夏の蒸し暑い夜。肝試しにと、廃墟へ出掛けたこの人は、そこで幽霊を見ました。
さて、この「幽霊」。
実は、以前テレビで見たものだとしたら、どうでしょうか。

この人の共感覚により呼び起こされた記憶を、起きている現在に体感する。


これが僕の「霊感=共感覚」理論です。



では「神」はどうか。
神も、ある程度「神=共感覚」理論で説明できるかもしれません。

見たものを味覚で感じるみたいに、聴覚や触覚に変換させられる「何か」が存在するとしたら。

僕はマンガとか読んで感動すると、肌がビリビリします。ざわざわ、って。
そんなのが形として見えたり、その時だけ普段の周波数を越えた音に聴こえたりしたら。


最初の方で僕は、「人ごときが感知できないものこそが、神的なものだ」と書きました。
人はやたらと人間中心に神を描きたがる。
人が大勢死んだ時など、「この世に神はいないのか」などと言う。
なぜ、神がいるからこそ、アメーバがマグマに飲まれるのと同じレベルで大勢の人が死んだのだ、と考えないのか。

僕ごときが思い描く神なんて、程度が知れてる。
人が思い描く神なんて。生物が思い描く神なんて、程度が知れてる。

「神は細部に宿る」という言葉があるけど、正確には「神は細部に "も" 宿る」だろう。



「ロボット感情論」みたいな、哲学的なお話をしました。
いろいろな問題が絡んできますけど、要約すると、

・人とロボットの違いは何か
・ロボットはどこまで人に近づけるか
・我々は誰かの作ったロボットではないと言い切れるか

というようなものになるでしょう。


何度かサイトでも触れてますけど、僕はロボットではないと言えるでしょうか。
僕と実際に会った人や、掲示板に書き込んで僕のレスを読んだ人はわかると思いますけど、「こんにちは」と言われれば「こんにちは」と返し、微笑みかけると笑顔を返す反応をします。

はたして僕は「こんにちは」の社会的な意味を理解していると言えるでしょうか。
はたして僕は笑顔の意味を理解してると言えるでしょうか。


反応だけなら、ゲームプログラムでもファービー人形でもできます。
姿かたちが違うじゃないか、と問われたら、精巧に作られたのだ、と返せるでしょう。


人は人を造り出せない。
箱の中に入って箱を作ると、どうしても最初の箱よりも小さいものになってしまうように、人は人と同じ大きさのものは造れないのではないでしょうか。

では、神的な上位概念が人を造り出していたらどうか。
筋肉や眼球や、細胞や血液や……、を造り出すぐらいですから、人智を遥かに超えた科学力を持っている事でしょう。
(おそらく「科学」なんて下等な単語は無いんでしょうけど)


そしておそらく、その上位概念達は、人類には自分らの姿が見えないようにプログラムする事でしょう。
ダミーとして「神を信仰する」というプログラミングはされてるだろうけど。

となると、「神は自分の姿に似せて人を造り出した」のではなく、その上位概念は自分たちのダミーとして神を造り出したのです。


でもすごい矛盾した書き方ですね。
人が、人を造り出した存在を想像できないのに、なぜ僕が想像して書けるのか。

たぶんすごい存在なので、僕のサイトのアクセス数とかも見てるんですよ、きっと。
「このサイトなら影響力無いな」、ってコラ!!
神と見紛うほどの崇高な当サイトに向かって、そんな暴言を。



鏡を見て自分を投影するのと同じように、ロボットを見れば自分とロボットを、犬を見れば自分と犬を、それぞれ重ね合わせて考えてしまう。
ロボットが何を考えてるのかわかんないように、隣の人も何を考えてるかわかんない。

ロボットが「あなたを愛しています」と言ったかと思えば、隣の人も同じ音声出力をしている。

そして、それを聞いている自分自身も、その音声の意味が何か、その認識の変換の仕方が正しいか、そもそも自分が一体何なのか、永久に知りえない。


10年以上前、トータス松本は「人生とは勘違いである」と言ったが、それではまだ足りない。

「世界とは勘違いである」

永久に勘違いし合い、永遠にすれ違ったまま、人は愛し合い殺し合い、生物は繁栄し滅亡し、地球は、銀河は、回転を続ける。

なんと素晴らしい世界。


「神は細部にも宿る」

あなたが手を添えているマウスの、次にする数ミリの動きが、10000光年離れた星の消滅につながっているのかも知れないのだ。


奇跡など存在しない。なぜなら、すでに、全てに、当然のごとく逃れようもなく君にも!! 常に奇跡が貫いているからだ。

テーマ: 哲学/倫理学 - ジャンル: 学問・文化・芸術

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