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実存浮遊

映画やアイドルなどの文化評論。良い社会になるために必要な事を模索し書き続けます。

映画『イニシエーションラブ』のオチについて 

小説『イニシエーションラブ』を読んだので、評価がなかなか高い映画版も見てみたいと思いました。

以下、小説版と映画版のネタバレ全開なので両方見てない人は絶対に読まないでください。

ネタバレじゃない感想としては、木村文乃さんが超絶かわいいのでそれを見るだけでも十分価値があります、ということです。
ドラマ『マザー・ゲーム』も見ているので木村文乃さんがさらに好きになりました。
80年代っぽさが微塵もありませんが。



■ 【ネタバレ注意】小説版を映画化するということ



まずこの小説は映像化不可能である、という前提があります。
細かく言うと、映像化はできるが映像にしてしまうと真の面白さを大きく損ないます。
なぜならこの小説は「叙述トリック」だからです。

「叙述トリック」について説明すると、読者の思い込みを利用した作者が仕掛けたトリック、と言えるでしょう。
通常の推理小説は、小説の中に登場する犯人が警察などを騙すために密室トリックなどを仕掛けます。起こっていることは作品の中です。
一方「叙述トリック」は作品の中で騙されている人はおらず、あくまで騙されていたのは読んでいる人で、騙そうとしているのは作者です。

例を挙げます。

都内の高校に通う真弓とリカコは恋人同士だ。女子大に行くことが決まっていたリカコ。大学生になったらはなればなれになってしまう。真弓は弁護士になる夢を蹴ってリカコと同じ女子大に入ることに決めた。

真弓が実は女だった、という叙述トリックです。恋人同士だから勝手に読者が男女のペアだろう、と思い込んでいることをトリックにしているだけで、作中の登場人物は誰も騙そうとはしていません。


これらを踏まえると、「叙述トリック」である『イニシエーションラブ』を映像化することがありえないことがわかると思います。
小説版はside-Aとside-Bに登場する主人公が別人であるというオチになっています。
マユちゃんと付き合っていた二人の男性がどちらも鈴木姓で、「タックン」とマユちゃんから呼ばれていることで同一人物だと誤認させられている状態だったわけです。

映画版ではそこをどう対処したのか。
それはAの主人公を太らせ、Bの主人公を松田翔太にし、Aが痩せた結果が松田翔太である、と誤認させようとしたのです。
確かに映画的な共理解(演出とはこういうもんだ、的なやさしい納得)を利用したトリックと言えるでしょう。

でも小説をすでに読んでいる人にとってはあからさまに人が切り替わったことになってしまいます。
小説版の「叙述トリック」の衝撃は、最後の最後まで思い込まされていることにあります。
まさに世界が揺らぐような感覚はこの映画では体感できないのではないでしょうか。
(小説を読まずに映画だけ見た人はその後どう感じたのか知りたいです)


■ 映画版のオチ案

映画版のラストは、AとBがクリスマスの日に出会うという展開になっています。
同じ人物だと思ってた人が同じ画面の中でぶつかってしまう。
確かにこれはすごい衝撃なのかも知れません。

ですがやはり小説を読んだ人にはすでに当たり前だったことですので衝撃が少ない。

では「繭子」が実は双子だった、というオチにしてみてはいかがでしょうか。

「繭子」と「マユミ」という双子がAとBとそれぞれ付き合っていたとしたら、これは小説を読んでいた人にとっても騙されたことになったのではないでしょうか。
そして映像ならではのトリックでもあります。
同じ顔をしているのだから「マユちゃん」は一人しかいないと思っています。

もちろん「双子オチ」自体はつまらないものでしょう。
ですが「小説版をすでに知っている人を騙すための映像的叙述トリック」としては正当な気がします。

もちろん「繭子」と「マユミ」をどのぐらいの割合で混ぜるかは監督の技量に掛かってきます。
でも観客が「マユちゃん」と思って見ていた人物が、堕胎した繭子と便秘が解消したマユミとで別人だったとするのは、原作を壊しつつ観客も華麗に騙される良い案だと思います。


■ 最後に

何度も言いますが、叙述トリックは叙述トリックものだと思って読んでも何もおもしろくありません。
何気ない小説だと思って読んだら世界が崩壊していく。
この体感が素晴らしいのだと思っています。

元々小説をあまり読まないので叙述トリックに出会ったのは5作ぐらいしか思い浮かびませんが、それでもやはり自分の脳が騙される瞬間というのは崩壊と悔しさと世界の奥深かさを知る体験を得られたと思います。


映像としての叙述トリック。一見矛盾しているような言葉ですが、ぜひともすごい映画を見てみたいです。

「忘れないと誓った」のは誰か 映画『忘れないと誓った僕がいた』『メメント』から自分という他者のせつなさを確認する 

読む本が10冊ぐらいたまってて困った。
その上ももクロとかモー娘。の動画とか見ようとすると圧倒的に時間が足りない。
さらにiPhoneのアプリゲームとかやるもんだから常に時間に追われている感じ。
というか時間に追い抜かれ遥か彼方に行っちゃって、僕は一人ぽつんと在宅ヲタを決め込んでおります。
金無いし。

渾身の力作『アイドル感染拡大』が大量に売れ残っており徳井さんや2&の社長に「なんとかなりませんか!」とすがるような想いでお願いしました。
徳井さんは何冊か配ってくださるそうです。芸人さんとかがもっと読んでくれると嬉しいです。
2&については物販にてすでに完売しているそうでした!ありがたや!
追加で置いていただけるので2&インタビューを読みたい方はぜひ買いましょう!
Sakiちゃんからサインしてもらいましょう!


誕生日プレゼントにもらった『文化時評アーカイブス』を読んでるんですけど(4月14日が誕生日だったんですよ、ブログで何も書きませんでしたが)、これがまたおもしろい。
ゲーム実況とかイングレスとか全然趣味じゃないんだけど、人を動かすものというものに大変興味があります。

『アイドル感染拡大』も元はといえばそういった主旨で書き進めたもの。

「ももクロ×ゲーム実況×イングレス」

これで何かできないものかなぁ、などと考えておりました。


ももクロの音ゲーとか、なんかアプリゲームとか出せばいいのにね。

イングレスではどなたかが聖地巡礼のポータル?みたいなのを作られてましたが。

とにかく今後は人を動かさないと生き残れないような状況になっていきます。
それは土地はもちろんそうだし、イベントということでもそうだし、何より個人としてもそうなっていくでしょう。
「この人に会いたい」と思われるような人物になることが重要になります。
もちろんそれらには「面倒さ」がだいぶのしかかってくるんですけど、面倒なことを捨ててオートマティックになっていくと色や匂いが失われる社会になります。


この流れで最近見たあかりんの映画『忘れないと誓った僕がいた』についてクリストファー・ノーラン監督『メメント』をからめて書こうかな。

以下『忘れないと誓った僕がいた』と『メメント』のネタバレを含むので未見の方は了承の上お読みくださいませ。




■ 「忘れない」のは誰か

『忘れないと誓った僕がいた』の設定はとてもわかりやすいです。
早見あかり演じる織部あずさがみんなから忘れ去られてしまう、というお話です。
村上虹郎演じる葉山タカシと出会い、なぜかあずさを忘れないタカシに惹かれ、お互い恋に落ちる。
だけど何かの宿命なのか、恋人であるあずさのことを少しずつタカシは忘れていく。約束の日に約束の場所で会うことすら。


一方『メメント』はとても複雑です。
主人公レニー(レナード)は頭にケガを負い、新しい記憶が10分間しか持たなくなってしまう。
妻を殺した犯人に復讐するために様々な手がかりを追うのだが、記憶が持たないという障害を持つためにやがて誰が真実を語っているのかわからなくなる。
さらにこの映画は結末が最初に描かれ、それから段々シーンがさかのぼっていく、という形を取っています。
映画のラストが物語の冒頭なわけです。


タカシもレニーもどちらも大事なことを忘れまいと奔走します。
タカシはあずさの映像を残したり、部屋の壁にメモを貼りまくったりします。
レニーは身体に重要なことをタトゥーとして刻み込みます。

『忘れないと誓った僕がいた』はせつなく、『メメント』は怖い。なぜか。
「忘れないと」はあずさが記憶のよりどころである壁のメモを捨て去ります(シーンとしては存在しませんが、彼女がタカシの部屋を一人で訪れ、その後部屋の壁がきれいになっていることから想像できる)。
「メメント」はレニー自身がレニーをだましており、さらにはラスト(つまり物語の冒頭)で明かされる真実らしきものも警官がついた嘘かも知れない、というオチになっています。つまり何もわかりません。
レニーは自らが死なせてしまった妻を強盗殺人事件で死んだと思い込むことで生きようとしている、かもしれない。

どちらも記憶の不確かさを描いています。

「忘れないと」では物語の最後にタイトルが出ます。
いつまでも待ち続けるタカシの前に、あずさの友達として伝言を伝えにきた女の子が現れます。その子こそがあずさなのですが、もはやタカシは本人に会っても顔を思い出すことすらできなくなっていました。
絶望したあずさはこの物語から姿を消します。
一緒に撮ったプリクラを見て先ほどの女の子があずさだったと思い出すタカシは彼女を探すために走り出しますが永遠にたどり着けません。
その映像をバックに『忘れないと誓った僕がいた』とタイトルが出て終わるのです。

そもそもこのタイトルにある文章はありえない。
なぜならタカシは「忘れないと誓った僕」のことすら思い出せないからです。
この言葉はタカシは永遠に言うことができない。
では誰が言ったのか。
それは我々観客です。

あずさは劇中こんなことを言います。
「小学校の頃の先生の名前とか忘れてるでしょう。それと同じことが私にも起こっているだけ。それが人よりも早いのだ」と。

僕らも10代の頃、「今が一番最高の時で、この友達とは一生友達のままだ」と確信し共に時間を過ごしました。
でもそんなキラキラした時間を忘れて今生活しています。
だから僕らは「忘れないと誓った僕がこの映画の中ではタカシと重なって見える」とせつない気持ちになるのです。
忘れるわけが無いと思っていた中学生の頃の好きな子への感情も、小学生の頃の親友との笑った出来事も、高校生の頃の憤りも、すべてあえて忘れて今生きています。


人は忘れなければ生きていけない。でもそれはとても悲しいことである。
この当たり前のことを気づかせてくれるとても繊細な映画でした。

映画『くちびるに歌を』は世界の美しさを奏でる 



映画『くちびるに歌を』を鑑賞しました。
素晴らしい映画でした。

以下ネタバレを含む感想となります。


長崎の中学生合唱部と、新たに合唱部の顧問となった元ピアニストの心のつながりを、アンジェラ・アキの『手紙』をテーマに描いた作品です。


■ 方言という共同性

『スウィングガールズ』でも方言が使われていました。
方言は「仲間」の映画表現です。
『スウィングガールズ』では女子高生たちが見た目で全員バラバラなため、方言という仲間言語を使う必要がありました。
もしあれが標準語を話す女の子たちだったとしたら、一致団結とはまた違った見え方になってしまったはずです。

『くちびるに歌を』では、あらたに赴任してきた元ピアニストの女教師が終盤までずっと標準語でいることで、生徒たちと女教師との隔絶をわかりやすく説明しています。


■ 『手紙』に記されている郵便的誤配

東浩紀が『存在論的、郵便的』で「コミュニケーションとは郵便的である」と書いたそうです。未読なので情報のみですが。
コミュニケーションは郵便と同じように誤配や遅配がありえる、と。
向けた人に遅れて届いたり、向けた人とは全然違う人に届いたりする。さらには宛先不明で再び自分に戻ってくる場合もあります。

アンジェラ・アキの『手紙』は15歳の自分が30歳の自分に向けて手紙を出し、それを読んだ30歳の自分が15歳の自分に希望を示す内容です。
映画ではまず主人公の女の子がピアノを弾かない女教師の心を動かします。
そして女教師から大事な時にこそ自分に向き合い逃げない事を諭されます。

女教師はピアノの発表会の当日にフィアンセを事故で亡くし、それを直前に知ったことでピアノが弾けなくなりました。
でも今は親友の出産に届けるために弾きます。

主人公の女の子が記憶も定かではないほど幼い時に聞いた母親の言葉を、自閉症の少年が10年以上の時を経て悩み迷う少女に届けます。

このように、誰かのために発した言葉が遅れて届いたり、ほかの人に届いてしまうことで、未来の誰かを救うこととなるのです。


■ 『くちびるに歌を』のリアルと『幕が上がる』のリアルは別物

『幕が上がる』は素晴らしい映画だと思いますが泣けませんでした。
『くちびるに歌を』は涙が止まりませんでした。

『幕が上がる』は演劇部を描いた映画です。
ももクロが平田オリザのワークショップを受けて演技が変わったことがいろいろな媒体で語られています。
いわゆる「自然な演技」で、演技とも思わせないような言動を取ります。
見ていてももクロであることを忘れるほど自然な振る舞いを彼女たちはします。

一方『くちびるに歌を』は中学生が中学生を演じているのが伝わってきます。
あくまで演技がうまい中学生を集めて中学生演劇部を演じさせた、という感じです。
そしてとても「映画的」な構成をしています。

『幕が上がる』は淡々と時間が過ぎていきますが、『くちびるに歌を』は劇的なことが起こります。
例えばフィアンセが死んだ過去を知らされたり、心臓が弱い元顧問の出産をコンクール発表の直前に知らされたりです。

リアルさで言えば断然『幕が上がる』でしょう。
ですが僕が『幕が上がる』のリアルよりも『くちびるに歌を』の虚構さにこそリアルを感じました。
『幕が上がる』が演技としてリアルなのに対し、『くちびるに歌を』は映画を超えた部分でリアルなのです。

『幕が上がる』はももクロだとは感じさせず、高橋さおり、ユッコ、がるる、中西さん、明美ちゃんがそれぞれ映画の中で生活しています。黒木華さんの素晴らしい演技も大きく手助けしているでしょう。
すごくリアルに見えます。
ですが彼女たちはももクロです。

一方『くちびるに歌を』では映画的な構成で起こる出来事も映画的なので、普段生活している人にはなかなか起こりません。
演技もうまいとは思いますが「演技だな」とわかるものです。
一番大きな理由は新垣結衣の起用でしょう。
彼女がいることで「これは作り物のお話だ」というのがわかるのです。
これは否定でもなんでもなく、見終えたあとで「新垣結衣でなければ成立しなかった。黒木華では絶対に成立しなかった」とさえ思いました。
だからこそ反転して「リアル」だと思ってしまうのです。
映画としての物語よりも、少年少女ががんばっているのが伝わってきます。

そして更に重要なのが「合唱であること」です。
歌は演技ができません。歌が下手な人がプロの歌手の演技をできないように、です。

演出により演技が下手な人を演技が上手な人に見せることは可能でしょう。
(もちろん長時間演技させたら無理が出ますけど)
でも演出により歌が下手な人を歌が上手な人に見せることは不可能です。

ここに「演技の上手いか下手かは判断が難しい」のに対し「歌が上手いのか下手なのかは判断しやすい」という差があります。

言い換えるなら、歌は本人性が乗っかりやすい、となります。
『幕が上がる』はももクロらしさが見えなくなるほどの演技力によって「演技がうまい」と認識しやすく、『くちびるに歌を』は歌に演技が乗っからないことで演技ではなく本人が見えるリアルさに胸を打たれるのです。


■ 「くちびるに歌を持て」

前々項で書いたように『くちびるに歌を』は手紙のように時を経て誰かが受け取ります。

自閉症の青年から今は亡き母親からのメッセージを受け取った少女は、その青年に向けて合唱を送ります。
コンクール会場のロビーで披露されたその合唱は、徐々に他校の生徒を巻き込み、最終的にはその場にいた生徒全員による合唱となりました。
青年に向けたメッセージが、伝えてはいなかった人達にまで広まったのです。
この世界の素晴らしさを象徴しているとても美しい場面です。


前項に書いたように、この映画は演技は演技として見抜けるし、普段の生活では起こらないような起こる上に、とてもわかりやすく物事が進んでいきます。つまり作り物でしかない。
ですが、それ以上に「この世界がいかにすごいのか」を描いているので理由もわからず泣いてしまうのです。
この映画は人間のリアルさを描いてはいないかも知れません。ですがこの世界のリアルを描いているのです。
この世界はこの映画のように、ありえないことがありえ、人間の想像を超えたところで動いている、というのが瞬間的に、肌でわかるようになっています。


「くちびるに歌を持て」
世界の調べは言葉をメロディに乗せて何年後にも残る形で伝承されていくのです。
長崎の方言がメロディとなり、15歳の時と今の自分をつなぐ手紙は、この世界の美しさを伝承するために誤配され続けて行くことでしょう。


世界の暗号を解け 映画『幕が上がる』について 



映画『幕が上がる』を鑑賞。

この世界は知っているものが多ければ多いほど美しさが出現する仕組みになっている。
多くのものは暗号化されているので、解読キーを持っていないと読めない。
解読キーの入手方法は様々で、そのひとつに「いろんな人と話し合う」というのがある。
自分の持っている解読キーを与え、相手の持っている解読キーをもらう。
解読キーを増やすことでこの世界は真の美しさで僕らを出迎えてくれる。

『幕が上がる』はそう言った「人と話す楽しさ」を改めて感じさせてくれる。
同じ趣向の人達で話し合い解読キーの精度を上げることもできるし、全然趣向が違う人達が『幕が上がる』という共通点でのみつながり、多種多様な解読キーを交換し合うこともできる。

暗号解読自体の楽しみは当然あって良いし、それを勧めているかのような構成もあって良いだろう。

ただ、映画に「真理を追究する」という情念がこもっていないと、それは途端に娯楽映画、大衆映画と化す。
映画が金儲けの手段の一つとして見るならそれは正解だ。

「真理を追究する」というのはわかりやすく書くと、なぜ自分が生まれてきたのか、なぜ自分がこの自分なのか、なぜこの世界はこの世界でしかないのか、この世界は正しいのか、などについて考え抜く気概だ。


『幕が上がる』は大衆映画で大成功をおさめるものなのか。
それとも、真理を追究するために必要不可欠な解読キーとなり得るものなのか。
ご覧になった方にぜひお伺いしたい。

「良い映画だった、おもしろかった、このあと何食べる?」系映画なのか。
「映画館を出てもこの映画のことしか、つまりこの世界の謎のことしか考えられない」系映画なのか。

とにかく多くの人にこの映画を見て欲しい。
そして一緒にあーだこーだ言いましょう!


ネタバレ感想 『幕が上がる』の映画の良さと小説のすごさ


映画『ベイマックス』を見て「自己責任論」を排した利他的行動を推奨する国を目指す 




映画『ベイマックス』を見てきました。
いろんな人がおもしろいって言ってて、日本版CMの印象とは違ってロボット格闘アニメだと聞いたので興味を掻き立てられたのです。

ネタバレを含む感想と、最近起こった人質事件の「自己責任論」を絡めた文章になります。了承の上お読みください。


結論から言うと大変おもしろかったです。
とてもわかりやすい流れで、登場人物に感情移入しやすくなっています。教訓も得られるし、始まるまでしゃべってた小さい子が本編中ずっと黙ってるぐらい引き込まれる映画でした。

物語もわかりやすい通過儀礼ものでした。
ある天才少年が兄と博士に影響を受け科学の名門大学入学を目指す。
博士から合格をもらうをも、大学でなぜか起きた火事により兄を失う。大学にも行かず無気力になった少年は、あるきっかけから火事が人為的なものであることを突き止める。
ベイマックスと共に問題を解決し少年は成長する。

細かい所まで行き届いていて、仲間も魅力的だし映像も迫力があり、街並みがリアルで違和感がありません。ギャグも笑えるのでベイマックスに愛着がわきます。

ですがこの作品がおもしろければおもしろいほど、人質事件に対する世間の反応の矛盾が頭をちらつくのでした。
果たして兄タダシの死を「自己責任」と切り捨てられるものなのでしょうか。


■ 「自己責任」だとしても理解不可能な行動をする者にこそ人は惹かれる


人質事件が報道されてからの世間の反応は、「危険な所に行ったのだから捕らえられても仕方がない。わざわざ助ける必要などない」というものでした。

では『ベイマックス』はどうでしょう。
生きる希望を持てなかった少年ヒロは、なぜ成長したのでしょうか。
それは兄タダシの死がきっかけです。

大学が燃え上がる中、博士を助ける為にタダシは業火の中に飛び込もうとします。弟のヒロは止めますがそれでもタダシはヒロの言うことを聞かず飛び込み、その後爆発に巻き込まれて死にます。
ヒロは自分が止められなかったことを後悔し、食事も摂らずに輝きを失ったのです。


紛れもなくタダシの死は自己責任でしょう。
死ぬのがわかっているのにも関わらず火の中に飛び込んだのですから死んだのは自業自得です。
別に悲しむ必要もないでしょう。
これが今の日本の反応です。

でも本当にそうでしょうか。
タダシの死は弟のヒロに受け継がれます。
それは博士の娘を助け出す時に表れました。
瞬間移動の実験の失敗により時空のかなたに消え去ったと思われた博士の娘は、実は時空をさまよいながら生きていることがわかります。
それを知ったヒロはベイマックスと共に時空に飛び込むのです。
帰って来れるかもわからない上に、会ったこともない人物の為に命を懸けたのです。

もしこれで帰ってこれなかったとしても自分で危険な地域に飛び込んだのだから死んでも自己責任だしわざわざ助ける必要もない。
これが今の日本の反応です。


確かに危険な地域に飛び込んで死んだら自己責任です。
ほかの人が押し込んだわけじゃありませんからね。
でも「自己責任」だから、と切り捨てることになんの意味もありません。

理解を超えた行動をする者こそが、誰かに行動をさせる。
ヒロがなぜ会ったことも無い女性のために命を駆けたのか。
それは兄の理解不能な行動を目の前で見たからです。
自分を信じ、大学に入学するための道を開いてくれた尊敬する兄が、なぜだか知らないけどただの大学の先生を助けるために命を懸けた。
ここに理由などありません。理解などの範疇には無い領域の出来事です。
きっとタダシは、助けなければならないと思ったから助けようとしたのです。

なぜヒロはタダシを必死で止めなかったのか。
止めなかったのではありません。
止まらないことが直感でわかったのです。

なぜヒロは時空の空間に飛び込んだのか。
まだ生きているということをベイマックスが教えてくれたからです。
ベイマックスはタダシがプログラムし、タダシが100回近く失敗し続けてようやく完成した記録が刻まれたロボットです。
タダシがしたようにヒロは当たり前のように時空に飛び込みます。


■ 意思を伝達し、行動を引き起こすものの重要性


「自己責任だから」と切り捨てる行動は不幸の連鎖を呼び込みます。
自分は何もせず、自分が理解できない行動をした者を避難し、切り捨て、馬鹿にする。
自分は利口だからそんなことはしない。だから死なない、と。

そういう浅ましい行動は浅ましい者たちを集めます。

逆に、理解不可能で自己犠牲をする利他的な行動は、新たな利他的な存在を生み出します。
つまりすごい人(タダシ)だからこそ世に飽きてた天才少年は惹かれ、この世につなぎとめられたのです。
そして自らもすごい行動をして人を救い出します。


まとめます。
理解不可能な行動を「自己責任」と避難するのはやめましょう。
理解できないけどもそれをせずにいられない人達がいて、しかもその人達に影響され「自分を犠牲にしてでも誰かのために行動してしまう人」が育っていきます。

『ベイマックス』は日本のような街が舞台です。
タダシやヒロがいる日本を誇りに、利他的な行動を推奨するような国になりましょう。


映画『インターステラー』を楽しむための漫画・アニメ3作 



クリストファー・ノーラン監督の最新作『インターステラー』を鑑賞した。

『メメント』に衝撃を受けてそれ以来大ファンになった。作品に共通するのは「あいまいさ」だ。

『メメント』では記憶のあいまいさ。『プレステージ』では自己のあいまいさ。『ダークナイト』では善悪のあいまいさ。『インセプション』では夢と現実のあいまいさ。という具合に、様々な「あいまいさ」を描いてきた。



『インターステラー』はノーラン作品に共通した「あいまいさ」は感じられず。

(あえて強引に結びつけるとしたら「次元のあいまいさ」とでも言えばいいのか)

あいまいさは微塵も入る隙間が無いほどのガチガチのSF作品だった。

(これまた強引に結びつけるとしたら『天元突破グレンラガン』の登場人物ロージェノムは「宇宙とはあいまいさだ。認識されて初めて存在する」と説いた。宇宙というのは不安定である、ということか)





以下ネタばれを含むのでご了承の上お読みください。

また、本文中楳図かずお『漂流教室』と星野之宣の短編『セス・アイボリーの21日』にも深く触れます。こちらの作品も未読の方もネタばれがありますのでお気をつけくださいませ。



■ 『インセプション』との類似


この映画は同監督の『インセプション』と似ている部分がある。

『インセプション』では夢の階層が深くなるにつれ時間の流れが速まっていくので、深い層での1年が現実では一瞬だったという夢のルールになっている。

(一体どこが「現実」なのか、という論争は別記事に譲る。参照:映画「インセプション」に不確かさを植え付けられる


『インターステラー』でも惑星により時間の流れが違うので、その惑星で過ごした1時間が地球の時間の流れでは数十年経過していた、という展開になっていた。

長時間経っているのに現実では一瞬だったという『インセプション』と(渡辺健が老人として冒頭登場するのが後半種明かしされる)、一瞬だけでも地球では数年経過しているという『インターステラー』(冒頭登場する老人が実は娘マーフィーの姿であることがラストで種明かしされる)。



観客は主人公側の視点でしか物語を見ることができない。

『インセプション』では夢というクッションが入っているので数十年の経過を同時に体感しなくても納得しやすい。

『インターステラー』では主人公が別の惑星で過ごしている間、地球では20年以上経過している、というのが視覚的わかりやすく描いてはいない(宇宙船で主人公たちを待っていた乗船員が歳を取っているというぐらい)。

おそらくその後の展開で地球から送られてくるビデオレターの息子の成長を描き、そちらに注目させるためではないだろうか。



■ 存在意義を描く『セス・アイボリーの21日』


地球と別の惑星とで時間の流れ方が違うというのを見て、星野之宣の短編『セス・アイボリー21日』を思い出した。
新海誠監督の初期作品『ほしのこえ』も同じ設定だった。

『ほしのこえ』では地球との距離が離れ、好きな人と離れれば離れるほどメールが届くのが遅れてしまう。
つまり少女時代に書いた文章を読む頃には男はもう大人になっている。
この隔たり、距離感が新海作品のせつなさだ。

『セス・アイボリーの21日』はどうか。
生命の成長が異常に早く進む惑星に不時着したセスは、自身の老化の速度から残り数日で老衰で死ぬことを悟る。
救援を待つまでクローンを育てることにしたセス。
初代セスが老衰死するころ、2代目セスが少女となり、初代セスを看取り、自らの細胞からクローンを育てる。
わずか数日しか生きられない2代目セス。
3代目セスは救援の宇宙船がくるのでその後も生きられる。

今まで生きてきた初代セス。
今後を生きていく3代目セス。
そして数日だけしか存在しなかった2代目セス。
自己はどこにいるのか。

『インターステラー』では惑星に取り残されたアメリアを救うために再び宇宙に飛び立つクーパー、というラストです。
全員が救われる映画なので個人的には物足りないです。


■ 愛を描く『漂流教室』


もう一つ思い浮かべたのが楳図かずお『漂流教室』です。
小学校ごと荒廃した未来に飛ばされた子供たち。
主人公翔(しょこたんの本名はしようこなんだけど、芸名はこのマンガから取ったそうですね)は荒廃した未来を生き抜く決意をします。
突然息子を失ってしまった翔の母親は、息子を救うためにありとあらゆる手段を試す。周囲からはキチガイのようにしか見えないが、構うことなく息子のために行動します。
その行動が未来の息子を幾度となく助けます。

なぜ現代と未来がつながったのか。なぜ翔の母親だけが救うことができたのか。
それは愛としか表現されていません。


クーパーと娘マーフィーのつながりも愛と表現されています。
ブラックホールから5次元に到達したクーパーは過去に干渉しようとしますが、すでに起きたことは変えられませんでした。
地球を救うための理論を導き出すためにブラックホールのデータをモールス信号で送るクーパーはやがてマーフィーの理論に救われます。


結局「彼ら」がどんな存在なのか、なぜクーパーが選ばれたのか、などは一切描かれていません。
「愛は地球を救う」と書くとチープに見えますが、この映画はまさにそのことを描いていました。


『インターステラー』を見たいと思ってる方も、見たけどもっと深く考えたいという方も、ぜひ『ほしのこえ』、『セス・アイボリーの21日』、『漂流教室』をご覧いただきたいです。
SFの哲学性がより身近に感じられることでしょう。

『恋するハローキティ』が描く残酷な世界 


演劇女子部 「ミュージカル 恋するハローキティ」を鑑賞しました。

ハロプロのJuice=Juiceがメインキャストを努めるミュージカル。
ちなみに僕はJuice=Juiceでは宮本佳林ちゃん推しだ。ショートカットだから。
スマイレージはおはガールだった子が好きだったけど辞めてしまった。
℃-uteでは岡井ちゃん推しだ。ショートカットだから。あとバナナ塾に出てていい奴だったから。
Berryz工房ではももち。ももち結びじゃない時が好き。顔が。プロ根性も素晴らしいし。
モー娘。は鞘師ちゃん推し。顔が好き。モー娘。のメンバーは大体好きです。

という感じで最近めっきりハロプロに詳しくなってきました。
連れの勧めで動画とか見てたらおもしろくて。


ということで舞台の感想です。
ネタバレ含みますので残りの公演やDVD化をお待ちの方はご了承の上お読みください。


ストーリーはこうです。
おもちゃの世界の住人であるキティは人間界のおもちゃに魂を埋め込まれ人間を笑顔にするのが至上の喜びだ。
だがおもちゃになると音も聞こえず、目も見えず、しゃべることもできなくなる。ただ温度だけを感じることができるのみになってしまう。
神様に選ばれ人間界の人形に魂を移すことができたキティ。抱きしめられ幸福を感じるが、それは長く続かなかった。少女の涙を感じ、すぐに雨の中外に投げ捨てられてしまったようだ。
冷たい中凍えるキティ。
そんな中男の子が人形を傘に入れ頭をなで、立ち去る。
捨てられてしまった人形は神様に回収され、キティは再びおもちゃの世界に戻ることができた。
キティは自分を助けてくれた男の子に会うため人間になりたいと神様に懇願する。そこで神様は「正体がばれないこと」「3日間」「好きな人とキスをすること」を条件に出す。これをクリアしなければこの世からキティという存在が消滅する、と。

学生になったキティは人形を救ってくれた男の子と同じクラスになり、その子の優しさに触れ好きになる。
だが実は人形を捨てたのはこの男の子の元カノでありクラスメイトの少女だったのだ。
男の子を独占することでいじめに遭うことを恐れ人形を捨てたのだった。
キティは笑顔にすることができなかった少女を救うか、男の子とキスをし人間として居続けるかで苦悩するが、おもちゃとしての使命を果たすかのように少女と男の子を復縁させてこの世から去る。

神様の計らいで、再びおもちゃになることを許されたキティは、再度少女のもとへ人形として旅立つ。


■ 売れるスタダと売れないハロプロ


アイドルのミュージカルということで甘く見てましたけど、実際に鑑賞したらとても素晴らしいミュージカルでした。
かりんちゃんはキティ役でひたすらきゅるんって役でかわいかったです。

連れがあかりちゃん推しなのでいろいろ奇行(笑)を聞いてたんだけど、舞台上ではしっかりと女優さんだったし美人で素敵でした。

一番すごかったのがさゆきちゃんです。
顔は全然タイプじゃなかったので興味無かったんですけど、ダンスもうまいし歌がすごかったです。
役柄がクラスを仕切ってて男の子に惚れるがゆえに近づいていく女の子に悪さをする、という立場だったんだけど、その転落というか苦悩の歌が鬼気迫るすごさでした。

ハロプロのこの層の厚さは素晴らしいですね。
想像を絶するほどの練習を積み重ねてきたのでしょう。
しかもこの時期はツアー中らしく、ミュージカルの練習もツアー練習もしていたということで、アイドルとしてハロプロにかなう存在はいないのではないか、と感じました。
でも売れてるのはスタダ。
ももクロの後輩グループであるしゃちほこやたこ虹がホールを易々と埋めているのに対し、ハロプロはチケットが即完売するということはあまりないようです。
今度の水曜日に行われる道重さゆみ卒業コンサートは倍率が高かったようですが。


クオリティが高い。でも売れない。
これはマンガでも映画でも絵画でもそうでしょう。
絵がうまい、映画の制作費に何億もかける、写真と見間違うほどの絵画である。
だからといって売れるわけではありません。

人は人柄に惚れます。
ダンスや歌がうまいから好きなんじゃなく、好きな人がたまたまダンスや歌がうまかったんです。
「好きになる」のが先で、「ダンスや歌がうまいから」という理由は後付けなんです。
そして好きになることに理由はありません。気づくと好きになっている。

スタダは好きになってもらうのがうまいのでしょう。
ハロプロはプロ集団と言われることもあるほどで、アーティストとしての見せ方がうまく、彼女たちの人柄がなかなか見えません。
ですが接触イベントはあるので深いファンは深く、表面的にしか知ることができない非ファンのドルヲタとの落差は開く一方でしょう。
その点スタダはまずももクロが切り開いた道があるので他の後輩グループに入りやすくなっています。
そして歌唱力やダンスパフォーマンスはハロプロに比べうまくないため、そこに惹かれるというのはなく(つまり上手い下手はさほど気にならず)むしろベースから逸脱した部分に惹かれることがあります。
さらにバラエティ番組などを見ることで人柄に触れる機会があるのでより好きになっていく。


ハロプロは毎週YouTubeで「ハロ!ステ」という1時間番組をアップしていて、ここでステージの裏側などを無料で知ることができるんですが、知らない人が多数だと思います。

早い話が、ハロプロは戦略が下手なんじゃないかな、ということです。
でもファンからの資金回収の仕方ががっちりしているので崩壊することはないでしょう。

ちなみに、48グループは人数が大量にいて、しかもメンバーの所属事務所がバラバラということもあり、よほどうまくやらないと資金面で崩壊してしまうんじゃないかと危惧しています。

ももクロ・ハロプロ・48グループの三つ巴のパワーバランスと、そこを目指す多数のアイドルグループのためにも48グループにはまだまだがんばっていただきたいです。
そしてハロプロも早くスタダを脅かす存在になって欲しいんですよね。
運営の体制もパフォーマンス能力も勝ってるんだから、あとは売り込み方かなと思います。
道重さゆみ卒業による世代交代がどうなるかというのがとても重要だと思います。

追われるももクロよりも何かを追い続けるももクロの方に魅力を感じがちな僕です。


■ キティは果たして救われたのか


話を物語に戻そう。

感覚を失うことで人形になり、捨てられ、人間になり様々な感情を学び、再び感覚を失った人形となったキティ。
彼女は幸せなのだろうか。

以前、生物の違いが倫理観の相違(人からすればとてもじゃないが幸せに見えない)になることを書いた。
参照:「おじゃる丸「小石いろえんぴつ」と藤子不二雄「ミノタウロスの皿」に共通する倫理観


おもちゃではない我々には、キティが幸せになったようには見えないが、キティはそれが幸せなのだろう。
だけど、人間に3日間だけなり、自分を捨てた持ち主の心情や、雨に濡れる自分を助けてくれた男の子に恋をしたキティを知っている我々には、彼女が再び少女の人形になることが幸せには見えない。
おそらく意図的にそのような不穏な物語にしていると思われる。

なぜなら人形になっても聞こえたり見えたりできても良く、ラストもいかようにも変えられただろうからだ。
例えば人間を経験したキティは以前の人形と違い、持ち主が抱きしめた時に以前以上の幸福感を感じる、などだ。
人の心を知ったキティは感覚を失っても抱きしめた人に何かあたたかいものを与え返す存在へと成長した、というラストでも良かったはずだ。
でもキティはキティのままだった。

結局人形は、持ち主の言いなりで、人形側からは何もできないのだ。
これをアイドルが演じるというのがとても不穏に感じられるだろう。
確かにアイドルは意思表示ができる。
でも結局それすらも我々ファンからすれば「アイドル」という生き物があらかじめプログラムされた範囲内でのみの反応でしかないように感じられる。
すべてのアイドルは誰もが指原莉乃のように枠を逸脱して行動したりはできないのだ。

アイドルを愛するには、様々な感覚を失い自己を犠牲にしているのを知らないまま一方的に熱を伝えるしかないのか。
人形からは何も伝えてこない。
ただ人形はかわいい姿のままだ。

「恋するハローキティ」はタイトルに反してとても恐ろしく、とても考えさせられる物語だった。


映画『最後の命』とマンガ『MONSTER』から善ゆえに悪になり世界から退出しなければならない逆説を学ぶ 


映画『最後の命』に描かれている善と悪の基準は何か。

先日この映画の公開記念トークイベントに行き、松本監督を始め社会学者の宮台真司先生や小説家の岩井志麻子先生のお話を聞きまして、大変興味を持ちました。
願わくば映画を鑑賞した今、またあの面子でネタバレ全開のトークを聞きたいです。

ということで以下の感想はネタバレを含みますのでご了承の上お読みください。



ストーリーはこうです。
子供の時にホームレスの集団レイプを目撃した二人の少年。青年になり、明瀬(柳楽優弥)は誰かに触られるのを極端に嫌う男になり、冴木(矢野聖人)は連続強姦魔の容疑で指名手配となった。
その二人が久しぶりに再会し、その夜明瀬の留守中に明瀬の部屋でデリヘル嬢が殺されていた。
事件の真相を悟り冴木を探す明瀬が最後にたどり着いたものとは何か。


この映画を見て浦沢直樹のマンガ『MONSTER』を思い出した。
以下『MONSTER』のネタバレになります。

このマンガはDrテンマという日本人医師が少年ヨハンの命を救ったことから始まる。
ヨハンは青年となり人を惑わし、人を殺すことになんのためらいもない悪のカリスマとして君臨していた。
ヨハンの妹アンナは兄を追い求める健気な少女という感じ。

だが実際に悪の英才教育を受けていたのはアンナの方であり、ヨハンはアンナを悪に染まらせたくないという善の意志でアンナからすべてを受け取り悪へと堕ちる。
本当の怪物アンナを救うため「なまえのないかいぶつ」となったヨハン。
善が悪を呼び込み、悪が善を浮かび上がらせる。


では『最後の命』はどういう構造になっているだろう。

子供の時にレイプ事件を目撃した冴木は自分の中にあるレイプ願望に目覚める。
明瀬のあこがれでもあった香里(比留川游)と冴木は付き合うが、香里の「冴木くんの好きにしていいよ」という言葉で疑似レイプをお願いされ、それが本気で怖くなり二人は別れる。

冴木のレイプ願望を発現させたのは自分ではないかと苦悩し、精神的に不安定になっていく香里。
香里を壊してしまったのは自分ではないかと苦悩し、それでもレイプ願望を消すことができない冴木。
そして冴木も香里も救えないでいる明瀬。

子供の時のレイプ事件の場にいた二人は、お互いのことを「この世から消えればいいのに」とほのかに思っている。
一緒にいた冴木さえいなくなれば、自分は女性に触れられるのを嫌うことはないだろうと考える明瀬。
一方明瀬さえいなくなれば自分のレイプ願望のおもむくままに女性を傷つけられるだろうと考える冴木。


マンガ『MONSTER』では、アンナがいたからこそヨハンは善の道を進み、結果悪に染まることを選んだ。
映画『最後の命』では、香里の悪を全部かぶるために善の行動を取り、悪に染まることなく冴木は自殺した。そして冴木を失った明瀬は世界が終わることなく香里と共に歩んでいく。

本当の悪香里の人殺しの罪をかぶり悪を引き受けてこの世界から消えた冴木。
これは悪のカリスマの素質を持つアンナの悪をすべて引き受けてこの世界から消えたヨハンと同じ構図だ。

冴木はあのレイプ事件を見て勃起していた。
でもそれが、元々冴木に備わっていた悪なのか、それともレイプ事件のせいで植えつけられた悪なのかわからず苦悩し続ける。疑似レイプを繰り返す冴木は強姦魔に仕立て上げられ逃亡する。
そして自分が壊してしまったと思い込んでいる香里のために殺人の罪をすべてかぶる。


罪とはなんなのか。
レイプ願望を持つ者すべてが罪人なのか。
殺人願望を持つ者すべてが罪人なのか。
悪の願望を持っているというだけで自分の死を選ぶ純粋さを持つ男。
何も知ろうとせず鈍感に生き、大事なものを傷つけられ、また失うことでようやく世界につなぎとめられる男。

善とは何か。
悪とは何か。

この映画が示すのは、徹底的に善と悪について考え抜いた者だけがこの酷薄な世界をかろうじて生き延びられるだろう、ということだ。

『キス我慢選手権 THE MOVIE2』はつまらない日常を破壊する希望 


映画『ゴッドタン キス我慢選手権 THE MOVIE2 サイキック・ラブ』はすごい作品だ。
なぜならつまらないこの世界を破壊するための作品だからだ。

前作についても公開当時評論を書きました。

参照記事キス我慢選手権という破壊


以下の文章はネタバレを含む評論となります。了承の上お進みください。




■ 「アドリブ」がシステムを書き換える

この映画は劇団ひとりの名セリフがすごいと思われがちだ。
だが彼は映画マニアであり状況に応じてアーカイブからキャラクターを選び取ってるだけだ。
その証拠にこの作品中彼はキャラを何度も変える。
学園の人気者キャラ。童貞キャラ。田原俊彦などなど。

もちろんすごくおもしろいし、僕も何度も笑わせてもらった。映画マニアとしてアーカイブから瞬時に引用し演技をするスピード感なども当然すごいし、全編アドリブでその対応をし続けるというのも超人的だろう。
だが劇団ひとりのすごさはこの程度で終わらない。
彼は内部からシステムを書き換える存在なのだ。

一作目は最終的にゴッドたん(観客)が劇団ひとりを窮地に追い込んでいたのだ、というオチになっていた。
セリフを与えられ物語を書き換えることができない渡辺いっけいは劇団ひとりに「アドリブで世界を変えてくれ」と託して物語から退出する。
メタ構造になっているのだ。

二作目もメタ構造になっているが一作目とは種類が違う。
本作は『トゥルーマン・ショー』や『マトリックス』のようなメタ構造だ。
学園生活を何度も繰り返し送る姿は番組として多くの人が視聴しているようなのだ。
本人は電極につながれ、仮想現実世界で学園生活を送る。

つまり彼らは我々視聴者のために何度も不幸な目に遭っているのだ。
その円環の理を断ち切るのが劇団ひとり、ということだ。
(まどマギで言うまどか。しかもまどかは世界から退出することでシステムを書き換えたのに対し、劇団ひとりは内部に存在したままシステムを書き換えたのだ)

一作目は「アドリブ」というのを謳っていたが、実際は物語から逸脱しないようストーリーテラーが常に劇団ひとりに付き添って行動していた。
今作はなんと、物語の途中でキスをし、しかも製作者はルールを無視し(つまり世界を改変せざるを得ず)ストーリーを続行した。そしてラストの展開も劇団ひとりが黒幕をお父さんに設定するというアドリブを放り込むことで書き換えざるを得なくなったのだった。

キスしたら終了だけど映画だからある程度はキスしないで進むだろう、というゆるい了解を壊した。
だからこそアドリブの魔力というか強大さというか、様々なものが絡まりあった魅力が素晴らしい形でこの作品に刻み込まれていた。


僕はこの作品を見て何度か落涙した。
それは物語としての美しさよりも(何度も言うが映画アーカイブのつぎはぎでしかないからだ)、一回性のありえなさ(ライブ感!)と、物語を超越し改変するすごさ(アドリブ!)に撃ち抜かれたからだろう。


そして当たり前のことだが、「お笑い」というのは日常の破壊にあるのだった。
常識がまずあり、そこから逸脱することで笑いになる。
破壊者劇団ひとりが「キス我慢選手権THE MOVIE2」をも逸脱するのは当たり前過ぎるほど当たり前のことだったのだ。

膨大なアーカイブを備え、さらに日常を破壊する者劇団ひとりのすごさにひれ伏すしかないのだ。




映画『TOKYO TRIBE』の無意味な振動 

園子温最新作『TOKYO TRIBE』は映画でもミュージカルでもない。
映画とミュージカルをぶち壊すためのバトル。それがTOKYO TRIBEだ。


以下ネタバレを含みます。了承の上お進みください。



原作「TOKYO TRIBE2」も「TOKYO TRIBE」も読んだことが無いけど、きっとこの映画は原作なんかぶっ飛ばしちまってるに違いない。そう思わせる作品だ。

ストーリーは有って無いようなもんだ。
ブクロを支配してるトライブがムサシノをぶっ潰してTOKYOを支配しようとし、ムサシノは仲間の死をきっかけにほかのトライブと団結してブクロに挑む。

ブクロのトップ「メラ」がムサシノの「海(かい)」にケンカをふっかけた理由が「自分よりちんぽがでかいから」というのが笑える。TOKYOをバラバラにするような大事件のきっかけがちんぽだ。この映画に意味なんか無いだろ?


ウォンコンから家出して日本にやってきた少女「スンミ(清野菜名)」が可憐で美しく、そして力強い。
パンチラアクションは『愛のむきだし』の満島ひかりを彷彿とさせるが、個人的には『愛のむきだし』よりもスピード感と軽やかさがあって好みだ。
何より清野菜名がかわい過ぎる。
ヌードも披露してるんだけど、エロい感じは無く、無名の子が脱いだという印象よりも、スンミの疾走感と美しさの方が印象に残るんだ。
(あとで調べたらこの子はいろんな映画に出てるし、「進撃の巨人」にも出るらしい売れっ子だった。全然チェックしてなかった。絶対売れる女優じゃないか!)


スンミがエロく感じないことにもつながるけど、ここに出てくる犯罪がはびこってる荒廃した街はどこも臭くない。
汚れてるんだけどどの場所も匂いが無いんだ。

『冷たい熱帯魚』や『恋の罪』ではあんな匂い立つシーンを描いてきたのに。
『TOKYO TRIBE』は作り物なんだ。フェイクだ。

DJグランマが音楽を操ることで物語が動き出すんだけど、このDJグランマのDJっぷりが下手過ぎて、とてもじゃないがグランマに思えない。
刀で人を切っても刀に一切血がつかない(『地獄でなぜ悪い』ではあんなに血しぶきが飛び交ってたのに!)。
ブクロに住むヤクザ「ブッバ」が女にフェラさせるシーンでも、女がどいたあとでちんぽを出していない。
などなど、いろいろ嘘くせぇシーンがいっぱいある。

そう。この映画は映画をバカにしてる。
ストーリーなんか無い。
そして登場人物たちも邪魔になったら一瞬で死なせてしまう。

耳心地が良い音楽と、口汚いラップと、メラ(鈴木亮平)の筋肉。
これらがあれば十分。


映画で映画を撮ってもなんもおもしろくねぇんだよ!
映画を壊す。ストーリーもちんぽがきっかけ。それだけで十分だ。

だって見てておもしれぇだろ?音楽に身体が揺れるだろ?スンミがかわいいだろ?
他に何がいる。


『TOKYO TRIBE』は映画じゃねぇ。
でもおもしれぇ。


ただ一つだけ言わせてくれ。


竹内力がマジほんと邪魔!
叫ぶし顔がマジコントシャラップ!
ラップに字幕もすげぇ邪魔!
力に字幕つけてくれ!


偽物が壊れすべてがひとつになったTOKYO TRIBEを見てからリリックが溢れ出す。

みんな!この映画は映画館で見るようなもんじゃねぇ!
クラブで流してバカ笑いしながらリリックでディスる!
酒飲みながら女の子にちょっかい出して殴られながらリリックを嘔吐する!
そんなミュージックビデオだ!

今すぐ身体を揺らせ!リリックを紡げ!