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実存浮遊

映画やアイドルなどの文化評論。良い社会になるために必要な事を模索し書き続けます。

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高城れにさんお誕生日おめでとうございます 

高城れにさん、お誕生日おめでとうございます。

日を追うごとに美しさが増していくあなたを応援していることが、どこか誇らしく感じてしまいます。

周りの方達やファンのみなさんを優先し、自分のことを犠牲にしてしまうあなたを、みんな大切に想っているでしょう。
繊細で壊れてしまいそうな少女だったはずが、頑強な仲間たちが自然と集い、自身も強い意志を持つ素敵な女性へと成長したのですね。

れにちゃんが、自分はダメダメでみんなに恩返ししなきゃ、と思うことで、れにちゃんに救われた人達が恩返しするために様々な思想を抱き行動する。
お互いに想い合うこの関係性がとても素晴らしいと感じています。

今後れにちゃんでなければならないことが増えてくるでしょう。
不安が襲うことも増えるかも知れません。
ですがあなたには数多くの仲間がいます。
近くにも遠くにも、老若男女、国籍を超えた仲間がいます。
ぜひのびのびと、れにちゃんの思うままに生きて欲しいです。


25歳の誕生日本当におめでとうございます。
今年もお祝いでき本当に嬉しいです。
新しい出会いにあふれた一年になりますように。

『半分、青い。』の眩しさと切なさ 

『半分、青い。』の眩しさと切なさ


連続テレビ小説『半分、青い。』第11週「デビューしたい!」(第61回)がとても素晴らしかった。


鈴愛(永野芽郁)と律(佐藤健)は同じ日に同じ病院で生まれ、隣同士のベッドで泣き声を聞き合った仲だ。

鈴愛は小学3年生の時に左耳の聴力を失い、その悲しみを律に告げ、支えてもらった。
律も、喘息持ちだった少年期に、明るく元気な鈴愛に助けてもらったと感じていたようだった。

二人は高校卒業と同時に東京に上京する。
律は大学生として勉強や恋愛を楽しみ、鈴愛は漫画家のアシスタントとして日々一生懸命過ごしている。
少女漫画の巨匠に恋愛を何も知らないと叱られる日々だ。


鈴愛と律は、恋愛感情は無いとしながらも、恋愛以上の強い絆を共に感じていた。

だがそこに異分子が訪れる。
伊藤清(古畑星夏)は高校時代に律が一目惚れした女性で、大学で再会した二人は急速に仲を深める。まるで会えなかった時間を埋め尽くすように。

律の全てを自分の物にしたい清は、律を我が物顔で扱う鈴愛に嫉妬する。

「律は私のものだ、返せ」

清とケンカをしたことでも、学生時代の仲間の写真を破られたことでもなく、律は鈴愛のこの言葉に決定的なものを感じ取っていた。

恋人同士ではない。だけどいつも鈴愛の隣には律が居て、お互いがお互いを想い合っている。恋人以上に相手のことを理解し、家族以上に強い鎖でつながっている二人。

恋人がいる律はそれを恋愛と勘違いすることができず(ドラえもんとのび太の関係と評する)、恋人ができない鈴愛はいまだに恋がなんなのかわかっていない。


◼️ 東京 加齢 プリミティブ

標準語で話し合う律と鈴愛の姿が、もうそれだけで切ない。
誰もいない空間で、二人は故郷の言葉で恥じることなく会話してもいいし、岐阜弁の方がお互いの感情をぶつけられるはずだ。
それでも律は標準語を崩さない。
なぜなら二人は別れるからだ。
標準語。二人の距離がもう縮まらないことを示すのにこれほどまでに効果的なものがあるか。

律は大人になってしまった。標準語も操れるし、優男の友人やかわいい彼女をも虜にできる。
一方鈴愛は大人になることを拒む。
漫画家の先生に発破をかけられて恋愛に走り出すが、人を好きになるということがよくわかっていないようだ。

正人(中村倫也)に手を払われた時、鈴愛は何日も大泣きしたが、まるで漫画のような泣き方で、失恋した女の子は泣く、というルールに従っているかのようだ。
律との別れの時はどうか。
笑顔で言葉を交わし、最後にそっと涙をこぼす。

鈴愛は失恋よりも悲しい別れを体験し、半身を失うことで大人にさせられた。

予告を見る限りでは、今後その悲しみが漫画作品へと転換されていくと思われる。
七夕の日にはなればなれになった二人の距離は何光年離れてしまったのだろう。
ロボット工学の博士になった律が鈴愛に左耳の聴力を蘇らせる機械を発明し、律の声をプレゼントする、というのは出来過ぎか。


正人だけでなく律も居なくなってしまい、鈴愛はこれからどうなってしまうのか。
まだ月曜日ですよ、北川先生!

ももクロは砕けない 



ももクロちゃん10周年おめでとうございます。
そして、続けてきてくれて本当にありがとう。
みなさんが失ってしまったものと、叶わなかった願いと、僕たちに与えてくれた大いなる希望について考えながら、このブログを書いています。


桃響導夢2日目の開演前。ももクロがきっかけで知り合った友人と共に飯田橋ラムラに行ってみました。
2008年、あかりんとあーりんがももクロに加入。その後様々なメンバーが辞め、さらに2011年にはあかりんが、2018年には杏果ちゃんが辞め、ももクロは4人となりました。

飯田橋ラムラから東京ドームまで徒歩で約15分。
距離は約1,000メートル。

ももクロが歩んだこの距離は、とてもとても遠く、多くの試練と悲しみがももクロを襲いました。
それでも歩みを止めなかったももクロは、たくさんの仲間と出会い、共に励まし合って東京ドームまでたどり着きました。
ひとつの笑顔の裏には幾重にもつらさや悲しみや苦しみが折り重なっていたのです。


「『Z』の誓い」という曲は、永遠だと思っていた未来が壊れてしまう事を知り、そうすることで戦士にならざるを得ない悲哀と、迷いもがき苦しみながらも、仲間たちと愛や希望を紡いでいく力強さが描かれています。
そのステージでは、青い光と緑のレーザーが会場を包み込んでいました。
ももクロは辞めても仲間であることには変わりありません。
あかりんや杏果ちゃんが4人の背中を押しているのだと感じました。


■ ももクロという存在にありがとう

最後のコメントでれにちゃんは、これまで支えてくれたみんなを支えられるようにもっと強くなりたい、と言っていました。
いつも支えられているのはこっちの方なのに、れにちゃんはどこまでも謙虚です。
自己評価が低くて、自分のことよりも相手のことを最優先で、自分が傷つくことも厭わないれにちゃんが、ものすごく心配になってしまいます。
でも中野サンプラザの映像で見たか弱い少女はもういません。
どこまでも大きくどこまでも深い愛で多くの人たちを包み込んでくださいます。
れにちゃんがももクロで居続けてくれて本当に良かったし、高城れにがいないももクロなどもはやももクロではありません。
一生ももクロだと宣言してくださったからこそ「ももクロは砕けない」と確信できるのです。

本当にありがとう。


あーりんは最後のコメントで、あかりんや杏果ちゃんだけではなく、かつてのメンバーの名前を東京ドームの舞台で挙げてくれました。
たとえ在籍日数が短くても、共に歩んできた仲間に敬意を表していて、とてもあーりんらしいなと感じました。
オリジナルメンバー3人に囲まれ、さらに最年少という立場であり、重圧なども感じたかも知れませんが、パフォーマンスに対する真摯な姿勢と、揺るがない精神力と、物怖じしない豪胆な構えは、ももクロを力強い存在へと押し上げてきたと思います。

ももクロに加入してくれて本当にありがとう。


しおりんは最後のコメントで、ここに至るまでは必然で、過去を振り返るのはももクロらしくないのでこれからに期待してください、と力強く宣言してくれました。
メンバーのことが大好きなしおりんがももクロに居てくれて本当に良かったです。
何事にも一番になれる実力と身体能力と容姿を兼ね備えているにも関わらず、見えない部分でのケアや、得点へのアシスト役に徹する姿は多くのファンを唸らせてきたことでしょう。
サブリーダーから夏菜子ちゃんを支える役を自ら率先して引き継いだのだと思います。
夏菜子ちゃんがどこまでも輝いて世間を照らしているのだとしたら、それは紛れもなくあなたが人知れず力を尽くしてきたからでしょう。
個人的な願望を言えば、杏果ちゃんが辞めてしまった今こそが、しおりんからスーパーしおりんになり、多くの人たちの力を得て超元気玉を作り上げる時だと思っています。
今後のご活躍を大変楽しみにしております。

ももクロを支えてくれて本当にありがとう。


■ 百田夏菜子の弱さと強さ

あかりんが脱退する時、夏菜子ちゃんに対して「一番心配だ」と告げました。
全然リーダーに向いておらず、あかりんのサポートがあって機能していたチームから精神的支柱が脱退してしまうのですから、それは当然でしょう。
5人のももクロになり、誰もが認めるリーダーとなり、ももクロとしても百田夏菜子個人としても注目される存在にまでなりました。
ですが裏ではたくさん泣いていたのですね。

夏菜子ちゃんがステージ上で泣きながら正直に不安を吐露してくれたことが、ファンとしてすごく嬉しかったんです。
仲間と認めてくれたんだな、と勝手に思いました。
自分の弱さを見せるのはものすごく勇気が要ります。
笑顔をモットーに掲げてるグループのリーダーなら尚更勇気が必要だったでしょう。
その反面、杏果ちゃんが辞めてしまったことで、ものすごく心が弱ってしまったのだな、と強く伝わってきました。
夏菜子ちゃんがリーダーになってから何人もももクロを辞めてしまったのは事実で、そのことが夏菜子ちゃんを大きく苦しめてきたのかも知れません。
あかりんの時はあかりんの夢があるのでそれを後押しするという名目があったでしょうが、杏果ちゃんの場合は夏菜子ちゃん自身に言い訳すら許されない状況だったと言えるでしょう。

どうしてもっとメンバーのケアができなかったのか、と。
もっと早く杏果ちゃんの気持ちを聞き出せていたら、と。
リーダーとしての重圧がかつてないほど襲いかかってきたのではないかと想像するのは難しくありません。

杏果ちゃんが辞めることが決まった時、目の前が真っ暗になりどうやって進んでいいのかわからなくなってしまったと、涙ながらに語ってくれて、仲間として認められたと嬉しく思ってしまう自分と、ここまで追い詰められているのに何もできない悔しさを感じる自分がいました。

だから、「お前らついて来い!」と叫んでくれたのがとても嬉しかったです。
一本一本は小さな光かも知れないけれど、それが何人も何人も集まって、ももクロちゃんが帰ってくられる場所と、これから進むべき未来を照らす灯台になれたのだとしたら、これほど嬉しいことはありません。

前に出るのが苦手で、闘争心も薄い平和主義で、リーダーに向いてないとまで言われた夏菜子ちゃん。
自責の念やリーダーの重圧に何度も押しつぶされてきたことでしょう。
残酷かも知れませんが、それでもあなたこそがももクロのリーダーだと思ってしまうのです。
出会った人達を幸せにしていく夏菜子ちゃん。何度倒れても立ち上がり続ける夏菜子ちゃん。
ももクロのリーダーはこの世界で百田夏菜子ただ一人なんです。

ももクロに入ってくれて、ももクロのリーダーになってくれて、本当にありがとう。


ももクロは、泣きながらでも、絶望しながらでも走り続けることができると証明してくれました。

ダイヤモンドの宝石言葉は「変わらぬ愛、不変」などだそうです。
ももクロがいろんな人のペンライトの光を受け、いつまでも輝き続けますように。


「失わなければ与えることができない」 映画『クソ野郎と美しき世界』の優しさ 



新しい地図の3人稲垣吾郎、草彅剛、香取慎吾の主演映画『クソ野郎と美しき世界』を見ました。
事前情報無しで見たのですが、タイトルからある期待をしていました。
それは「復讐」です。

ですが良い意味で裏切られたと共に、自分の浅ましさを恥じました。
この3人は何も恨んでなどおらず、むしろこの世界の美しさに感謝していました。


以下、作品の内容に触れます。
鑑賞後にお読みください。


鑑賞後僕はすぐにこうつぶやきました。

「『クソ野郎と美しき世界』面白かった。
「失ってこそ得られたものがある」というテーマが込められた4編。
かつて与える側だった者たちが全てを奪われ、他の人たちから与えられることにより再び与える者として歩き出す。
この世界は美しい。クソ野郎どもだからこそ気付ける輝きがある。」


この映画のテーマは「失うことでしか得られない輝き」です。

『ピアニストを撃つな!』ではピアニストの命である手を失います。

『慎吾ちゃんと歌喰いの巻』では歌と絵を失います。

『光へ、航る』では息子と小指を失います。

これら3編を経て全てが『新しい詩』へとつながっていきます。


手を潰されたと思われたピアニスト。実は潰そうとしたヤクザ(大門:浅野忠信)の手が潰れていました。
しかも大門は自ら全ての指を潰すよう部下に命令し続けたのです。

大門は奪う者の象徴でしたが、ピアニストの旋律により奪われる者へと身を投じたのです。
手を失う前の大門と『新しい詩』の大門を見比べれば一目瞭然。失う前がクソ野郎で失った後は輝いています。


『慎吾ちゃんと歌喰いの巻』では、香取慎吾が本人役で登場します。
歌を喰う少女により、香取慎吾は歌と絵を奪われます。
作中では歌を忘れたのではなく自分の中から歌が無くなってしまったと表現されています。
まさに奪われたわけです。

ですが歌と絵がブレンドされたベーグル(?)を食べることでこれまでに無かった歌と絵を獲得します。


『光へ、航る』では、ヤクザを辞めるために小指を失った男(オサム:草彅剛)が登場します。
オサムの元妻(裕子:尾野真千子)は息子の治療費のために美人局で金を稼いでいる。植物状態の息子の右手をある子供に移植しており、その右手の持ち主に会いに行くロードムービーです。

東北まで行くも、古い地図がまったく役に立たず、代わりにスマホで新たな行き先を見つけるのは象徴的でした。


野球選手を夢見ていた息子(航)の右手は沖縄の少女(光)に移植されていました。
息子とキャッチボールをしたことが無かったオサムは、光のおかげで航の右手から投げられたボールを受けることができました。


長々と書きましたが、最初に書いた通りこの映画のテーマは「失ったことでしか得られない輝き」です。
この世界の美しさは何かを奪われた者にこそ強く輝きます。


最後に。
園子温監督は映画『ヒミズ』のラストを原作と変え、主人公を自殺させるのではなく生かしました。そのことについてこう語っています。
「絶望に勝ったんじゃない。希望に負けたのだ」と。

それに対し『ピアニストを撃つな!』で、スクリーンに向かって駆けながら「愛してる!」と叫びまくる姿は、『ヒミズ』のラストを反転させているように感じました。

「希望を失ったんじゃない。絶望に勝ったのだ」と。

映画『スリー・ビルボード』と「風が吹けば桶屋が儲かる」 



映画『スリー・ビルボード』(原題 Three Billboards Outside Ebbing, Missouri)は今見るべき作品だ。
『スリー・ビルボード』公式サイト

あらすじはこうだ。
娘をレイプされ焼き殺された母親ミルドレッド。
7ヶ月経っても捜査が進展しないことに苛立っている。
差別主義者の警官は黒人への暴力で憂さ晴らしをしており、ミルドレッドはしびれを切らしある行動に出る。
レイプ現場の近くに建っている3枚の看板にメッセージ広告を出したのだ。

1枚目「娘はレイプされて焼き殺された」
2枚目「未だに犯人が捕まらない」
3枚目「どうして、ウィロビー署長?」

警察署長批判とも取れる広告に警官や町民達が騒ぎ始める。


これだけ読むと、「復讐に燃える母親が犯人を逮捕するまでの物語」だと思うだろう。
だがこの映画は誰も予想できない結末を迎える。

キーワードは「世の摂理は人知を超える」


以下の文はネタバレを含む。



■ アメリカ批判

この映画は復讐劇の皮をかぶったアメリカ批判映画だ。

黒人を虐待する白人警官。
レイプ犯の兵士を逮捕できない体質。
男児を犯す神父と、それを断罪しないキリスト教。
DVやレイプに虐げられる女性達。

展開が目まぐるしく移り変わっていくのは、それだけアメリカには批判すべき悪習がこびり付いているからだ。


ミルドレッドは広告を取りやめるように諭す神父に向かって言い放つ。
「80年代、ストリートギャングの抗争が激化し、これらを取り締まる法律が作られた。ギャングの一員であるならば、例えそいつが寝てたとしても、別のギャングの犯罪により逮捕することができる。神父も一緒だ。例え2階で寝てたとしても、1階で男児を犯す神父が居たら同罪だ。男児へのレイプを見て見ぬ振りする神父にとやかく言われたくない」(意訳)

ミルドレッドはキリスト教ごときでは救われない。
娘がレイプされ、焼き殺された。ただ犯人を捕まえることだけが生きる意味だ。

なぜそこまで、と思ってしまうがある理由が判明する。


■ リグレット


ミルドレッドは娘と口論になる。
車を貸してと頼む娘に「マリファナ吸って運転するような子には貸せない」と断ったのだ。
「歩いていけばいい」という母親に「歩いて行ってやる!途中でレイプされても知らないから!」と反抗する娘。
ミルドレッドはそれに「レイプされればいい!」と突き放すのだ。

そして娘は実際にレイプされ、さらには焼き殺されてしまう。

しかも、若い女と暮らしている元夫から「殺される1週間前に娘はオレと暮らしたがっていた」と告げられる。
あの時「レイプされればいい」など言わなければ良かった。もし元夫の所で生活していればレイプされなかったのに。
これら後悔から、自分の罰を剥ぎ取りたい一心で復讐に向かっているように映る。


ウィロビー署長にも後悔があった。
それはレイプ犯をいまだに捕まえられていないことだ。

癌により余命わずかな署長は、ミルドレッドの広告を批判し、病状を伝え取りやめるようお願いする。
だが署長の死期を知りながらもあえて名指しで広告を出したミルドレッドに、署長は翻心する。
ミルドレッドへ匿名で広告料の寄付をし、ミルドレッドのやり方を彼女への手紙の中で賞賛したのだ。

そのような人物であったことに気付いたミルドレッドは、後悔の果てにさらに復讐心をたぎらせる。


3枚のロードサイドの看板広告と、みんなに愛された署長の死により、物語はさらに予測不能な展開になる。
先ほど書いたように、この映画はアメリカ批判が詰め込まれている。
そして、さらに大きなものが描かれている。
この映画は世界の縮図だ。


■ 世の摂理は人知を超える


この映画は展開が読めない。
次から次へと因果が巡っていく。
そして、その因果律は人々の目には見えない。
世の摂理は人知を超える。

「風が吹けば桶屋が儲かる」
だが誰も桶屋が儲かった原因を知ることなどできない。

「人間万事塞翁が馬」
馬のせいで、あるいは馬のおかげで様々な吉凶が起こるが、吉と出るか凶と出るか、そしてその禍福がいつまで巡り続けるのかは誰にもわからない。

この作品はそのような映画だ。


マリファナをやる娘を叱る。
娘がレイプ犯に殺される。
母親が広告を出す。
署長が自殺する。
悪徳警官ディクソンが広告会社の代表に暴行する。
3枚の看板が燃やされる。
ミルドレッドが警察署を燃やす。
偶然そこにいたディクソンが大やけどを負う。
署長からの手紙によりディクソンが正義に目覚める。
偶然レイプ犯に遭遇する。


普通の映画のように、ある結末に向けて順序よく物事が起こらない。
何かのきっかけで悪いことが起こったりほんの少し良いことが起こったりする。
でもそのおかげで、あるいはそのせいでまた良いことや悪いことが舞い込んでくる。

世界は操縦できない。翻弄されるだけだ。
ただ、この映画が優しいのはラストを見れば十分伝わってくる

娘を殺した犯人だと思われた男はDNA判定により別人とされた。
だがどこかで誰かを焼きながらレイプした事には間違いない。
そこでディクソンはミルドレッドに「殺しに行かないか?」と提案する。

レイプ犯のもとへ向かう道中、「警察署に火をつけたのは私だ」と告白するミルドレッドに「あんた以外誰がいる」と、ディクソンはすでに受け止めていたことがわかる。
この優しさは、半殺しにした広告会社の代表レッドから大やけどの入院中にされた行動に依るだろう。
顔まで包帯で覆われたディクソンに誰とも分からず優しくするレッドは、ディクソンであると分かり動揺し罵るが、それでも優しくしたのだ。

何かのきっかけのせいで悪い結果を呼ぶが、そのきっかけは誰のせいでもない。
この映画で一番悪いのはミルドレッドの娘をレイプし殺した犯人であることに間違い無い。
でもこの映画が癒し映画なのは、突き詰めるとすべての物事は誰のせいでもない、ということがわかるからだ。

世の摂理は人知を超える。

すべての物事は、時間を超えて、距離を超えてやってくる。
そして、これからの我々の行いも、時間を超えて、距離を超えて誰かのもとに届く。
それがその人にとって良いことになるのか悪いことになるのかは知るすべが無い。
だから、隣にいる敵も許し合えるはずだ。
ミルドレッドとディクソンのように。


素晴らしい映画でした。


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